第14話:潤滑スプレーと、至福のコーヒー
「私が全部やるって言ったのに……」
「いいから。今日はゆっくり寝てろ」
未亜を寝室のベッドに押し込み、リビングに戻る。
足が完治したことで、彼女は朝から張り切って家事をしようとしていた。だが、治ったばかりの体に無理をさせるわけにはいかない。
求める『一切の苦労をしない究極の引きこもり生活』には、彼女の健やかな笑顔が不可欠なのだ。
代わりに家事をさせるため、地下室から一体の土人形を連れてきていた。
ダンジョン浅層で捕獲した、荷物持ち用の低級ゴーレム。
こいつに部屋の掃除を任せようとしたのだが。
ギギギ……ガガガッ!
一歩歩くたびに、凄まじい摩擦音が部屋中に響き渡る。
黒板を爪で引っ掻くような、ひどく耳障りな音。
これでは未亜が昼寝どころではない。テレビの音も聞こえないし、鼓膜も限界だ。
視界の端で『論理最適化』のホログラムウィンドウを展開する。
スマホのシステム診断と同じ画面が、空中にいくつも浮かび上がった。
『プロセス:ゴーレムの関節駆動』
『ステータス:深刻な潤滑不足』
『警告:摩擦抵抗によるエネルギーロス99%』
真っ赤なエラーログの嵐。
魔力で無理やり重い土の塊を動かしているのだから、当然関節のパーツは削れ、激しいキシミ音が出る。
作った奴は馬鹿か。モーターに油も差さずにフル稼働させているようなものだ。放置すれば熱を持って焼き切れる。
小難しい錬金術の再構築など必要ない。
錆びついて鳴るドアの蝶番に、潤滑スプレーを吹きかけるのと同じ理屈だ。
納戸から、赤いキャップの錆止め潤滑スプレー『NURU 5ー59』を持ってくる。
ゴーレムの膝や肘の関節の隙間(魔力の接合部)に向け、シューッとひと吹き。
同時に、スプレーの油分に魔力を少しだけ乗せ、毛細管現象の要領で内部のコアまで一気に浸透させる。
カチリ。
赤いエラー表示が一斉に『正常』に切り替わる。
スッ……。
ゴーレムが動いた。
一切の音がしない。摩擦ゼロ。
ギガガと鈍重だった土くれが、まるで氷の上を滑るフィギュアスケーターのように、無音かつ超高速でフローリングのモップがけを始めた。
ルンバも顔負けの静音性と機動力。壁の障害物も滑らかに避け、あっという間にリビング中がピカピカになっていく。
完璧な家事代行ロボットの誕生だ。
これなら未亜もぐっすり眠れる。
同時刻。
霞が関、国家ダンジョン保安庁の技術開発部。
全国の魔力波長を監視していた主任技師が、モニターを見て素頓狂な声を上げていた。
「な、なんだこの異常な数値は!? 魔力生物の摩擦係数が……完全にゼロだと!?」
「主任、どうしました!?」
「見ろ! 首都圏のどこかで、熱力学の法則を完全に無視したゴーレムが稼働している! 永久機関だ! いったいどんな神話級の油を注げば、土の塊がこれほど滑らかに動くというのだ!」
大騒ぎになる管制室。
そこに長官が血相を変えて飛び込んでくる。
「その座標はまさか……また天羽の自宅か!?」
冷房の効いた部屋で冷えた麦茶を飲んでいると、スマホが震えた。
画面には『保安庁長官』の文字。
小さく息を吐き、通話ボタンをタップする。
「はい」
『天羽様ァァッ! 今度はゴーレムにどのような神の恩寵を!? 国家の最高技術を集めても、ゴーレムの摩擦ロスは絶対に防げないというのに!』
「いや、関節がキシキシうるさかったんで、NURU5ー59吹いただけですよ。ドアのキシミ直すのと同じです」
『NURU!? 5ー59!? そ、そんな市販の錆止めスプレーで、神の奇跡を再現したというのか……!』
長官が電話の向こうで震え上がる音が聞こえた。
『と、とにかく! その永久機関ゴーレムの稼働データ、少しでも我々に共有していただけないでしょうか!? 謝礼はいかが致しましょう!!!』
「あー、現金は確定申告が面倒なんでいらないです」
無音で窓拭きを完璧にこなすゴーレムを見つめる。
「代わりに、最高級のコーヒー豆の詰め合わせとかないですか。うちのゴーレム、動きが滑らかになったんで、バリスタの真似事もできそうなんで。連れと一緒に飲みたいんです」
『コ、コーヒー豆……!? 神の技術の対価が!? し、承知いたしました! 世界一の焙煎士が厳選した『ブルーマウンテン・トップグレード』を、毎月お送りします!』
ピコン。
スマホに特別契約完了のデジタル証明が届く。
これで食後の至福の一杯も約束された。
通話を切り、心地よい静寂の中で深くソファに沈み込む。
――しかし。
世界は、一人の男の安眠をいつまでも許してはくれない。
日本の太平洋沖、数十キロ。
海を割って進む、漆黒の巨大な竜。
闇の魔導結社が差し向けた『災厄の魔獣』が、ついに日本近海へと到達していた。
「……見えたぞ。あの忌まわしき防衛結界の光が」
竜の背に立つ黒装束の操術師が、冷酷に目を細める。
彼らの視線の先、水平線の向こうに浮かび上がるのは俺たちの住む街。
静かな午後を満喫する頭上に、国家すら滅ぼす理不尽な暴威が、今まさに牙を剥いて飛びかかろうとしていた。
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