ライブ後
関係者席から案内された通路は、客席とはまったく違う熱を持っていた。
表側ではまだ観客の歓声と拍手の余韻が鳴っている。けれど、裏側へ一歩入ると、そこには別の戦場があった。スタッフが無線で指示を飛ばし、機材を運ぶ人が足早に通り過ぎ、ダンサーたちが汗を拭いながら互いを労っている。誰もが疲れているはずなのに、空気は妙に明るかった。
成功した現場の空気だった。
その中心にいたのは、間違いなく沙也加だ。
僕はスタッフに誘導されるまま、関係者用の待機スペースへ向かった。隣には天雨、少し後ろに柊先輩と桜井会長。玲音は慣れた足取りで、スタッフへ軽く挨拶しながら歩いていた。結城は完全に緊張していて、ペンライトをまだ握りしめている。
「すごかったね……」
結城がぽつりと呟いた。
その声には、素直な感動しかなかった。
「白須賀さんって、本当にすごいんだね」
「今さら?」
玲音が小さく笑う。
けれど、その表情はどこか誇らしげだった。
「あれが沙也加よ。面倒で、重くて、たまに信じられないくらい子どもっぽいけど、ステージに立ったら全部持っていく」
その言葉に、僕は何も言えなかった。
あまりにもその通りだったからだ。
天雨は静かに歩きながら、前だけを見ていた。さっきからほとんど喋らない。けれど、その横顔は暗くない。悔しさもあるのだろう。胸の奥に何か刺さるものもあるのだろう。それでも、それ以上に白須賀沙也加という存在を認めてしまった顔だった。
柊先輩も同じだった。
桜井会長だけが、いつもの軽さを少しずつ取り戻している。
「いやー、あんなの見せられたら、裕二くんを巡るヒロインレース、白須賀さんが一気に十馬身くらい突き放した感じだね」
「会長、ここでその言い方はやめてください」
「でも事実じゃない?」
「事実でも言い方があります」
柊先輩の注意は冷静だったが、否定はしなかった。
僕は胃のあたりを押さえた。
ライブ直後なのに、なぜ僕の人間関係が競馬みたいに実況されているのか。
そんなことを考えていると、奥の扉が開いた。
スタッフたちの視線が、自然とそちらへ向かう。
次の瞬間、白いアンコール衣装のまま、沙也加が現れた。
拍手が起こった。
スタッフ、ダンサー、関係者たちが一斉に彼女へ拍手を送る。沙也加は息を切らしながら、それでも笑顔で頭を下げた。額には汗が光り、髪は少し乱れている。足元もきっと限界に近いはずだ。けれど、彼女は最後まで白須賀沙也加だった。
「ありがとうございました!」
そう言って、彼女は何度も頭を下げる。
マネージャーがタオルを渡す。スタッフが飲み物を差し出す。ダンサーたちが「最高だった」と声をかける。沙也加はその一つ一つに笑って応えていた。
その姿を見て、僕は一歩も動けなかった。
近づいていいのか分からなかった。
今、彼女は全員の白須賀沙也加だ。ファンの前で全力を出し、スタッフに支えられ、現場の中心にいる人だ。その輪の中へ、僕が踏み込んでいいのか、一瞬だけ迷った。
けれど、その迷いはすぐに壊された。
沙也加が、僕を見つけた。
本当に一瞬だった。
スタッフへ笑っていた顔が、僕を見た瞬間だけ変わった。白須賀沙也加の笑顔の奥から、沙也加が顔を出した。何万人もの歓声を受け止めた人の目が、たった一人を見つけて、少しだけ揺れた。
そして彼女は、スタッフたちへ小さく頭を下げると、まっすぐ僕の方へ歩いてきた。
周囲の空気が、少しだけ止まる。
マネージャーが何か言いかけたが、玲音が苦笑しながら軽く手で制した。
「今だけは行かせてあげて」
その声が聞こえた気がした。
沙也加は僕の前で止まった。
数秒間、何も言わなかった。
ただ、僕を見ていた。
ステージの光を浴びたままの瞳で。汗も、疲れも、達成感も、今にも崩れそうな安心も、全部を抱えた目で。
「裕二」
「ああ」
沙也加の唇が、少し震えた。
「ただいま」
その一言で、僕の胸が詰まった。
ステージの上で、何万人へ「ただいま」と言った彼女が、今度は僕へだけ同じ言葉を言った。けれど、その重さはまったく違った。
僕は一歩近づいた。
「おかえり、沙也加」
そう言った瞬間、沙也加の表情が崩れた。
泣くのを我慢していた顔だった。
ステージの上では最後までこぼさなかった涙が、僕の前でだけ、ようやく目元に浮かぶ。けれど、それでも彼女はすぐには泣かなかった。ただ、ゆっくりと額を僕の胸元へ預けた。
抱きしめるより先に、体重が来た。
軽かった。
でも、重かった。
一公演分の疲労。初日を走り切った達成感。怖かった気持ち。ファンへの感謝。白須賀沙也加でい続けた時間。その全部を、今、僕の胸元へ預けてきている。
僕は彼女の背中へ腕を回した。
強くではなく、崩れないように支える程度に。
沙也加は小さく息を吐いた。
「……ちゃんと、見てた?」
「見てた」
「最初から?」
「最初から」
「最後まで?」
「最後まで」
「私だけ?」
その質問だけ、少しだけ沙也加に戻っていた。
僕は苦笑しそうになって、やめた。
「ステージの上では、沙也加だけを見てた」
沙也加の指が、僕の背中の服をぎゅっと掴んだ。
「よろしい」
声が震えていた。
それなのに、言い方だけはいつもの彼女だった。
周囲から小さな咳払いが聞こえた。
見ると、マネージャーがタオルを持ったまま、絶妙な顔をしていた。仕事としては早くクールダウンさせたい。けれど、今引き剥がすのはさすがに少し気が引ける。そんな顔だった。
桜井会長が、なぜか感極まったように頷いている。
「いやー、これはいい最終回」
「終わらせないでください」
柊先輩が即座に突っ込んだ。
天雨は、静かに沙也加を見ていた。
やがて、彼女は一歩前に出た。
「白須賀さん」
沙也加が僕の胸元から少しだけ顔を上げる。
「美鈴ちゃん」
「すごかったわ」
たったそれだけだった。
でも、その一言に嘘はなかった。
天雨はまっすぐ沙也加を見ている。恋敵としての棘も、僕への未練も、今は少しだけ奥へしまっている顔だった。
「今日のあなたは、本当にすごかった」
沙也加は数秒だけ黙った。
そして、少しだけ笑った。
「ありがとう」
その声は素直だった。
嫉妬も、牽制もない。
今だけは、ただステージを見届けた者と、ステージをやりきった者の会話だった。
柊先輩も続いた。
「お疲れさま。最後まで崩れなかったわね」
「副会長さんに言われると、なんか合格もらった気分です」
「合格よ。ただし、このあとちゃんと水分を取って、ストレッチして、寝ること」
「やっぱり副会長さん、マネージャーさん寄り」
「あなたが心配されるようなことをするからよ」
沙也加は少し笑った。
その笑い方が、やっと少しだけ軽かった。
玲音も近づいてきた。
彼女は沙也加の前に立つと、腕を組んだまま言った。
「初日にしては上出来」
「玲音、それ褒めてる?」
「褒めてる。悔しいくらいに」
沙也加は目を細めた。
「ありがとう」
「ただ、三曲目の終わり、ちょっと右肩かばってたでしょ」
「見てたんですか」
「見るわよ。同業者だもの」
玲音の目は真剣だった。
「でも、最後まで持っていった。あれはすごかった」
沙也加は少しだけ照れた顔をした。
その顔を見た結城が、遠慮がちに近づいてくる。
「あの、白須賀さん」
「結城さん」
「すごかったです。本当に。私、途中から普通にファンになってました」
その言葉があまりにも素直で、沙也加は一瞬だけきょとんとした。
それから、柔らかく笑った。
「ありがとう。嬉しい」
その笑顔は、ファンへ向けるものに近い。
けれど、結城の言葉にちゃんと応えている笑顔だった。
こうして見ると、今日の沙也加は本当に強い。
僕を巡る女の子たちが全員ここにいて、それぞれ複雑な気持ちを抱えているはずなのに、今この瞬間だけは全員が沙也加を認めざるを得なくなっている。
ステージの力で。
白須賀沙也加としての圧倒的な存在感で。
その中心にいる沙也加は、少しだけ恥ずかしそうに笑いながら、それでも僕の服を掴む手だけは離さなかった。
マネージャーが、ついに声をかける。
「沙也加、そろそろクールダウンと囲みの準備」
「はい」
沙也加は返事をした。
声はもう白須賀沙也加へ戻りかけている。
けれど、離れる前に、彼女は僕だけへ顔を寄せるようにして、小さく言った。
「あとで、ちゃんと沙也加に戻るから」
「ああ」
「その時、もう一回おかえりって言って」
「何回でも言う」
沙也加の目が揺れた。
泣きそうな顔に戻りかける。
けれど、彼女はぐっと堪えた。
「……ずるい」
「今日はいいだろ」
「うん。今日は許す」
そう言って、沙也加は僕から離れた。
ステージを終えたばかりの身体で、もう次の仕事へ向かう。タオルを受け取り、水を飲み、マネージャーと短く確認を交わす。その背中は疲れているはずなのに、まっすぐだった。
僕はその背中を見ていた。
すると、隣に天雨が並んだ。
「沢渡くん」
「なに、美鈴さん」
「今日、ちゃんと迎えられたわね」
「そう見えたか?」
「ええ」
天雨は少しだけ笑った。
「少し悔しいくらいに」
その言葉は軽くなかった。
でも、今の天雨はそれを静かに言える。
僕は何も返せず、ただ頷いた。
沙也加はまだ仕事へ戻っていく。
けれど、彼女はもう帰ってきた。
僕のところへ。
ただいまと言って。
それを受け止めた今、僕はようやく、白須賀沙也加の全国ツアー初日が本当に終わったのだと思った。
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