最強のアイドル
ライブ中盤を過ぎても、沙也加の勢いは落ちなかった。
むしろ、曲を重ねるごとに鋭くなっていった。
五曲目のダンスナンバーで、彼女はステージ中央から花道へ一気に駆け出した。照明が追う。大型スクリーンに汗の光る横顔が映る。息が上がっているのは分かる。額に張りついた髪も、肩でわずかに揺れる呼吸も、決して余裕だけで立っているわけではないことを伝えていた。
それでも、沙也加は笑った。
それも、作った笑顔ではない。
苦しさごとファンへ渡すみたいな、全力の笑顔だった。
その瞬間、会場の熱がまた跳ね上がる。
ペンライトが海のように揺れた。銀色の波がアリーナ全体を満たし、二階席、三階席まで同じ熱が広がっていく。沙也加が腕を上げれば、観客も上げる。沙也加が煽れば、何万人もの声が一斉に返る。
白須賀沙也加が、会場を支配していた。
ただ可愛いだけではない。
ただ歌が上手いだけでもない。
その場にいる全員の心臓を、自分の呼吸に合わせて動かしてしまうような力があった。
僕は関係者席で、ただ見ていた。
隣に天雨がいる。少し離れた場所に柊先輩と桜井会長がいる。玲音も、結城も、おそらくどこかで同じステージを見ている。
けれど、今はもう誰がいるかなんてほとんど意識できなかった。
沙也加しか見えなかった。
いや、見えなくされた。
彼女がステージの上で歌い、踊り、笑うたびに、僕の視界から余計なものが剥がれ落ちていく。ハーレムだとか、嫉妬だとか、誰が僕をまだ見ているとか、そんなもの全部が、会場を揺らす歓声の中へ飲まれていった。
白須賀沙也加。
その名前だけが、今この場所の中心にあった。
※ ※ ※
中盤のMCで、沙也加は少しだけ息を整えながら、マイクを両手で握った。
会場の照明が少し落ち着き、彼女の周囲だけを柔らかく照らす。さっきまで熱狂していた客席も、彼女の声を聞くために自然と静まっていった。
「みんな、本当にありがとう」
その一言に、客席から拍手が返る。
沙也加は、その音を浴びながら笑った。
「今日ここに立つまで、何度も考えました。私はちゃんと、みんなに会いに行ける白須賀沙也加になれているのかなって」
会場が静かになる。
「東京ドームで大きな景色を見せてもらって、それで終わりじゃなくて、次は私から会いに行きたい。全国の皆さんに、ちゃんと私の歌を届けたい。そう思って、このツアーを決めました」
声は震えていない。
けれど、言葉の奥には本気があった。
「でも、やっぱり怖かったです。初めての全国アリーナツアー。初日。みんなが期待してくれている分、その期待に届かなかったらどうしようって」
僕は思わず拳を握った。
その怖さを、僕は知っている。
電話越しに聞いた。教室で見た。階段の踊り場で、僕の胸元へ額を預けながら「怖い」と言った沙也加を知っている。
けれど、ステージの上の彼女はそこで顔を上げた。
「でもね」
沙也加は笑った。
「今日、みんなの顔を見て分かりました。怖くてもいいんだって。怖いままでも、私は歌える。だって、こんなにたくさんの人が、私のことを待っていてくれたから」
拍手が起こる。
それはすぐに大きくなり、会場全体へ広がっていった。
沙也加は、その拍手の中で深く頭を下げた。
「だから今日は、全部置いていきます。可愛いところも、かっこいいところも、強いところも、弱いところも。白須賀沙也加の全部を、ここに置いていきます」
客席から歓声が上がる。
彼女は顔を上げ、マイクを握り直した。
「最後まで、私から目を離さないでください!」
その瞬間、次の曲のイントロが鳴った。
バラードだった。
会場の空気が、一瞬で変わる。
さっきまでの熱狂とは違う。今度は、全員が息を潜めるように沙也加を見つめていた。照明は青白く、ステージ中央に立つ彼女だけを静かに照らしている。
沙也加の歌声が、まっすぐ伸びた。
それは派手な高音ではなかった。
叫ぶような歌でもなかった。
けれど、一音目から胸に届いた。
彼女の声には、怖さがあった。寂しさもあった。誰かを強く想う気持ちも、遠くへ行きながら帰る場所を探しているような切実さもあった。
僕は、呼吸を忘れかけた。
これはファンへ向けた歌だ。
この会場にいる全員へ向けた歌だ。
なのに、どうしても思ってしまう。
この歌の奥に、ほんの少しだけ僕がいるのだと。
そう思った瞬間、胸の奥が熱くなった。
隣で、天雨が静かに目を伏せた。
彼女もきっと、何かを受け取ったのだろう。嫉妬ではなく、敗北でもなく、ただ純粋に、ステージの上の沙也加がどれほど本気なのかを。
曲が終わったあと、数秒だけ沈黙があった。
誰もすぐに拍手できなかった。
それくらい、沙也加の歌は会場を掴んで離さなかった。
そして次の瞬間、割れるような拍手が起きた。
沙也加はその中心で、静かに目を閉じていた。
※ ※ ※
ライブ後半。
沙也加は、完全に解き放たれていた。
激しい曲では、ステージを縦横無尽に駆ける。花道の先端まで走り、アリーナ席へ向かって大きく手を振る。客席からは悲鳴に近い歓声が上がった。彼女が笑うたび、何万人もの心が一斉に跳ねるのが分かる。
ダンサーたちとのフォーメーションも完璧だった。
途中、複雑なターンからそのまま階段を駆け上がる演出があった。以前、沙也加が何度も文句を言っていた場所だ。肩が労働組合を作るだの、脚が独立するだの、散々言っていたあの演出。
けれど本番では、そんな苦労を一切見せなかった。
彼女は軽やかに階段を上りきり、頂点で振り返った。
その瞬間、背後から銀色の火花が上がる。
会場が爆発した。
「沙也加あああああ!」
「最高!」
「可愛い!」
「かっこいい!」
声が波のように押し寄せる。
沙也加はその頂点で笑った。
強く、美しく、圧倒的に。
僕は、その姿にただ見惚れていた。
隣で桜井会長が、小さく呟く。
「これは……すごいね」
いつもの軽さがなかった。
柊先輩も黙っていた。
玲音は遠くの席で腕を組んだまま、どこか誇らしげにステージを見ている。結城は完全にペンライトを振る手を止められなくなっていた。天雨は真剣な目で、ステージの上の沙也加を見続けている。
全員が、彼女に奪われていた。
白須賀沙也加は、僕の彼女である前に、何万人ものファンを熱狂させるトップアイドルだった。
その事実を、これでもかというほど突きつけられる。
でも、不思議と寂しくはなかった。
むしろ誇らしかった。
あんな人が、僕のところへ帰ってくると言ったのだ。
あんなに眩しい場所へ立てる人が、終わったら沙也加に戻ると言ってくれたのだ。
その重さに、今さらながら足が震えそうになった。
※ ※ ※
本編最後の曲。
会場の照明が、ゆっくりと金色に変わった。
沙也加はステージ中央に立っていた。息は上がっている。髪も少し乱れている。衣装の裾も、全力で踊った名残で揺れていた。
でも、その目は真っ直ぐだった。
「最後の曲です」
会場から惜しむ声が上がる。
沙也加は微笑んだ。
「まだ終わりたくないって思ってくれてるなら、私も同じです」
その言葉に歓声が返る。
「でも、ツアーは今日ここから始まったばかりです。私はこれから、もっとたくさんの場所へ会いに行きます。今日ここで受け取ったものを、全部持っていきます」
彼女はマイクを握り直した。
「だから、最後にもう一曲。今日の私から、みんなへ」
曲が始まる。
それは明るく、まっすぐで、どこか祈りのような曲だった。
沙也加は笑っていた。
ファンも泣きながら笑っていた。
会場全体が、ひとつの光みたいになっていた。
サビで、客席のペンライトが一斉に揺れる。銀色の海。その中心で、沙也加が歌う。
最後のフレーズ。
彼女は、客席全体を見渡した。
そして、ほんの一瞬だけ。
本当に、ほんの一瞬だけ。
僕のいる方角へ視線が届いた気がした。
見すぎない。
探しすぎない。
そう約束した彼女が、それでも最後の最後に、ちゃんと帰る場所を確認するような一瞬だった。
僕は息を呑んだ。
沙也加は笑った。
そして、最後の音が会場に溶けた。
一拍。
静寂。
次の瞬間、アリーナが割れるほどの歓声に包まれた。
拍手、叫び、涙、ペンライトの光。
白須賀沙也加の全国ツアー初日、本編が終わった。
彼女はステージ中央で深く頭を下げた。
その背中に、何万人もの声が降り注ぐ。
僕も拍手していた。
手が痛くなるくらい。
それでも止められなかった。
沙也加はやりきった。
怖さも、疲れも、嫉妬も、不安も、全部持ったまま。
白須賀沙也加として、全力でファンを熱狂させた。
その姿は、僕がこれまで見てきたどの沙也加よりも眩しかった。
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