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第18話:利用規約のスキップと、白紙委任状

キッチンから、ハンバーグの焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。

平和な夕食の気配。

だが、リビングの安いテーブルには、その空気を読まない分厚い紙の束が積まれていた。


「――以上が、第百四十二項に定める『奇跡の雫』の独占供給に関する付帯条件となります」


世界的製薬会社『グローバル・メディカ』のCEO、ハワード。

純白の高級スーツを窮屈そうに着こなし、額に汗を浮かべて五百ページを超える契約書を読み上げている。


専属契約、秘密保持、月間最低供給量の義務、品質保証のペナルティ。

難解な法律用語と呪術的な誓約が、念仏のように鼓膜を通り抜けていく。


小さく息を吐く。

引越しの時の市役所の手続きや、スマホの機種変更の窓口とまったく同じだ。どうせ「ここにサインしろ」という結論ありきなのに、無駄な説明を延々と聞かされる苦痛。

早く熱々のハンバーグを食べたい俺にとって、これは明確なバグ(障害)だった。


視界の端で『論理最適化』のスキルを起動。

半透明のホログラムウィンドウが、分厚い契約書の束の上に展開された。


『プロセス:契約の締結』

『ステータス:無駄な義務・隠し条項による拘束エラー

『警告:可処分時間の著しい浪費』


真っ赤な警告ログ。

書類には、ハワードが連れてきた超一流の企業弁護士たちが組み込んだ『合法的な罠(魔力的拘束)』が、スパゲッティのように複雑に絡み合っている。

ネットで無料ソフトをダウンロードする時、よく見ずに「次へ」を押すと、勝手に不要な広告アプリまでインストールされる悪質な手口と同じだ。


ホログラムパネルに指を伸ばす。

小難しい法学の知識や、契約破棄の呪文などいらない。

空中にスキャンされた五百ページのデジタル文書。そのすべてのチェックボックスから「同意する」のレ点を外し、一番下にある『スキップして完了』のボタンを押すだけ。


カチリ。

赤いエラー表示が一斉に『正常オールグリーン』に切り替わる。


パラパラパラッ!


突如、テーブルの上に積まれた五百ページの契約書が勝手にめくれ始めた。

インクの文字が次々と空中に浮き上がり、チリとなって消滅していく。

残ったのは、たった一枚の真っ白な紙。


「な、ななな……ッ!?」


ハワードが、目をひん剥いて立ち上がった。


「我が社のトップ法務陣が、三日三晩徹夜で編み出した『絶対拘束の契約魔術』が……! 文字ごと消し飛んだだとォォッ!?」

「いや、市役所の手続きみたいで面倒くさかったんで。全部スキップしました」

「ス、スキップ!? 国家間の条約すら縛り付ける法的な魔力拘束を、読み飛ばしたというのか!?」


驚愕でアゴが外れそうになっている世界的権威。

真っ白になった紙を指差す。


「だいたい、俺は連れと一生遊んで暮らしたいんです。毎月のノルマとか、罰則とか、そういう面倒な縛りがあるならケーキのデリバリーもいりません。他の会社にポーション流します」

「ひっ……!」

「もうすぐ晩ごはんなんで、早く帰ってもらえませんか。どうしても契約したいなら、俺に一切の義務が生じない『白紙委任状』だけ置いていってください」


ハンバーグが焦げてしまう。

淡々と言い放つと、ハワードはガクリとその場に崩れ落ちた。


顔面を蒼白にし、勝手にガタガタと震え上がる老紳士。

彼は慌てて内ポケットから万年筆を取り出し、真っ白な紙に自らのサインだけを書き殴った。


「お、愚かでした! 神の奇跡を、人間のちっぽけな法律で縛ろうなどと……! こちらの白紙委任状をお受け取りください! 納品は天羽様の気が向いた時で結構! 最高級スイーツのデリバリーも、すべて無条件で永久提供をお約束いたしますッ!」

「おお、話が早い。最初からそうしてくださいよ」


白紙の契約書を受け取り、足早に退散していくハワードたちを見送る。

玄関のドアが閉まる音。

これで、一切の労働義務を負うことなく、最高級のスイーツをしゃぶり尽くす権利が確定した。


「カケル君、ハンバーグ焼けたよー! 冷めないうちに食べよ!」


キッチンから聞こえる未亜の明るい声。

「今行く」

伸びをして、食卓へと向かった。

肉汁の溢れるハンバーグ。完璧な夕食。そして、約束された堕落の未来。

小市民的な幸福は、今日も強固な城壁に守られている。


――だが。

その城壁の足元には、すでに致死の毒が仕掛けられていた。


翌日の午後。

一軒家の前に、見慣れない配送業者の冷蔵トラックが停まる。

荷台から降りてきたのは、目深に帽子を被った配達員の女。

『グローバル・メディカ』が手配した、世界最高峰のパティシエによる特製ケーキの箱。

美しい箱の隙間から、極彩色の禍々しいオーラが微かに漏れ出していることに、普通の人間は気づかない。


ピンポーン。


虚無の暗殺者が、無機質な笑みを浮かべてインターホンを押す。

愛する甘いスイーツタイムが、最悪の死のトラップとなって、玄関の扉のすぐ外まで迫っていた。

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