第13話:未亜の涙と奇跡
朝の光が差し込むリビング。
キッチンからは、ベーコンの焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。
手元には、百均で買ったプラスチックの小さなタッパー。
中に入っているのは、昨夜『サラダスピナー』の遠心力で不純物を完全に弾き飛ばした、純度100%の黄金色の液体。
世界樹の若葉と高純度の魔力水を、完全なロスなしで抽出した真の神薬。
だが、そんな大層な名前をつけて未亜に渡せば、彼女は絶対に遠慮する。重い恩を着せるのも面倒だ。
彼女の朝食用のマグカップに注がれた温かい紅茶に、タッパーの中身を静かに注ぎ込む。
「カケル君、朝ごはんできたよ」
「ありがとう。これ、ちょっと知り合いからもらった良いシロップなんだけど、紅茶に入れてみた」
「えっ、本当? 嬉しいな」
未亜がエプロン姿のまま向かいに座り、マグカップを両手で包み込む。
視界の端で『論理最適化』のスキルを起動。
半透明のホログラムウィンドウ。スマホのシステム更新画面と同じだ。
『プロセス:細胞の欠損領域へのパッチ適用』
『ターゲット:橘未亜(右足)』
『ステータス:修復プログラムを実行中』
PCの壊れたファイルを、最新のパッチデータで上書きして修復する。
ただそれだけのこと。
視界で、赤いエラーの警告が流れるように『正常』へと切り替わっていく。
未亜が、紅茶を一口飲む。
「……あ、美味しい。すごく深みがあって、体がポカポカしてくる……」
マグカップを下ろした直後。
彼女の瞳が、限界まで見開かれた。
「えっ……?」
タオルケットの下。右足を長年縛り付けていた呪いのような古傷から、痛みの影がスッと消え去る。
失われていたはずの筋力と神経の接続が、完全に、そして最適化された状態で蘇っていた。
未亜は恐る恐る立ち上がる。
右足に体重をかける。痛まない。
軽くジャンプする。着地の衝撃すら、まったく響かない。
「うそ……痛くない。全然、痛くないよ!」
「良かったな。フルーツの詰め合わせも届くし、これで少しは元気が出るだろ」
麦茶を飲みながら淡々と返す。
未亜の目から大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
「カケル君……カケル君……っ!」
食卓を回り込み、勢いよく胸に飛び込んでくる彼女。
ギュッと、力強く抱きしめられる。
温かい涙が、Tシャツの肩口を濡らした。
「私、ずっと……もう一生走れないと思ってた……! カケル君、本当に、本当にありがとう……っ!」
「まあ、大したことじゃないよ。シロップ入れただけだし」
「ううん! 私、決めた! カケル君の恩に報いるために、明日から家のこと、私が全部やるね! 掃除も洗濯も、毎日のご飯も、最高のものを作ってあげるから!」
鼻をすすりながら、満面の笑みで力強く宣言する未亜。
小さく拳を握る。
高級食材の無料配送。警察の二十四時間警備。
そこに、「一切の家事を完璧にこなしてくれる幼馴染」が加わったのだ。
求める『一切の苦労をしない究極の堕落インフラ』は、ついにここに完成を見たのである。
ピリリリリッ。
スマホが震えた。着信表示は『医療ギルド・トップ錬金術師』。
通話ボタンを押す。
「はい」
『あ、天羽様ァァァッ!』
鼓膜を破るような所長の絶叫。
『な、何事ですか!? 先日検知された『世界樹の完全ペースト』と同等の波長が、突如として一人の人間の生体データと完全に融合しました! まさか、あの国家予算レベルの霊薬を……誰かに飲ませたというのですか!?』
「ええ。連れが足痛がってたんで、シロップ代わりに紅茶に入れて」
『紅茶で!?』
電話の向こうで、何かがひっくり返るような音がした。
『あ、あり得ん! あれほど高純度の神薬を安全に人体に適応させるには、国営の巨大魔力調整カプセルで一ヶ月は安静にさせねば、ショック死するはずだぞ! それを、朝のティータイム感覚で消費したとでも言うのかァァァッ!』
「カプセルとか大げさな。ただのパッチ当て(上書き)ですよ」
『ひっ……神の奇跡を、アプリの更新のように……! 天羽様、どうかその完璧な人体適応の生体データを我がギルドに提供していただけませんか! 謝礼として月額一千万円の研究協力費を――』
「だから現金は税金の手続きが面倒ですって」
『で、では現物で! 何かご所望の品は!?』
部屋の隅にある、古びたソファとベッドを見る。
家事を全部任せて堕落するには、最高の寝具が必要だ。
「じゃあ、最高級のオーダーメイドベッド。あと、一生立ち上がりたくなくなるような『人をダメにするソファ』の最高級品。そういうの送ってください」
『ほ、星の数ほどの命を救う特効薬のデータが、ダメになるソファに……!? わ、わかりました! 世界最高の家具職人に急造させ、本日中に搬入いたします!』
通話を切断。
よし、これで最高の引きこもり環境が物理的にも完成する。
未亜の淹れてくれた極上の食後コーヒーを楽しみながら、俺はソファに深く腰を下ろした。
――だが。
究極の引きこもり生活を手に入れた男の頭上には、すでに最悪の暗雲が立ち込めていた。
日本の太平洋沖、数百キロ。
荒れ狂う海面を割り、巨大な影が浮上する。
闇の魔導結社が解き放った、神話時代の生体兵器『災厄の魔獣』。
全長百メートルを超える漆黒の巨竜が、海水を滝のように滴らせながら、空に向けて咆哮を上げた。
『GURUUUUUUUUUUッ!!』
雲が吹き飛び、荒波が砕け散る。
巨竜の赤い双眸は、一点の狂いもなく俺たちの住む街の座標を睨みつけていた。
「……さあ、世界を終わらせに行け」
竜の背に立つ黒装束の操術師が、冷酷に呟く。
最高級の肉とフルーツを頬張り、ダメになるソファで極上のコーヒーを楽しむ、俺の堕落生活。
それを理不尽な暴力で粉砕すべく、災厄の波がすぐそこまで迫っていた。
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