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クワガタ、室町末期に放たれる?  作者: 双鶴


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18/23

第18話 出陣の朝、ひとつの家の静かな別れ

 閏四月七日――

 京の空気は、春の名残をわずかに含みながらも、

 どこか張りつめていた。


 政元が新将軍・義遐を擁立してから、

 京は急速に新しい秩序へと組み替えられていた。


 その中心にいるのは、

 細川政元。


 そして、

 その政元の命を受けて動くのが――

 桑潟武蔵守元司であった。




 この日、政元は二つの軍勢を河内へ派遣した。


 上原元秀の軍。

 安富元家の軍。


 いずれも政元の腹心であり、

 畠山政長を討つための先鋒である。


 さらに、

 高屋城に籠っていた畠山基家も出撃し、

 政元に与する大名たちと合流して

 正覚寺城へ向かうことになった。


 京から河内へ――

 新体制の“最初の戦”が始まろうとしていた。




 その朝、

 元司は胸の奥に奇妙なざわめきを覚えていた。


 戦場に向かう前の緊張とは違う。

 もっと深く、

 もっと静かで、

 言葉にできない不安。


(……今日は、何かが違う)


 その感覚は、

 元司をある場所へ向かわせた。


 長らく足を運んでいなかった、

 自分の妻のもとへ。




 妻の屋敷は、

 京の外れにある静かな一角にあった。


 元司が訪れるのは、

 いつ以来だろうか。


 扉を叩くと、

 しばらくして妻が姿を現した。


 驚き、

 戸惑い、

 そしてどこか安堵したような表情。


「……殿が、こちらへ?」


 元司は深く頭を下げた。


「長らく……不義理をした」


 妻は言葉を失った。


 元司が自ら謝罪の言葉を口にするなど、

 これまで一度もなかった。


 元司は続けた。


「私は……殿(政元)に仕える身。

 家を持つことを避けてきた。

 そなたにも、寂しい思いをさせた」


 妻は静かに首を振った。


「いいえ……

 あなた様が細川家のために尽くしておられること、

 分かっておりました」


 その声は、

 責めるでもなく、

慰めるでもなく、

 ただ真実を語る声だった。


 元司は胸が締めつけられるのを感じた。


(……私は、この人に何も返してこなかった)




 しばらく沈黙が流れた。


 庭の木々が風に揺れ、

 朝の光が差し込む。


 元司は、

 その光の中で静かに言った。


「今日……河内へ向かう」


 妻の表情がわずかに揺れた。


「……そう、でございますか」


「戻れるかどうかは……分からぬ」


 妻は目を伏せた。


 その沈黙が、

 元司には痛いほど伝わった。


 元司は、

 初めて妻の手に触れた。


 その手は、

 驚くほど温かかった。


「そなたに……礼を言いたかった。

 これまで、何もしてやれなかったが……

 そなたがいてくれたから、私はここまで来られた」


 妻は涙をこらえながら微笑んだ。


「私は……

 あなた様が生きていてくだされば、それで……」


 その言葉は、

 元司の胸に深く刺さった。


(……生きて戻れるだろうか)


 その不安が、

 今日に限って強く胸を締めつけていた。




 別れ際、

 妻は元司の袖をそっと掴んだ。


「どうか……

 どうか、ご無事で」


 元司は頷いた。


 だが、

 その頷きの奥には、

 言葉にできない予感があった。


(これは……最後の別れになるかもしれない)


 元司は振り返らず、

 静かに屋敷を後にした。


 その背中に、

 妻の祈りがそっと寄り添っていた。




 京の外れで、

 政元の軍勢が整列していた。


 元司は馬に乗り、

 政元のもとへ向かった。


 政元は、

 いつものように静かに立っていた。


「元司。

 行くぞ」


「はっ」


 その瞬間、

 元司の胸のざわめきは、

 風に溶けるように消えていった。


 ただ、

 妻の温かい手の感触だけが

 いつまでも残っていた。


 ――桑潟武蔵守元司。

 その名を背負う男は、

 静かに馬を進めた。


 河内へ。

 そして、

 運命の先へ。


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