第2話 半将軍の前に座す
細川京兆家の屋敷は、外から見た以上に広かった。
案内される廊下は板張りで、歩くたびに足裏に冷たさが伝わる。
木の香り、古い油の匂い、どこかで焚かれている香木の甘い煙。
現代の空調の効いた空気とはまるで違う、生の匂いが満ちていた。
甚内――いや、桑潟武司は、緊張で喉がひりついていた。
手のひらは汗で湿り、膝は震え、呼吸は浅い。
心臓は耳のすぐ横で鳴っているように感じる。
(やばい……本当に、室町時代……?
いや、そんなはず……でも……)
頭では否定しても、五感がすべて「ここは現代じゃない」と告げていた。
案内された広間は、静まり返っていた。
畳ではなく、磨き込まれた板の間。
その中央に敷かれた敷物の上に、直垂姿の少年が座していた。
細川政元。
背筋はまっすぐ、目は鋭く、しかしその奥には抑えきれない好奇心が渦巻いている。
まるで珍しい虫を見つけた子どものような目だ。
一方、政元の左右に控える家臣たちの表情は硬い。
眉間に深い皺を寄せ、甚内の一挙手一投足を見逃すまいと目を光らせている。
刀の柄に添えられた手が、恐ろしく静かだった。
(こ、怖い……! 絶対ちょっとでも変なこと言ったら斬られる……!)
甚内は下座に座らされた。
板の冷たさが膝に伝わり、余計に震えが止まらない。
政元が口を開いた。
「甚内。お前の話を色々聞きたいが……まずは問うておく」
声は柔らかいが、芯がある。
その声に、甚内の背筋がびくりと震えた。
「我が誰だかわかるか? 細川政元を存じておるか?」
甚内は喉を鳴らした。
歴史好きとはいえ、中学三年生レベル。
しかし、ここで下手なことを言えば命が危ない。
「……応仁の乱の……東軍総大将の……息子、というのは……知っております」
声が震える。
政元は目を細めた。
「ほう。父・勝元のことを知っておるか」
「は、はい。あと……その……天狗や修験道に関心がある、と……」
言った瞬間、家臣たちの視線が鋭くなった。
“若君の奇行を知っている”など、普通ではあり得ない。
だが政元は、むしろ嬉しそうに笑った。
「その通りじゃ。父上も先ごろ崩御され、我が家督を継いだばかりよ」
政元は膝を少し乗り出し、甚内を覗き込む。
興味津々が隠しきれていない。
その目は、珍しい玩具を見つけた子どものようだった。
「甚内。お主は面白そうだが……賢しそうでもある」
家臣たちの警戒がさらに強まる。
“賢い”という評価は、この時代では危険でもある。
「先ずは、時勢を解いてみよ。
この国はいま、いかなる時代にあると思う?」
(……時勢……? 時勢って……!)
甚内の頭は真っ白になりかけた。
だが、必死に現代の知識をかき集める。
「え、えっと……鎌倉での源氏の幕府と、足利尊氏以降の幕府の違いから……よろしいでしょうか……?」
「うむ、申してみよ」
政元は頷き、家臣たちも息を呑んだ。
家臣は、足利尊氏を普通に呼び捨てるなど不敬に敏感に反応したが、政元が目で封じた。
甚内は震える声で話し始めた。
「鎌倉は……武士の世の始まりで……北条氏が執権として……
室町は……足利氏が幕府を開き……南北朝の争いを経て……
北朝と南朝が……ようやく一つになり……」
政元の目が輝く。
「続けよ」
「……北山文化、東山文化と……武家と公家の文化が……混ざり合い……
金閣、銀閣……禅の精神……庭園……茶の湯……
都は……文化の中心で……」
甚内は息を吸い、続けた。
「……しかし、応仁の乱で……都は焼け……
文化は地方へ散り……
護るべきものは……その文化と……人々の暮らしで……
今後の懸念は……大名同士の争いが……さらに激しくなること……
……だと思います」
言い終えた瞬間、甚内は息を吐いた。
膝が震え、汗が背中を伝う。
政元は目を見開き、やがてゆっくりと頷いた。
「……面白い。実に面白い」
その声は、心底楽しんでいる響きだった。
家臣たちは顔を見合わせた。
驚きと警戒が入り混じった表情。
“この少年、何者だ”という疑念が、空気を重くする。
政元は立ち上がり、障子の外を見た。
「おお、もう日が暮れてきたか」
夕陽が障子を赤く染めていた。
政元は振り返り、甚内を指さした。
「甚内。そちは今より我が家人じゃ。これは我の命令じゃ」
「えっ……?」
甚内は声を失った。
家臣たちもざわめく。
「若君、それは――」
「よい。決めたことじゃ」
政元は笑った。
その笑顔は、どこか危うく、どこか魅力的だった。
「ただ、甚内。何か願いはあるか?」
家臣達は甚内がとんでもない要求をしないかと緊張して身構えた。
何かあれば斬ろうと決意したが、返答に呆気に取られた。
甚内はしばらく考え、震える声で答えた。
「……着る物が……欲しいです。
このままでは……目立ちすぎて……」
政元は満足げに頷いた。
「心得た。明日には仕立てさせよう」
こうして――
甚内は成り行きというか、運命というか、
細川政元の家臣となった。
この瞬間から、
クワガタムシの“室町青春録”が本格的に始まるのであった。




