第3話 半将軍と朝餉をともに
翌朝。
甚内は、京兆家の若侍たちに囲まれていた。
「甚内殿、袖を通しますぞ。動かぬように」
「す、すみません……」
急誂えの着物は、まだ糊が強く、布が硬い。
麻と絹の混じった生地はざらりとして、肌に触れるたびにひやりと冷たい。
腰紐を締められると、胸のあたりがぎゅっと押され、息が浅くなる。
(うわ……これ、思ったより苦しい……)
鏡などないが、若侍たちの表情から察するに、どうにか“それらしく”なったらしい。
「北方甚内殿、殿がお呼びです」
その言葉に、甚内の心臓が跳ねた。
(また政元様と……!)
昨日の緊張が蘇る。
だが逃げ場はない。
案内されるまま、朝の光が差し込む廊下を歩く。
木の床は冷たく、足裏にしっとりとした感触が残る。
どこかで味噌汁の匂いが漂い、炊きたての米の甘い香りが鼻をくすぐった。
朝餉の間は、昨日の広間よりも小ぶりで、陽の光がよく入る。
板の間の中央に敷かれた敷物の上に、政元が座していた。
その位置は、明らかに上座。
床の間に近く、光の入り方も美しい。
甚内が案内されたのは、入口側の末席。
身分差を明確に示す配置だ。
「甚内、こちらへ――」
政元が軽く手を上げたが、甚内は慌てて頭を下げた。
「い、いえ……慣れぬ身ゆえ、末席にて失礼いたします」
家臣たちの表情がわずかに緩んだ。
“礼儀をわきまえている”と判断されたのだ。
一方、政元は目を丸くし、次の瞬間、楽しげに笑った。
「ほう……そちは面白いのう。よかろう、そこに座れ」
甚内は正座した。
板の間の冷たさが膝に伝わり、すぐに足が痺れ始める。
(うわ……これ絶対無理……!)
目の前には、銘々膳が置かれた。
湯気の立つ味噌汁、大根の浅漬け、塩気の強い干物、そして白米。
香りが胃を刺激するが、緊張で箸がうまく持てない。
「甚内、昨日の話、実に面白かったぞ」
政元は魚をほぐしながら言った。
「そち、天狗を知っておるか?」
甚内は箸を止めた。
「て、天狗……ですか?」
「うむ。天狗は山に住まう神通力の者。
我は幼き頃より憧れておるのじゃ。
空を飛び、姿を消し、風を操る……そういうものになりたい」
政元の目は本気だった。
家臣たちは「また始まった」という顔をしている。
(あ、これ……本当に天狗になりたいタイプの人だ……)
甚内は慎重に言葉を選んだ。
「天狗は……修験道の山伏が、山で修行する姿が……
人々の目に神秘的に映って……生まれた伝説だと言われています」
「ほう!」
政元が身を乗り出す。
家臣たちはさらに警戒を強める。
「山伏は、険しい山を越え、各地を巡り……
祈祷や加持、薬草の知識にも長けています。
その姿が……人々には“天狗のように見えた”のです」
「なるほど……!」
政元は完全に食いついていた。
甚内は続けた。
「修験道は……山への崇拝を中心にした宗教で……
山伏は、修行で各地を行き来するので……
情報を集めるのに、とても向いています」
「情報……?」
「はい。
山伏を保護し、彼らの行き来を支援すれば……
京兆家は、各地の情勢をいち早く知ることができます。
各地および各勢力の動き、民の不満、寺社の動向……
すべて、山伏が当家の目と耳になります」
政元の目が輝いた。
「それは……天狗の力を得るということか!」
甚内は、少しだけ煽るように言った。
「はい。
山伏を束ねてこそ、天狗伝説に近づけます。
山を制する者こそ、天狗に最も近い存在です」
政元の呼吸が一瞬止まり、次の瞬間、笑みが広がった。
「甚内……そちは……!」
家臣たちはざわめいた。
“情報網”という概念が、この時代にはあまりに新しい。
甚内はさらに踏み込んだ。
「ただ、修験道だけを保護するのは危険でもあります。
それに……この時代は、宗教の力が強いです。
一揆も、寺社の影響力が大きい。
ですから……特定の宗派だけを優遇すると……
他が反発し、一揆の火種になります」
政元の表情が引き締まった。
「では、どうすればよい?」
甚内は、また少し煽るように言った。
「公平に、満遍なく寺社を保護すべきです。
宗門を束ねてこそ、“公界の長”に近づけます」
政元は息を呑んだ。
「公界の……長……!」
その言葉は、政元の野心に火をつけた。
朝餉が終わると、政元は甚内に向き直った。
「北方甚内。そちに褒美を取らせよう。何が欲しい?」
甚内は一瞬迷い、そして――
自分が“甚内”になりすぎていることに気づいた。
(俺は……桑潟武司だ。忘れちゃいけない……)
だから、こう言った。
「……クワガタを模した……家紋を……授けてください」
政元は目を丸くし、次の瞬間、声を上げて笑った。
「はははは! そちは本当に面白いのう!
よかろう、甚内。
クワガタの家紋、作らせよう!」
家臣たちは呆れ、しかしどこか安心したようでもあった。
位階や領地を欲するなら殺めようと危惧していたからだ。
こうして――
甚内は、細川政元の“側近見習い”としての第一歩を踏み出した。
まだ、この先に待つ二十年の激動を知らぬままに。




