第7話 名を求める心
文明十二年。
政元が丹波から帰京して一年が過ぎ、
京兆家は再び落ち着きを取り戻していた。
政元は相変わらず修験道の戒めを守り、妻帯しない。
俗世の縁を避け、旅と文化と修行に心を傾ける生活は変わらない。
だが、家臣には家を持たせる。
それが家中の結束を強めると知っているからだ。
ある日、政元は甚内を呼び寄せた。
「甚内。
そちも、そろそろ家を持つ頃合いよ」
甚内は驚いた。
「わ、私が……でございますか、殿」
「うむ。
そちは京兆家の懐刀。
家中の娘を娶り、家を固めよ。
それが、そちのためにも、家のためにもなる」
政元は妻帯しない。
だが、甚内には家を持たせる――
それは、政元なりの“信頼の証”だった。
甚内は深く頭を下げた。
「……ありがたきお言葉にございます」
婚礼の準備が進むにつれ、
甚内の胸には、言葉にしづらいざわめきが生まれていた。
京兆家の人々は、
彼を“北方甚内”と呼ぶ。
それはこの世界で生まれた名であり、
この世界での居場所を示す名でもある。
だが――
胸の奥のどこかで、
“もうひとつの名”が静かに疼く。
それは、
この世界に来る前の記憶と結びついた、
誰にも語れぬ名。
忘れたくない。
だが、口に出すこともできない。
その名を守る術は、
この世界には存在しない。
だからこそ――
甚内は、名を整えたくなった。
“自分が歩んできた道”と
“これから歩む道”を
ひとつの名に結びつけるために。
甚内は政元のもとを訪れた。
「殿……お願いがございます」
「なんじゃ、甚内」
甚内は深く頭を垂れた。
「……名を、改めとうございます」
政元の目が細くなる。
「名を、か。
北方甚内という名に、不都合でもあるのか」
「いえ……不都合ではございませぬ。
ただ……この先、家を持ち、
家中に名を連ねる身となる以上……
“北方甚内”だけでは、何か足りぬ気がいたします」
政元は黙って甚内を見つめた。
甚内の言葉の裏にある“揺らぎ”を、
政元殿は察したのだろう。
「……そちは、どのような名を望む」
甚内は静かに答えた。
「“桑潟”という姓を名乗りとうございます。
そして……“武”の字を官途に入れとうございます。
さらに……殿のお許しをいただけるなら……
偏諱を……」
政元はゆっくりと頷いた。
「よかろう。
そちに“元”の字を与える」
甚内は息を呑んだ。
「……殿……!」
「官職は……武蔵守を許す。
そちの働きならば、相応であろう」
政元は、甚内の本心など知らない。
ただ、甚内が“名を整えたい”という心を理解し、
偏諱と官職を与えたのだ。
「これより、北方甚内は――
桑潟武蔵守元司(くわがた むさしのかみ もとつか)
と名乗ります。」
甚内は深く頭を垂れ、口上を続けた。
「この度の身に余る栄誉、
この名、命に代えても……守り抜きます……!」
政元は微笑んだ。
「名は、そちの道を照らす灯よ。
大切にせよ」
婚礼の日。
甚内――いや、元司は新しい名を胸に刻み、
静かに誓った。
(桑潟武蔵守元司――
この名は、俺が歩んできた道と、
これから歩む道を結ぶ“橋”だ)
政元は、遠くからその姿を見つめていた。
「……元司。
そちは、いずれ我が右腕となろう」
その声は、誰にも聞こえなかった。
だが、確かに未来を指し示していた。
――こうして、
北方甚内は“桑潟武蔵守元司”へと生まれ変わった。
それは、
過去を抱きしめるための名であり、
未来へ進むための名でもあった。




