ツアーの過程
初日の関係者パスを受け取ってから、僕の日常は少しだけ変わった。
封筒そのものは、机の引き出しの奥にしまってある。けれど、存在感だけはやたらと大きかった。授業中にふとペンを止めるたび、あの黒い封筒のことを思い出す。沙也加が真剣な顔で「ちゃんと見てて」と言った時の声が、耳の奥で何度も蘇る。
全国ツアー初日。
その日は、沙也加にとってただのライブではない。
東京ドームを成功させた彼女が、次のステージへ進むための一歩だ。国民的トップアイドルとして、さらに遠くへ行くための初日だ。
そして、僕にとっても。
彼女が白須賀沙也加として羽ばたく姿を、初めて真正面から見る日になる。
そんなことを考えていたら、昼休みの教室で、隣の席から視線を感じた。
沙也加だった。
今日は午前中だけ学校に来て、午後からリハに向かう日だ。制服姿の彼女は、いつも通りクラスメイトに囲まれていた。けれど、その会話の合間にも、僕の方をちらちら見ている。
いや、ちらちらではない。
だいぶ見ている。
「沙也加」
「なに?」
「人の顔を見すぎだ」
「見てないよ」
「嘘つけ」
「見てたけど、見てないことにしたい」
「正直だな」
沙也加は少しだけ唇を尖らせた。
机の上には、ツアー用の仮MC原稿が置かれている。もちろん外からは普通のプリントに見えるよう、上に英語の課題プリントを重ねていた。偽装の仕方が妙に手慣れている。
そのプリントの端に、またしても小さな文字が見えた。
『裕二を見るのは三秒以内』
僕は無言でその文字を指差した。
沙也加は、さっとプリントを隠した。
「違うの」
「何が」
「これは自制メモ」
「自制できてないから書いてるんだろ」
「書いてる時点で偉い」
「自己評価が甘いな」
沙也加はむっとした顔をしたが、その目はどこか楽しそうだった。ツアーの緊張が増すほど、彼女は僕に関する妙なルールを増やしている気がする。見る時間、連絡する時間、報告してほしいこと、客席で座ってほしい位置。どれも一見すると可愛い恋人のわがままに見えなくもないが、量が増えると軽くない。
そこへ、後ろから天雨が静かに近づいてきた。
「白須賀さん」
「なに、美鈴ちゃん」
「三秒以内に抑えようとするから逆に意識するのよ」
沙也加の肩がぴくりと動いた。
「見たの?」
「見えたわ」
「美鈴ちゃん、視力よすぎない?」
「文字が大きいのよ」
沙也加は黙った。
どうやら、反論できないらしい。
天雨は僕へ視線を移し、淡々と言う。
「沢渡くん、初日まで白須賀さんの刺激になりすぎないように」
「僕のせいなのか?」
「半分くらい」
「半分も?」
「残り半分は白須賀さん本人の問題」
「美鈴ちゃん、今日ちょっと厳しくない?」
「疲れている人に正論を言う係だから」
そんな係はない。
でも、天雨の言うことはたいてい正しい。
沙也加は不満そうに頬を膨らませたあと、僕の袖を机の下で引いた。誰にも見えない場所で、ほんの少しだけ。彼女が悔しい時、寂しい時、安心したい時にする癖だった。
僕は軽く指先でその手へ触れた。
それだけで、沙也加の表情が少しだけ緩む。
天雨はその変化を見逃さなかった。
「……本当に分かりやすい二人ね」
「美鈴ちゃんには言われたくないかも」
「私は分かりにくいわ」
「裕二くんを見る時だけ分かりやすいよ?」
空気が止まった。
沙也加が言ってから、しまった、という顔をする。
天雨は表情を変えなかった。
けれど、ほんの少しだけ目の奥が揺れた。
「そう」
短く答えただけだった。
その静けさが、逆に胸に刺さった。
沙也加もそれを感じたのか、袖を掴む力を少し弱めた。嫉妬で言葉を出した後に、相手の痛みへ気づいてしまう。こういうところが、彼女の面倒なところであり、優しいところでもあった。
「……ごめん、美鈴ちゃん」
「謝る必要はないわ」
天雨はすぐに言った。
「事実だから」
そう言って、彼女は自分の席へ戻っていった。
沙也加はしばらくその背中を見ていた。
そして、小さく息を吐く。
「私、嫌な子だね」
「嫌な子ではないだろ」
「嫉妬深い子ではある」
「それは否定しない」
「否定してよ」
「無理だ」
沙也加は机に額をつけた。
「裕二、正直すぎ」
「嘘つくよりいいだろ」
「いいけど、ちょっと刺さる」
そう言いながらも、彼女は机の下でまた僕の手を探してきた。
僕はその指を握った。
沙也加は顔を伏せたまま、小さく笑った。
「……でも、握ってくれるから許す」
彼女の許す基準は、今日もとても単純だった。
※ ※ ※
放課後、沙也加はリハへ向かった。
その背中を見送ったあと、僕は生徒会室へ呼ばれた。嫌な予感しかしなかったが、用件は本当に仕事だった。ツアー期間中に沙也加が欠席する日の補助プリントを整理するため、クラス代表として確認してほしいらしい。
生徒会室には柊先輩と桜井会長がいた。
柊先輩は書類を整理していて、会長はなぜか僕を見るなり笑った。
「裕二くん、顔が初日前の彼氏って感じ」
「どんな顔ですか」
「心配七割、楽しみ二割、胃痛一割」
「だいたい合ってます」
「合ってるんだ」
桜井会長は楽しそうだった。
柊先輩は書類を差し出しながら、落ち着いた声で言う。
「白須賀さん、かなり詰まっているわね」
「はい」
「あなたが支えるのは大事だけど、全部を引き受けようとしすぎないこと」
その言葉に、僕は顔を上げた。
柊先輩は真っ直ぐこちらを見ていた。
「白須賀さんの重さを受け止めるのと、白須賀さんの不安を全部あなた一人で処理するのは違うわ」
大人の言葉だった。
そして、今の僕に必要な言葉でもあった。
桜井会長は少しだけ笑みを薄めた。
「まあでも、恋人だから背負いたくなるよね。分かるよ」
会長の口から出ると、不思議と説得力があった。
和樹先輩との関係があるからだろう。あの人もきっと、誰かと付き合うことの面倒さと、幸せと、責任を知っている。
「ただ、裕二くん」
「はい」
「白須賀さんはトップアイドルだけど、普通の女の子でもあるから」
桜井会長は柔らかく言った。
「完璧な子を支えるんじゃなくて、完璧じゃない部分をちゃんと一緒に持ってあげなよ」
その言葉は、静かに胸へ落ちた。
沙也加は完璧だ。
でも、完璧ではない。
僕の袖を掴んで眠るし、座席表に僕の名前を書くし、嫉妬で天雨へ余計なことを言ってしまって落ち込む。そういう面倒で、重くて、不器用なところも全部、沙也加なのだ。
「分かりました」
僕がそう答えると、柊先輩が小さく頷いた。
「ならいいわ」
その時、スマホが震えた。
沙也加からだった。
『リハ行ってくる』
『今日の報告、忘れないで』
『あと、会長さんと副会長さんに近づきすぎないで』
なぜ分かる。
僕が画面を見つめていると、桜井会長がにこにこしながら言った。
「白須賀さん?」
「はい」
「なんて?」
「近づきすぎるな、と」
柊先輩が静かにため息をついた。
「本当に油断ならない子ね」
でも、その声には少しだけ笑いが混じっていた。
※ ※ ※
夜、沙也加からの電話は短かった。
珍しく、本当に短かった。
リハが長引き、帰宅が遅くなり、明日も朝からボイストレーニングがあるらしい。声は疲れていたが、どこか満たされてもいた。
『今日ね、最後の曲まで通せた』
「すごいな」
『うん。途中で脚が抗議文出してきたけど、破って進んだ』
「脚を労われ」
『明日労う』
沙也加は小さく笑った。
それから、少し沈黙する。
『裕二』
「うん」
『私、今日ちょっと美鈴ちゃんに嫌なこと言った』
「ああ」
『でも、裕二が手を握ってくれたから、落ち着いた』
「そっか」
『私、たぶんツアーが近づくほど、もっと面倒になる』
「知ってる」
『嫉妬もするし、泣くかもしれないし、裕二のこと困らせると思う』
「それも知ってる」
『でも』
沙也加の声が、少しだけ柔らかくなる。
『初日、絶対に最高の白須賀沙也加で立つから』
その言葉だけは、揺れていなかった。
『だから、見てて』
「見るよ」
『最初から最後まで?』
「最初から最後まで」
『私が裕二を見すぎてないかも?』
「それはスタッフに任せたい」
『裕二も見て』
「分かったよ」
沙也加は満足そうに息を吐いた。
『じゃあ、今日は寝る』
「珍しく素直だな」
『裕二に心配されたくないから』
「もうしてる」
『じゃあ、これ以上心配させないように寝る』
その言い方が少しだけ大人びていて、僕は黙った。
沙也加は確かに変わっている。
重さは増している。面倒くささも増している。けれど、それと同じくらい、白須賀沙也加として前へ進む覚悟も強くなっている。
『おやすみ、裕二』
「おやすみ、沙也加」
通話が切れたあと、部屋は急に静かになった。
僕は机の引き出しを開け、黒い封筒を取り出した。
関係者パス。
初日まで、あと二週間。
沙也加は確実に、本番へ近づいている。
そして僕もまた、彼女の“初日”を見届ける覚悟を、少しずつ固めていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




