第33話:焦げ付いたフライパンと、自爆プロセス
樹海の最深部。
陽の光すら届かない、完全な闇の領域。
足元に広がるのは、ひび割れた黒い大地。濃密な異界の瘴気が、どろりと渦を巻いている。
ペタ、ペタ。
ラフなサンダルが、乾いた枯れ枝を踏み折る音だけが響く。
周囲の木々は立ち枯れ、命の気配は一切ない。
開けた空間。巨大なクレーターのような窪地。
そことぐろを巻いていたのは、小山と見紛うほど巨大な八岐の蛇だった。
システムの放ったS級領域のボス。
エリア消去プログラムの中核。
八つの首が不気味に蠢動し、チロチロと真っ赤な舌を出し入れしている。
鋼鉄よりも硬く、鏡のように滑らかな極彩色の鱗。それが擦れ合うたびに、不快な高周波と極大の磁場ノイズが放たれる。
肌をチクチクと刺す静電気。
間違いなく、これが旅館のテレビ電波を完全に妨害している元凶。
「おい、少し静かにしろ。テレビが映らない」
八つの巨大な頭が、一斉にこちらを向く。
縦に裂けた黄金の瞳。
大気をビリビリと震わせる、鼓膜が破れそうなほどの咆哮。
凄まじい突風が吹き荒れ、木々がへし折れる。巨体が地面を滑るように、猛烈なスピードで突進してくる。
あらゆる摩擦を完全に無効化する滑らかな鱗。戦車砲の直撃すら傷一つ付けずに弾き返す、絶対的な防御機構。
大地を深く抉り、土砂を巻き上げながら迫り来る神話の怪物。
ただ、ひたすらに鬱陶しい。
視界の端で『論理最適化』のスキルを起動。
空中に半透明のホログラムウィンドウを展開する。
『プロセス:対象の物理的移動および摩擦係数』
『ステータス:無摩擦による超高速滑走』
『警告:住人のリラックスタイムの著しい阻害および騒音被害』
真っ赤なエラーログが滝のように流れる。
力任せに分厚い鱗を叩き割る必要などない。
巨大な蛇の移動原理。それは、腹の滑らかな鱗を地面に滑らせること。
ならば、滑らなくする。
使うのは、テフロン加工が完全に剥がれた『焦げ付いたフライパン』の論理。
目玉焼きや肉が、なぜ焦げ付いたフライパンにへばりつくのか。
表面のコーティングが剥がれ、微細な凹凸に食材が入り込んでガッチリと噛み合ってしまうからだ。
ターゲットを、オロチの足元に広がる空間と大地の表面構造に設定。
摩擦係数ゼロの滑らかな鱗に対し、絶対にかみ合う超高密度の「ザラザラ(焦げ付き)」のベクトルを空間に上書き。
ホログラムパネルの実行ボタンをタップ。
カチリ。
赤いエラー表示が、流れるように『正常』へと切り替わる。
ズガガガガッ!
凄まじい勢いで突進してきたオロチの巨体が、不自然な急停止。
いや、止まったのではない。
「引っかかった」。
無敵を誇る滑らかな鱗が、書き換えられた「焦げ付き空間」にガッチリと噛み合う。
無理に進もうと巨体をうねらせるオロチ。
ギギギギギッ!
黒板を爪で引っ掻くような、耳障りな摩擦音。
だが、微動だにしない。
焦げ付いたフライパンにへばりついた卵焼きのように、大地に完全に接着されている。
八つの首が困惑したように絡み合い、ジタバタと身をよじる。
動けば動くほど鱗が空間の凹凸に深く食い込み、拘束はより強固に。
神話級の威厳など皆無。
フライパンにこびりついた、ただの焦げカス。
「よし。これで走り回って騒音を出すことはないな」
ポケットに両手を突っ込んだまま、大地に縫い付けられた巨大な蛇を見上げる。
あとは、この強烈な電波障害の元栓を引っこ抜くだけ。
そうすれば、旅館で全国グルメ特番が見られる。
***
森の木陰。
豪奢なドレスを泥で汚しながらも、フラフラとカケルの後を追ってきた令嬢。
セレナ・フォーン・ブレイブ。
彼女は、息を殺してその光景を見つめ、己の目を疑っていた。
「あり得ない……管理者の最高位プログラムが……ただ地面に縛り付けられている……?」
大規模な魔術の行使もない。
結界の展開もない。
ただ、サンダルで歩いてきて、見つめただけ。
それだけで、絶対の存在であるはずのS級ボスが、ただの虫けらのように大地に縫い付けられている。
「システムの……神の力が、まったく通じない……っ」
ガタガタと震える唇。
管理者に植え付けられた、偽りの記憶。その強固な前提が、眼の前で起きているギャグのような現実によって粉砕される。
彼女の精神は、すでに限界を迎えつつあった。
だが、事態は終わらない。
ゴォォォォォォ……ッ!
大地にへばりついたオロチの八つの首が、屈辱と怒りに激しく鎌首をもたげる。
動けない。ならば、周囲一帯を完全に蒸発させるまで。
オロチの体内、その深奥にある中枢コアが、臨界を超えるドス黒い赤光を放ち始めた。
「嘘……自爆プロセスに移行した……!?」
セレナの引き攣った悲鳴。
極大の熱エネルギーの暴走。
周囲の空間が、強烈な陽炎となってグニャグニャと歪む。
物理的な拘束など意味をなさない、世界そのものを消し去るための自爆の熱量。
森の木々が発火し、パチパチと燃え始める。
視界が真っ赤に染まる中。
俺はサンダル履きのまま、燃え盛る巨大な熱源に向かって、ひどく面倒くさそうに短い息を吐いた。




