ツアーまで残り10日
ツアー初日まで、あと十日。
その数字が一桁目前になった頃、沙也加は学校でも少しだけ“本番前”の空気を纏うようになっていた。
以前なら、彼女は教室の中へ自然に溶け込んでいた。もちろん国民的トップアイドルという肩書きが消えるわけではない。けれど、授業を受け、昼休みに笑い、クラスメイトの話に相槌を打つ姿は、少なくとも同じ学校に通う一人の生徒として成立していた。
今は違う。
椅子に座っているだけでも、彼女の意識の半分はステージへ向いている。黒板を見る目の奥で、きっと照明の角度を確認している。ノートを取る指先が、時々リズムを刻む。先生が指名した時はちゃんと答えるのに、その直後、机の端へ小さく「二曲目後、呼吸」と書き足している。
もはや授業ノートなのか、ツアー資料なのか分からなかった。
そして、その状態を一番心配していたのは、たぶん僕ではなく天雨だった。
「白須賀さん」
昼休み、天雨は沙也加の机の前に立っていた。
沙也加は仮セトリを見ながら、購買で買ったクリームパンを齧っている。食べているというより、作業の合間に糖分を補給している、という感じだった。
「なに、美鈴ちゃん」
「そのパン、さっきから三口しか減っていないわ」
「え?」
「昼食として不十分」
天雨の声は静かだった。
けれど、内容は完全に保護者だった。
沙也加は自分の手元のパンを見て、それから少し困ったように笑う。
「食べてるよ?」
「食べている人は、パンを楽譜みたいに眺めない」
「これ、パンじゃなくてセトリの上にパンがあるだけだから」
「余計に悪いわ」
僕は隣で思わず頷いた。
沙也加は不服そうに僕を見る。
「裕二まで?」
「それは美鈴さんが正しい」
「彼氏なら私の味方して」
「彼氏だから体調の味方をしてる」
そう言うと、沙也加は一瞬だけ黙った。
そして、頬を少し赤くした。
「……そういう言い方はずるい」
「何が」
「怒れなくなる」
この人は、本当に自分に都合のいい時だけ恋人理論を持ち出す。
天雨は小さく息を吐くと、自分の鞄から小さなゼリー飲料を取り出し、沙也加の机に置いた。
「これも飲んで」
「美鈴ちゃん、準備よすぎない?」
「あなたが昼食を雑にするのは予想できたから」
「私のマネージャー?」
「違うわ」
天雨は即答した。
けれど、その動きはどう見てもマネージャー寄りだった。
沙也加はゼリー飲料を手に取り、少しだけ複雑そうな顔をする。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
短い会話だった。
でも、その間にある空気は、以前より少し変わっていた。
沙也加と天雨は、恋敵だ。今もそれは変わらない。天雨はまだ僕を見ているし、沙也加はそれを知っている。だから沙也加は時々わざと僕との距離を見せつけるし、天雨は静かにそれを受け止めながら、絶妙なところで刺してくる。
けれど、ツアーが近づくにつれて、二人の間には妙な協定のようなものが生まれ始めていた。
白須賀沙也加を倒れさせない。
その一点だけは、二人とも一致しているらしい。
僕からすればありがたいのか怖いのか、判断に困る状況だった。
※ ※ ※
放課後、沙也加はリハへ向かう前に、僕を階段の踊り場へ連れていった。
最近の彼女は、出発前に必ず僕をどこかへ連れていく。教室の端、非常階段、校舎裏、屋上へ続く踊り場。場所は毎回違うが、目的は同じだ。
充電。
本人はそう言っている。
今日も沙也加は僕の前に立つと、両手で僕の袖を掴んだ。
「裕二」
「なんだ」
「今日、衣装つきで通す」
「重いやつか」
「重いやつ。肩がまた労働組合を作ろうとしてる」
「ついに組織化したか」
「でも、負けない」
沙也加は真剣な顔で言った。
肩の労働組合に負けない、という意味ではないと思いたい。
「今日はね、本番衣装に近い状態で一曲目から最後まで通すの。照明も少し入る。ステージの高さも本番に近い」
彼女の声が、少しだけ低くなる。
「多分、今までで一番怖い」
僕は頷いた。
下手に励ますより、まず受け止める方がいい気がした。
沙也加は、僕の袖を掴んだまま、続ける。
「でも、昨日より楽しみ」
目が、強かった。
疲れている。怖がっている。嫉妬もするし、不安にもなる。それでも、彼女は確実に本番へ近づいている。逃げる方向ではなく、前へ進む方向へ。
「なら、大丈夫だ」
「雑じゃない?」
「本心だ」
「もっと具体的に」
またそれだ。
僕は少し考えてから言った。
「怖いって言えてるうちは、大丈夫だと思う。怖いのを隠して、完璧な顔だけで行こうとしてる時の方が危ない」
沙也加は少しだけ目を見開いた。
「だから、今日怖いなら、怖いまま行ってこい。白須賀沙也加は、それでも立てるだろ」
自分で言っていて、少し恥ずかしかった。
けれど、沙也加は笑わなかった。
袖を掴んでいた指が、ぎゅっと強くなる。
「……裕二」
「うん」
「私のこと、ちゃんと見てるね」
「見るって約束したからな」
沙也加はしばらく黙っていた。
それから、額を僕の胸元へそっと当てた。
キスではない。
抱きつくほどでもない。
ただ、額を預けるだけ。
でも、その仕草が今日の彼女には一番似合っていた。
「これで行ける」
「安上がりだな」
「高いよ。裕二専用だから」
「また専用か」
「当たり前でしょ」
その声には、いつもの重さが戻っていた。
でも、今日の重さはどこか穏やかだった。
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