みんな行くよ
ツアー初日まで、あと一週間。
その日、教室に入ってきた沙也加は、今までで一番“白須賀沙也加”だった。
髪はいつも通り綺麗に整えられていて、制服の着こなしにも乱れはない。クラスメイトへ向ける笑顔も完璧で、声も明るい。けれど、どこか研ぎ澄まされていた。冬の朝の光を受けて立つその姿は、学校の教室ではなく、すでにステージ袖で出番を待っている人間のものに見えた。
僕が席へ着くと、沙也加はいつも通り隣で笑った。
「おはよう、裕二」
「ああ、おはよう」
たったそれだけの会話だった。
けれど、沙也加の机の上には英語の教科書と一緒に、細かく折り畳まれたステージ進行表が置かれている。見えてはいけないものなのだろう。表紙にはご丁寧に「英語長文プリント」と書かれた紙が重ねられていた。
偽装の雑さと本気度が反比例している。
「沙也加」
「なに?」
「それ、英語じゃないだろ」
「英語だよ」
「どの辺が」
「ステージは世界に通じるから」
「無理がある」
沙也加は少しだけ頬を膨らませた。
その直後、後ろの席から天雨が静かに言った。
「白須賀さん、せめて本当に英語のプリントを上に置いた方がいいわ」
「美鈴ちゃん、朝から監査が厳しい」
「監査されるようなことをするからよ」
天雨の声はいつも通り落ち着いていた。けれど、その目は沙也加の顔色を見ている。昨日より疲れていないか。無理をしていないか。食事は取っているか。そういう確認を、言葉にせず続けているのが分かった。
沙也加もそれを分かっているのか、文句を言いながらも素直にプリントをしまった。
「……今日はちゃんと食べるよ」
「ならいいわ」
「美鈴ちゃん、私のお母さん?」
「違うわ」
「じゃあマネージャー?」
「違うわ」
「じゃあ何?」
天雨は一瞬だけ黙った。
そして、ほんの少しだけ目を伏せる。
「クラスメイトよ」
その答えは正しい。
正しいのに、妙に胸へ残った。
沙也加も、それ以上は何も言わなかった。
※ ※ ※
昼休み、事件は起きた。
正確には、僕の机の上で起きた。
沙也加が購買で買ってきたサラダチキン、ゼリー飲料、栄養補助バー、ミニおにぎり二つが、ずらりと並べられたのだ。
「……なんだこれ」
「ツアー前アイドル昼食セット」
「名前が強い」
「マネージャーさんに渡された。『白須賀、ちゃんと食べて』って」
「なら食べろよ」
「うん。だから裕二、見張って」
なぜ僕の仕事になるのか。
そう思ったが、沙也加は真剣だった。彼女はサラダチキンの封を開けながら、少しだけ眉を寄せる。
「食べないと倒れるのは分かってる。でも緊張してると、お腹があんまり空かない」
その言葉で、ふざけた空気が少しだけ沈んだ。
彼女は本当に本番へ近づいている。
体調管理、歌、ダンス、メンタル。どれか一つ崩れただけで、初日のステージに響く。その重さを、沙也加自身が一番分かっている。
僕はミニおにぎりを一つ手に取って、彼女へ差し出した。
「まずこれ」
「裕二が食べさせて」
「教室だぞ」
「じゃあ見てて」
「それならいい」
沙也加は不満そうだったが、素直におにぎりを受け取った。
一口。
また一口。
僕が見ていると、沙也加は少し照れくさそうに食べ進める。国民的トップアイドルが、彼氏に見張られながらミニおにぎりを食べている。光景としてはかなり間抜けだった。
そこへ、桜井会長がなぜか教室の入り口から顔を出した。
「おお、餌付け現場?」
「会長」
柊先輩の声がその後ろから飛ぶ。
どうやら二人で来たらしい。
沙也加はおにぎりを持ったまま、完璧な笑顔を作ろうとして、口の中にご飯があるせいで少し失敗した。
「んっ……違います」
「いや、今のはかなり餌付けだったよ」
「会長、白須賀さんで遊ばないでください」
柊先輩は冷静に止めながらも、少しだけ笑いを堪えているように見えた。
沙也加はごくんと飲み込んでから、僕の袖を机の下で軽く引いた。
「裕二、笑った?」
「笑ってない」
「笑ったら夜の報告に追加」
「罰則制度が細かすぎる」
天雨が横から静かに言った。
「白須賀さん、食べ終わるまで罰則を増やさない方がいいわ。消化に悪いから」
「美鈴ちゃん、今日も正論が強い」
結局、沙也加はその場にいた全員に見守られながら、昼食セットをほぼ完食した。
最後のゼリー飲料を飲み終えた時、桜井会長が拍手しそうになり、柊先輩に止められていた。
※ ※ ※
放課後、沙也加は最終調整のために早退した。
その直後、僕のスマホには複数のメッセージが届いた。
結城から。
『初日、私も行くことになった』
『迷惑じゃないよね?』
玲音から。
『初日は私も関係者側にいる』
『沙也加の顔、ちゃんと見なさい』
『あと、私のこと見つけても変な顔しないこと』
そして、天雨から。
『客席で慌てないように』
『たぶん全員いるから』
全員。
その二文字で、胃が重くなった。
沙也加の全国ツアー初日。
本来なら、彼女が白須賀沙也加として最高の幕開けを迎える日だ。何万人ものファンが集まり、照明が落ち、音楽が鳴り、彼女がステージに立つ。
その客席に、僕を好きだった、あるいはまだ好きな女の子たちが集まる。
天雨。
結城。
玲音。
柊先輩。
桜井会長はたぶん面白がっているだけだが、それはそれで厄介だ。
もはやライブ会場というより、僕の人間関係の最終面接会場みたいになっている。
しかも、主演は沙也加。
彼女がこの状況を知ったらどうなるか。
考えるまでもなかった。
数分後、沙也加からメッセージが来た。
『聞いた』
『結城さんも玲音さんも来るんだね』
『美鈴ちゃんも副会長さんも』
『すごいね』
怖い。
文章が平坦すぎて怖い。
続けて、もう一通。
『でも大丈夫』
『ステージの上から、裕二が誰を見てるか分かるから』
大丈夫ではない。
まったく大丈夫ではない。
僕は急いで返信した。
『ステージに集中しろ』
既読。
『するよ』
『でも裕二も集中して』
『私に』
その一文だけで、沙也加の重さが画面越しに伝わってきた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




