ツアー初日
全国ツアー初日。
会場の最寄り駅に降りた瞬間、僕は言葉を失った。
駅前からすでに、白須賀沙也加の色で埋まっていた。巨大な広告ビジョンにはツアービジュアルが映し出され、黒と銀を基調にした衣装の沙也加が、こちらを射抜くように見つめている。改札を抜ける人の中には、公式グッズのタオルを肩にかけた人、ペンライトを鞄に差した人、友達同士で楽しそうに写真を撮っている人がいる。
駅から会場へ向かう道には、同じ方向へ進む人の流れができていた。
その全員が、白須賀沙也加を見に来ている。
そう思った瞬間、胸の奥が少し震えた。
僕が知っている沙也加は、机の下で僕の袖を掴み、疲れると僕の机で眠り、嫉妬すると少し面倒な顔をする女の子だ。けれど、ここに集まっている人たちにとっての彼女は違う。ステージの上で眩しく笑い、歌い、踊り、明日を生きる力をくれる国民的トップアイドル。
その二つが同じ人間なのだと、今日ほど強く感じたことはなかった。
会場の外には、すでに長蛇の列ができていた。グッズ販売の列、入場待機列、ファンクラブの特典受け取り列。あちこちから彼女の名前が聞こえてくる。
沙也加ちゃん、今日どんなセトリかな。
一曲目、やっぱり新曲かな。
東京ドームのあとで全国ツアー初日って、もう伝説じゃん。
そんな声が、風に乗って耳へ届く。
僕は関係者用の入口へ向かった。
黒い封筒からパスを取り出し、スタッフに確認される。緊張で指先が少し硬くなった。自分がステージに立つわけでもないのに、心臓が落ち着かない。
関係者席へ案内される途中、見覚えのある背中を見つけた。
天雨だった。
落ち着いた服装で、長い黒髪を揺らしながら歩いている。隣には柊先輩と桜井会長。少し離れた場所に、帽子を深く被った神崎玲音の姿もあった。そして、人混みの向こうには結城らしき明るい髪も見えた。
本当に全員いる。
僕の胃が、開演前から静かに悲鳴を上げた。
天雨は僕に気づくと、小さく頷いた。
「沢渡くん」
「美鈴さんも来たんだな」
「ええ。見届けるために」
その言葉には、色々な意味が含まれていた。
白須賀沙也加のステージを見届ける。
僕が誰を見るのか見届ける。
そしてきっと、沙也加がどれほどの存在なのかを、自分の目で確かめる。
柊先輩はパンフレットを手にしながら、冷静な顔で言った。
「あなた、始まったら余計なことを考えずに見なさい」
「分かってます」
「分かってない顔ね」
桜井会長は横でにこにこしていた。
「いいねぇ。彼女の晴れ舞台を見守る彼氏と、その彼氏をまだ諦めきれない面々。開演前から情報量が多い」
「会長、声が大きいです」
柊先輩にたしなめられても、会長は楽しそうだった。
その時、スマホが震えた。
沙也加からだった。
『着いた?』
僕はすぐに返す。
『着いた』
『ちゃんと見てる』
既読はすぐについた。
そして、少し間を置いて返信が来た。
『今日、私は白須賀沙也加で行く』
『でも、最後に帰る場所は裕二だから』
『見失わないでね』
見失うわけがない。
僕はそう打ちかけて、やめた。
代わりに、短く送る。
『最初から最後まで見る』
今度は返信がなかった。
たぶん、もう本番前の準備に入ったのだろう。
※ ※ ※
会場の照明が落ちた瞬間、空気が変わった。
ざわめきが一瞬で引いて、次の瞬間、地鳴りのような歓声が湧き上がる。暗闇の中で、無数のペンライトが一斉に灯った。客席全体が星空みたいに揺れる。青、白、銀。沙也加のツアーカラーに合わせた光が、アリーナの端から端まで波のように広がっていく。
開演前のSEが流れる。
低いベース音が床を震わせ、巨大スクリーンに映像が走った。これまでの沙也加の軌跡。デビュー時の映像、ドラマのワンシーン、東京ドーム単独ライブの一瞬、そして今回のツアービジュアル。
観客の熱が、目に見えない圧となって会場を満たしていく。
僕は息を止めた。
ステージ中央が、ゆっくりと光を帯びる。
静寂。
次の瞬間、一曲目のイントロが鳴った。
光が爆ぜた。
ステージ中央のリフトが上がり、その上に白須賀沙也加が立っていた。
黒と銀の衣装。スポットライトを受けて輝く髪。細い身体からは想像できないほど強い立ち姿。会場に集まった全員の視線を、たった一人で受け止めている。
その瞬間、アリーナが揺れた。
歓声というより、爆発だった。
「沙也加あああああ!」
「待ってた!」
「最高!」
叫び声が、波になって押し寄せる。
けれど、ステージの上の沙也加は少しも飲まれなかった。
むしろ、その熱を真正面から受け止めて、笑った。
白須賀沙也加の笑顔だった。
学校で僕にだけ見せる甘えた笑顔ではない。嫉妬して不安になる時の脆い顔でもない。何万人ものファンの心を掴み、ステージの上から世界を照らすための笑顔。
その笑顔だけで、会場の熱がさらに跳ね上がった。
彼女が一歩踏み出す。
ダンサーたちが動き出す。
音楽が走る。
沙也加の歌声が、会場を突き抜けた。
強かった。
ただ上手いのではない。声の芯がまっすぐで、迷いがない。怖いと言っていた一曲目。何度も不安を口にしていた初日の入り。そのすべてを抱えたまま、彼女は一音目から会場を掴みにいった。
客席が一斉にペンライトを振る。
サビに入る瞬間、沙也加はステージの端まで走った。昨日まで脚が反乱を起こすだの、肩が労働組合を作るだの言っていた人とは思えない動きだった。軽く、鋭く、美しい。ターンのたびに銀の装飾が光を散らし、スクリーンの彼女はまるで星そのものみたいだった。
ファンたちは熱狂していた。
叫び、泣き、笑い、名前を呼び、ペンライトを振る。
その中心で、沙也加は歌い続ける。
曲が終わる直前、彼女は客席全体を見渡した。
ちゃんと全体を見ていた。
僕だけを見ていない。
それが分かって、胸が熱くなった。
彼女は約束通り、白須賀沙也加としてそこに立っていた。
一曲目が終わる。
暗転。
一拍の静寂。
次の瞬間、会場を割るような歓声が上がった。
その熱の中で、沙也加はマイクを握り直し、息を整えた。
スクリーンに映る彼女の顔は、汗を浮かべながらも笑っていた。
「みんな!」
その一言で、また客席が爆発する。
「白須賀沙也加、全国アリーナツアー初日へようこそ!」
歓声が返る。
沙也加はその声を浴びながら、目を細めた。
「今日、この場所から始められること。本当に、本当に嬉しいです」
声が震えていた。
でも、崩れてはいない。
「怖かったです。すごく。ここに立つまで、何度も不安になりました。でも――」
そこで沙也加は、客席全体を見渡した。
たぶん、僕もその視界のどこかにいた。
けれど彼女は、僕だけではなく、この会場の全員へ向けて笑った。
「みんなの顔を見たら、もう大丈夫だって思えました!」
歓声。
拍手。
泣いているファンもいた。
「今日は、白須賀沙也加の全部を置いていきます! 最後まで、ついてきてください!」
その瞬間、二曲目のイントロが鳴った。
空気が変わる。
沙也加が再び走り出す。
会場は、完全に彼女のものになった。
※ ※ ※
そこからの沙也加は、本当に圧巻だった。
激しいダンスナンバーでは、息を乱しながらも笑顔を崩さず、ダンサーたちを従えるようにステージを支配した。バラードでは、照明が一筋だけ彼女を照らし、会場中が息を潜めてその声を聞いた。MCでは地方公演の話を交え、ファンの笑いを誘い、次の瞬間には真剣な言葉で涙を誘う。
完璧だった。
けれど、ただ完璧なだけではなかった。
必死だった。
全力だった。
汗も、息切れも、微かな声の震えも、全部隠しきれないほど本気だった。その本気が、ファンの熱狂をさらに大きくしていく。
会場全体が、沙也加を中心に回っていた。
隣の席で天雨が、小さく呟いた。
「……すごい」
その声には、嫉妬も対抗心もなかった。
ただ純粋な感嘆だけがあった。
柊先輩も、真剣な目でステージを見つめている。
桜井会長ですら、いつもの軽口を忘れたように黙っていた。
神崎玲音は少し離れた席で、腕を組みながら微かに笑っていた。その表情には、同じ芸能界にいる人間としての誇らしさがあった。
結城は、ペンライトを握りしめて、完全にファンの顔になっていた。
みんな、沙也加を見ていた。
僕を巡る重い感情も、複雑な関係も、その瞬間だけは全部、ステージの光に飲み込まれていた。
白須賀沙也加が、全員の視線を奪っていた。
そして僕も、ただ見ていた。
彼女だけを。
沙也加がステージの中央で歌う。
銀色の光の中で、腕を伸ばす。
何万人もの声が、その名を呼ぶ。
その姿を見ながら、僕は思った。
僕の彼女は、こんなにも遠くへ行ける人なのだと。
そして、それでも最後には僕のところへ帰ってくると言った人なのだと。
胸の奥が、熱くて痛かった。
ライブはまだ終わらない。
白須賀沙也加の全国ツアー初日は、始まったばかりだった。
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