第8話 桑潟武蔵守元司の覚醒
名を改めたその日から、
元司の内側で、何かが静かに孵化した。
北方甚内として過ごした年月は確かに長い。
だが、胸の奥底に沈んでいた“桑潟武司”という名が、
再び息を吹き返したような感覚があった。
それは、誰にも語れぬ変化だった。
だが、元司自身にははっきりと分かった。
(……俺は、戻ってきた)
この世界に来て以来、初めてそう思えた。
名を改めた元司は、
他の家臣たちのように所領を望むことはなかった。
不思議がる者もいた。
「桑潟殿ほどの働きなら、
一国一城の主になってもおかしくないのに」
元司は静かに答えた。
「私は、殿より偏諱と武蔵守を賜りました。
それ以上の望みはございませぬ」
その言葉は嘘ではない。
だが、すべてでもない。
(所領を持てば、根が生える。
根が生えれば、帰れなくなる)
元司は、現代に戻る可能性を捨てていなかった。
そのために、
“この世界での重すぎる縁”を避けたかった。
その一方で、元司は政元に願い出た。
「殿。
修験道の山伏を束ねる権限を、
私にお預けいただけませぬか」
政元は目を細めた。
「ほう……そちは山伏を動かすつもりか」
「はい。
山伏は山を越え、国を越え、
人の目の届かぬ道を行きます。
彼らを束ねれば、
京兆家の目と耳は、
畿内から諸国へと広がりましょう」
政元は静かに頷いた。
「よかろう。
そちに任せる」
こうして元司は、
修験道の山伏を統括する権限を得た。
さらに――
「殿。
各所の関所も、私にお預けいただければ……」
「関所もか。
そちは随分と欲張りよの」
政元は笑ったが、
その目は愉快そうだった。
「よい。
関所も任せる」
こうして元司は、
京兆家の情報網と交通網を掌握した。
だが、陰口も生まれた。
「桑潟殿は財がお好きだな」
「関所を押さえれば、金が入るからな」
元司は笑って受け流した。
(財などどうでもいい。
欲しいのは“情報”だ)
関所を押さえれば、
他領の者の出入りを把握できる。
山伏を束ねれば、
諸国の動きをいち早く掴める。
元司は、
京兆家の情報統制を“静かに”完成させつつあった。
私生活では、
元司は妻と別居を貫いた。
表向きはこうだ。
「殿が不犯を守られている以上、
私も節度を保ちとうございます」
だが、本心は違う。
(家を持てば、血を残せば……
俺はこの世界に縛られる)
元司は、
“帰る可能性”を捨てられなかった。
だから、
妻には丁重に接しつつも、
距離を置いた。
妻もまた、
元司の静かな決意を察していたのか、
無理に近づこうとはしなかった。
桑潟武司という名を取り戻したことで、
元司は覚醒した。
それは、
剣を振るうような派手な覚醒ではない。
静かで、深く、揺るぎない――
“己の軸”を取り戻した男の覚醒だった。
政元は、その変化を見逃さなかった。
「元司。
そちは……変わったな」
「殿のおかげにございます」
「いや……
そちは、そち自身の力で変わったのだ」
政元は、
元司の背にある“桑潟”という名を見つめていた。
「これからが……そちの本番よ」
その言葉は、
元司の胸に深く刻まれた。
――桑潟武蔵守元司。
その名は、
過去を抱きしめ、未来を切り開くための名だった。




