第31話:砂嵐の液晶テレビと、アンテナ調整
老舗高級旅館『天月閣』。
特命官が手配した最上級スイート。
広々とした和室。真新しい藺草の香り。
窓の向こうには雄大な富士山。
テラスに備え付けられた源泉掛け流しの専用露天風呂から、湯の音が響く。
冷蔵庫には、最高級の地酒とジュース。
「カケル君、お茶淹れたよ。あ、もうすぐ特番始まる!」
ふかふかの座椅子に沈み込む俺の隣。未亜が上機嫌な声を上げる。
手には高級な茶器。
リモコンの電源ボタン。
楽しみにしていた、全国グルメ特番。これを観ながら夕食を待つ。完璧なスケジュール。
だが。
ザザザザザッ。
大画面の液晶テレビに映し出された無機質な砂嵐。
耳障りなホワイトノイズが響く。
「えっ……? うそ、映らない……どうして……?」
未亜の肩が落ちる。
せっかくの温泉旅行。美味しいお茶と特番。完璧なリラックスタイムへの割り込み。
明確なバグだ。
窓の外に目を向ける。
富士の樹海の方角。空が淀んだ赤黒い色に染まり、ドーム状の巨大な魔力障壁が展開されている。
カーナビを狂わせた未踏破S級領域。
あそこから発せられる強烈な磁場ノイズが、旅館のアンテナはおろか、一帯の電波塔の通信波を阻害している。
「ごめんねカケル君。フロントの人に聞いてみようか……」
「いや、いい」
立ち上がる。
フロントに文句を言っても、あの巨大な障害物はどうにもならない。
「ちょっとアンテナの向き直してくるから。お茶飲んで待ってて」
旅館の浴衣。突っ掛けサンダル。
そのまま、部屋を出た。
――同時刻。富士の樹海、最前線。
「通信帯域、全滅! 外部との連絡不可能です!」
「障壁の解析率、ゼロ! 戦車砲も、特級魔術も、一切通用しません!」
絶叫と怒号が飛び交う戦場。
物々しい装甲車両と、完全武装の防衛軍部隊。巨大な黒い障壁を前に、絶望的な包囲陣を敷いていた。
前線指揮官が、血を吐くような声で叫ぶ。
「くそっ! なんだこのデタラメな結界は! このまま空間浸食が進めば、温泉街はおろか日本列島が丸ごと飲み込まれるぞ!」
空を覆う、漆黒のドーム。
人類の兵器を嘲笑う、絶対的な拒絶の壁。
誰もが死を覚悟し、一歩も後退できない絶望の淵。
ペタ、ペタ。
気の抜けた足音が響いた。
「……あ?」
指揮官が振り返る。
旅館の浴衣を着てサンダルを突っ掛けた、ひとりの青年。
手ぶら。防具すら着けていない。
「お、おい! 貴様、どこから入った! ここは未踏破S級領域の最前線だぞ! 民間人が来る場所じゃ――!」
兵士の怒声。
青年は無視し、人類のあらゆる攻撃を弾き返した絶対障壁の真正面へと歩み寄る。
「でっかい障害物だな。これのせいでテレビの電波が悪いのか」
見上げる先は、天を突く黒いドーム。
青年の口から出たのは、国家の危機を憂う言葉でも、死の恐怖でもない。
テレビの映りに対するクレーム。
日本防衛の最前線、絶望の森の境界線。
アンテナの調整。ただそれだけの理由で、青年は死地へと足を踏み入れていた。
――だが。
温泉街を見下ろす、高級旅館の屋根の上。
豪奢なドレスに身を包んだ金髪の少女。セレナ・フォーン・ブレイブは、ガタガタと全身を震わせていた。
「始まった……。管理者の、エリア消去フォーマットプログラム……!」
ただの電波障害ではない。
世界律が書き換えられ、空間そのものが無に還る前兆。
システムの強制介入。標的である天羽カケルだけでなく、この地に存在するすべてが消去される。システムの一部である自分自身も含めて。
「誰も、止められない……神の決定からは、逃れられない……っ!」
瓦屋根の上に、膝から崩れ落ちる令嬢。
絶対的な絶望。
だがその時、彼女の虚ろな瞳に、信じられない光景が映り込んだ。
「え……?」
眼下の温泉街。
標的である天羽カケルが、浴衣にサンダルという間の抜けた格好で、一人で絶望の森の最前線へと歩いていく。
その口から「ちょっとアンテナ直してくる」という、狂気としか思えない呟きをこぼしながら。
「あいつ、自ら死地に……!? なぜ……!?」
混乱する頭のまま、セレナは無意識に立ち上がり、ふらつく足取りで青年の背中を追い始めていた。
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