第1話 クワガタムシ、室町へトバされる
夕暮れの商店街は、湿った春の風と、どこか焦げたような匂いが混じっていた。
中学三年生、桑潟武司――読みは「くわかた たけし」。
名前の当て字読みから、クラスでは「クワガタムシ」と呼ばれている。
本人は嫌だが、もう諦めていた。
部活帰りの腹を満たすため、武司はいつもの喜多方ラーメンのチェーン店「喜多方尽内」の暖簾をくぐった。
店内は湯気で曇り、和風のやさしい香りが鼻をくすぐる。
カウンターに座ると、店主が「いつものな」と笑い、湯気の立つ丼を置いた。
武司は箸を取り、麺をすすった。
熱いスープが舌に広がり、胃がじんわりと温まる。
明日の模試のことも、クラスのあだ名も、この瞬間だけは忘れられる。
――その時だった。
ドンッ、と地面が突き上げた。
どんぶりが跳ね、スープが飛び散る。
ガラスが激しく震え、棚の調味料が床に落ちて割れた。
「うわっ……地震!?」
立ち上がろうとした瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
耳鳴りが響き、世界が白く弾ける。
武司の身体は宙に浮いたように軽くなり、次の瞬間、意識が闇に沈んだ。
「……目を覚ましたか」
「この者、どこの郷の者か?」
ざわめきが耳に刺さる。
武司はゆっくりと瞼を開いた。
そこには、見たこともない光景が広がっていた。
湿った土の匂い。
風に揺れる木々のざわめき。
甲冑を着た武士たちが、武司を取り囲んでいる。
空は薄曇りで、夕焼けの色はどこにもない。
(……え? コスプレ? ロケ? いや、そんなレベルじゃない)
武司の心臓は早鐘を打ち、手は震え、喉が乾く。
恐怖で声が出ない。
呼吸が浅くなり、胸が苦しい。
「息が乱れておるぞ。水を持て」
誰かが言い、竹筒が差し出された。
武司は震える手で受け取り、口に含む。
冷たい水が喉を通り、ようやく少しだけ落ち着いた。
武士たちは、武司の学生服を見て眉をひそめている。
「奇妙な装束よの……明の国の者か?」
「いや、年の頃は若君と変わらぬ。だが、この布の仕立て……」
その時、馬の蹄の音が近づいた。
武士たちが道を開ける。
白馬に乗った少年が現れた。
年は武司と同じくらい。
だが、直垂姿に身を包み、背筋はまっすぐ、目は鋭く、どこか人を惹きつける気配をまとっている。
少年は馬を降り、武司の前に立った。
その目は、好奇心で輝いていた。
まるで珍しい虫を見つけた子どものように。
一方、従者たちの顔はこわばっている。
手は刀の柄にかかり、いつでも抜ける構えだ。
(やばい……本当にやばい……!)
武司の背中に冷たい汗が流れた。
「そち、名は何と申す?」
(名前……! 本名を言うのは危険だ。どうする?)
武司の脳裏に、さっきまでいた店の看板が浮かぶ。
――喜多方尽内。
(きたかた……じんない……!)
「名は……き…北方…甚内…」
口が勝手に動いた。
少年はぱっと笑顔になった。
「そうか、甚内か。よい名だ」
その笑顔は、興味津々が溢れ出ていた。
一方、従者たちはますます警戒を強める。
「若君、近づきすぎては……」
「よい、よい。害はなかろう」
少年は軽く手を振った。
「我は細川京兆家の当主、細川政元である」
(……細川政元?)
歴史の授業で聞いた名前が、武司の脳裏に浮かぶ。
応仁の乱の東軍総大将・細川勝元の子。
のちに“半将軍”と呼ばれる人物。
(まさか……本当に……?)
武司の背筋に冷たいものが走った。
「甚内、そちは怪しき者ではなかろう。屋敷へ参れ。話を聞きたい」
政元は楽しげに言い、馬の手綱を家臣に渡した。
どうやら政元自身は歩くつもりらしい。
家臣たちも馬をおり、政元と武司を囲むように進む。
屋敷までの道中、武司は周囲を必死に観察した。
土の道はぬかるみ、足を踏みしめるたびに湿った音がする。
瓦屋根の家々が並び、行き交う人々は皆、教科書の図録のよう。
馬の匂い、焚き火の煙、どこかで煮炊きする匂いが混じり合う。
遠くには、焼け跡のような黒い地面が広がっていた。
焦げた木材の匂いが風に乗ってくる。
(……応仁の乱の後の京都……?)
武司の喉がごくりと鳴った。
政元は歩きながら、ちらちらと武司を見てくる。
その目は、好奇心で輝いていた。
「甚内、その装束は明の国のものか?」
「え、えっと……まあ、その……遠い国の……」
武司はしどろもどろになる。
政元は面白そうに笑った。
「よいよい、追及はせぬ。そち、面白き者よ」
従者たちは依然として警戒を解かない。
武司が少しでも不審な動きをすれば、すぐに刀が抜かれそうだ。
やがて、巨大な屋敷が見えてきた。
白壁に高い門、堂々たる佇まい。
門には細川家の家紋が掲げられている。
(……本当に、細川京兆家だ)
武司は足がすくんだ。
「甚内、参れ。そちの話、ゆるりと聞こうぞ」
政元は振り返り、柔らかく微笑んだ。
その笑顔は、どこか危うく、どこか魅力的だった。
こうして――
クワガタムシの“室町サバイバル”が始まった。




