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第29話:外壁塗装と、崩壊する記憶

静かに流れる景色の連続。

無音のエコカーは、夏の陽射しを弾きながら滑らかに一般道を走っている。


外界から隔絶されたプライベート空間。

設定温度二十四度のエアコンの風。

助手席で、未亜が旅行のパンフレットを広げて楽しそうに笑っている。


片手でハンドルを握り、スマホの通話ボタンをタップする。


コール音。

一回のコールの途中で、電話は弾かれたように繋がった。


『は、はいィッ! 内閣府特命対策室、特命官でありますッ!』


スピーカーから響く、裏返った悲鳴のような声。

先ほど、我が家の庭で土下座していた中年男だ。


「ああ、さっきの市役所の人ですか。ちょっと言い忘れたことがあって」

『し、市役所……!? いえ、ですから内閣府の――! して、天羽様! 御用件はなんでしょうか!? もしや、あの残骸が再び動き出すなどの緊急事態……!』

「いや、ゴミはどうでもいいんですけど」


窓の外の青空を眺めながら、本題を切り出す。


「さっきの騒ぎで、昨日手入れしたばかりの芝生がちょっと傷んでたんですよ。休日の朝から騒がしくて近所迷惑だったし」

『ヒッ……!』


電話の向こうで、特命官が息を呑む音。

震える息遣いが伝わってくる。


「あのデカいゴミを庭に置かれたせいで、結構な迷惑被ってるんですよね。だから、その迷惑料というか、詫びを要求したいんです」


静寂。

特命官の緊迫した空気が、電波越しに広がる。


『も、申し訳ございません……! すぐに国家予算から、数十億、いや数百億の補償金を準備させます! どうか、どうか怒りを鎮めて――』

「だから、現金は税金の手続きが面倒だって言ってるじゃないですか」

『ひぃぃッ! ま、またしても地雷を……!』


特命官がむせ返る。

前方の赤信号で車を停めた。


「金はいらないんで、代わりに家のリフォームをお願いします。外壁塗装と、家全体の完全防音工事」

『……は?』


間抜けな声。


「あの家、だいぶ古いんで外壁の塗装が剥げてきてるんですよ。あと、映画見る時に外に音が漏れると近所迷惑なんで。防音もしっかりやってください」


業者探しも、見積もりも、工事の立ち会いも面倒だ。

ゴミ回収のついでにやらせる。


『が、外壁塗装と……防音工事……?』

「ええ。俺たちが温泉旅行から帰ってくるまでに、全部終わらせといてください。それが迷惑料です。じゃ」

『お、お待ちを! 神話の厄災からこの星を救った対価が、実家のリフォーム代だけだと!? そ、そんな馬鹿な!』

「じゃあ、色はお任せしますんで。綺麗にしといてくださいね」


ピッ。

通話切断。

面倒な交渉の終了。


助手席の未亜が、目を輝かせてこちらを見ている。


「カケル君、おうち綺麗になるの!?」

「ああ。温泉から帰ったら、外壁もピカピカで、防音完璧になってるはずだ」

「わぁっ、すごい! 新築みたいになるね! 嬉しい!」


満面の笑み。

これで面倒な実家の修繕タスクが一つ消えた。


同時刻。

我が家の庭先では、完全武装した自衛隊の特殊部隊が、黒騎士の残骸の回収作業に追われていた。

その中心で、スマホを握りしめた特命官が、天を仰いで呆然としている。


「星の救済の対価が……実家の外壁塗装……」


特命官の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


「おい、お前たち! ゴミの回収が終わったら、直ちに世界最高峰の建築業者を手配しろ! 国家の威信をかけて、この古い一軒家を世界一頑丈で美しい防音要塞に作り変えるのだ! 予算は青天井だ、急げェェッ!」


特命官の怒号。

あずかり知らない場所で、国家予算を湯水のように使った超極秘リフォーム・プロジェクトが始動していた。


――だが。

致命的なエラーを抱えたまま、一つの意志が動き出そうとしていた。


遠く離れた、豪奢な洋館の一室。

セレナ・フォーン・ブレイブは、真っ暗な部屋の中で立ち尽くしていた。


足元には、粉々に砕け散った遠隔視のモニター。

虚ろな瞳。乱れた金髪。

絶対的な『絶望の記憶』が、ただの『電子レンジの解凍弁当』に成り下がった現実。


「私の……記憶……」


震える指先。


「黒騎士は、無敵だったはず。私が、どれだけ足掻いても、勝てなかった……なのに」


『エラー。記憶モジュールの深刻な矛盾。論理の再構築を推奨』


脳内に響く、無機質なシステムのアラート。

セレナは、ギリッと唇を噛み締める。

管理者に埋め込まれた『偽装データ』が、現実の事象との矛盾によって完全にバグを引き起こしている。


「認めない……あんな、サンダル履きの男に……私のすべてを……!」


血の滲むような声で、虚空を睨みつけた。


遠隔からの排除デバッグは失敗。

システムが放った最強のエージェントすら、あの男の『生活圏のノイズ』として処理された。


「私が……この手で、確かめる」


冷たい決意の光。


「あの『バグ』の正体を。天羽カケルという、世界の敵の生態を……直接、この目で」


システム(神)の端末である令嬢が、自らの足で動き出す。

偽りの記憶を抱えた暗殺者が、平穏な日常を直接破壊するため、日本へ向けて密かに飛び立とうとしていた。


一方、エコカーのナビゲーション。

依然として赤く明滅し、『富士樹海・未踏破S級領域』へのルートを無機質に刻み続けている。

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