ドームライブ
歓声は、なかなか止まらなかった。
本編最後の曲が終わり、沙也加がステージから姿を消しても、会場の熱は下がらなかった。むしろ、彼女が見えなくなったことで、客席の声はさらに膨れ上がっていく。
アンコール。
アンコール。
アンコール。
最初は一部のファンの声だった。
それがすぐに周囲へ広がり、アリーナ全体を揺らす大きな響きになっていく。ペンライトが一定のリズムで揺れ、客席の光が波のように動いた。誰も帰ろうとしない。誰も終わったと思っていない。白須賀沙也加を、まだ見たい。まだ声を聞きたい。まだこの時間の中にいたい。そういう欲望が、何万人分の熱になって会場を満たしていた。
僕は拍手で少し痛くなった手を握りしめながら、その光景を見ていた。
すごい、という言葉では足りなかった。
たった一人の女の子が、ここまで人の心を掴む。
さっきまでステージの上で歌っていた沙也加は、僕の隣の席で眠る彼女でも、嫉妬で僕の一日を知りたがる彼女でもない。けれど、間違いなく同じ人間だった。重くて、面倒で、不器用で、それでも誰より眩しい。
隣の天雨は、まだステージを見ていた。
その横顔は静かだった。けれど、目の奥には先ほどまでの光が残っている。白須賀沙也加のステージを見てしまった人間の顔だった。
「……勝てないわね」
天雨が小さく言った。
僕はすぐに返事ができなかった。
天雨は続ける。
「恋の話じゃなくて、今のステージの話」
その声には、悔しさよりも清々しさがあった。
「白須賀さん、すごいわ」
「ああ」
「あなたが見惚れるのも、少し分かる」
その言葉は、いつもの天雨らしく静かで、少しだけ苦かった。
柊先輩も、しばらく黙っていた。
いつもなら冷静な分析をすぐに口にしそうな人なのに、今はステージから目を離せないでいる。桜井会長でさえ、軽口を言わなかった。ただ、ペンライトの海を見て、素直に感心したように息を吐く。
「これは、白須賀さんの勝ちだね」
会長がぽつりと言った。
何に勝ったのかは、聞かなくても分かった気がした。
会場に。
期待に。
不安に。
そして、ここにいる僕たち全員の複雑な感情に。
その時、照明が再び落ちた。
アンコールの声が、一瞬だけさらに大きくなる。
暗闇の中で、巨大スクリーンに白い文字が浮かんだ。
――もう一度、会いに来ました。
次の瞬間、会場が爆発した。
※ ※ ※
アンコールの一曲目は、沙也加のデビュー曲だった。
イントロが流れた瞬間、客席のあちこちから悲鳴に近い歓声が上がる。スクリーンに過去の映像が映り、デビュー当時の幼さを残した白須賀沙也加が笑っていた。そこへ現在の沙也加が重なるように、ステージ中央へ現れる。
衣装は変わっていた。
本編の黒と銀の衣装ではなく、白を基調にした軽やかな衣装だった。肩口に銀のリボンが揺れ、スカートの裾がライトを受けて柔らかく光る。さっきまで会場を支配していた女王のような姿とは違う。今度は、ファンの元へ帰ってきたアイドルの顔だった。
「ただいま!」
沙也加がマイクを掲げて叫ぶ。
会場中が応えた。
「おかえり!」
その声が、アリーナを震わせる。
僕は、その一言に胸を掴まれた。
ただいま。
沙也加は、ファンにもそう言える人だった。
僕のところだけではない。彼女にとって、ステージもまた帰る場所なのだ。待ってくれている人たちがいて、自分の名前を呼んでくれる人たちがいて、何度でも戻ってこいと言ってくれる場所。
その全部を持っているから、白須賀沙也加はこんなにも強いのだと思った。
沙也加は笑いながら歌った。
デビュー曲を、今の声で。
昔の映像に残る初々しさとは違う。今の彼女には経験があった。東京ドームを越え、全国ツアー初日の本編を走り切った人間の強さがあった。けれど、歌の中心にある真っ直ぐさは変わっていない。
ファンが泣いていた。
笑っていた。
ペンライトを振りながら、彼女の名前を叫んでいた。
沙也加はその全部を受け止めて、さらに高く手を伸ばした。
その姿は、眩しすぎた。
※ ※ ※
アンコール最後のMCで、沙也加はステージ中央に立った。
さすがに息は上がっている。髪も少し乱れているし、額には汗が光っていた。けれど、表情は晴れやかだった。本編が始まる前に抱えていた怖さは、もう別のものに変わっている。
達成感。
感謝。
そして、次へ向かう覚悟。
そんなものが、彼女の瞳の中で光っていた。
「今日は、本当にありがとうございました」
沙也加は深く頭を下げた。
客席から拍手が起こる。
「全国ツアー初日。ここに立つまで、たくさんの人に支えてもらいました。スタッフさん、ダンサーさん、バンドメンバーさん、マネージャーさん。そして、今日ここに来てくれたみんな」
会場が静かに聞き入る。
「私は、強い人間じゃありません。ステージに立つ前は怖いし、不安にもなるし、逃げたくなる日もあります」
その言葉を聞いた瞬間、僕は階段の踊り場の沙也加を思い出した。
額を僕の胸元に預けて、怖いと言った沙也加。
でも逃げたくないと言った沙也加。
「でも、こうしてみんなの前に立つと、思います」
沙也加は顔を上げる。
「私はやっぱり、歌うことが好きです。みんなに会えるこの場所が、大好きです」
大きな拍手。
その中で、沙也加は少しだけ笑った。
「だから、これから全国を回って、もっともっと強くなって帰ってきます」
帰ってきます。
その言葉が、僕の胸にも落ちる。
沙也加は客席全体を見渡した。
「今日ここから、白須賀沙也加の新しいツアーが始まります。最後まで、一緒に走ってください!」
歓声が上がる。
沙也加はマイクを両手で握りしめ、最後の曲のタイトルを告げた。
その曲は、まだリリースされていない新曲だった。
ツアーのために用意された曲。
僕も、タイトルだけは彼女から聞いていた。けれど、実際に聴くのは初めてだった。
イントロは静かだった。
ピアノの音から始まり、少しずつストリングスが重なっていく。沙也加は目を閉じ、最初の歌詞を丁寧に置いた。
歌の内容は、遠くへ行く人の歌だった。
それでも、帰る場所を忘れない人の歌だった。
ファンへ向けた歌であり、彼女自身の歌でもあり、そして少しだけ、僕へ向けられているような歌だった。
会場は静まり返っていた。
誰も声を上げない。
誰も邪魔をしない。
ただ、沙也加の声だけが響く。
サビで照明が広がる。
銀色の光が客席全体へ降り注ぎ、ペンライトの海がゆっくりと揺れる。沙也加はその中心で、まっすぐ前を見て歌っていた。
その目は、客席全体を見ていた。
ファン全員を見ていた。
それでも最後の一音の手前で、ほんのわずかにこちらへ視線が届いた気がした。
気のせいかもしれない。
でも、僕には分かった。
帰ってくる、と。
その目が言っていた。
※ ※ ※
最後の音が消えたあと、会場はしばらく沈黙した。
その沈黙は、失敗の沈黙ではなかった。
言葉を失うほど、全員が彼女の歌を受け取っていた。
やがて、拍手が起こる。
一人。
また一人。
それはすぐに会場全体へ広がり、地鳴りのような拍手になった。
沙也加はステージ中央で、深く頭を下げた。
長いお辞儀だった。
顔を上げた時、彼女の目には涙が浮かんでいた。
けれど、こぼさなかった。
ステージの上では最後まで白須賀沙也加でいる。
そう言った彼女は、本当に最後までそう在ろうとしていた。
「ありがとうございました!」
彼女の声が、会場の隅々まで届く。
割れんばかりの歓声。
鳴り止まない拍手。
ペンライトの海。
その中心で、白須賀沙也加は笑っていた。
最高の笑顔だった。
そして、ステージの奥へ消える直前。
沙也加はもう一度だけ客席へ手を振った。
僕はその姿を、最後まで見ていた。
本当に、最初から最後まで。
約束通りに。
※ ※ ※
終演後、関係者席の周囲はしばらく誰も立ち上がれなかった。
余韻が強すぎたのだと思う。
隣の天雨は、静かに息を吐いた。
「……完敗ね」
「何に」
「白須賀沙也加に」
その声は、穏やかだった。
柊先輩も、パンフレットを閉じながら小さく頷いた。
「認めざるを得ないわね。あの子は本物よ」
桜井会長は目元を軽く拭いながら、いつもの調子で笑おうとしていた。
「いやー、これは裕二くんが惚れるのも仕方ないね。うん、仕方ない。悔しい子たちには悪いけど、今日の白須賀さんは強すぎた」
結城は少し離れた場所で、まだペンライトを握っていた。玲音は腕を組んだまま、どこか誇らしそうにステージを見ている。
みんな、何かを見せつけられたのだと思う。
僕も同じだった。
沙也加のすごさ。
白須賀沙也加の強さ。
彼女がどれほど遠くへ行ける人なのか。
そして、それでも僕のところへ帰ってくると言ったことの重さ。
スマホが震えた。
沙也加からだった。
『終わった』
『ちゃんと見てた?』
僕はすぐに返した。
『見てた』
『最初から最後まで』
既読はすぐについた。
返事は、短かった。
『じゃあ』
『帰っていい?』
その文面を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
ステージの上では、彼女は最後まで白須賀沙也加だった。
でも今、文字の向こうにいるのは沙也加だ。
怖くて、重くて、面倒で、それでも僕のところへ帰ってきたい女の子だ。
僕は、震える指で返信した。
『帰ってこい』
すぐに既読がついた。
そして、最後に一通。
『うん』
『ただいまって言うから、迎えて』
僕はスマホを握りしめた。
ライブは終わった。
白須賀沙也加の全国ツアー初日は、大成功だった。
けれど、僕にとっての本番は、たぶんこの後だった。
ステージの光の中から帰ってくる沙也加を、ちゃんと迎えること。
それが、今日の僕に残された一番大事な役目だった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




