彼女様
ツアー初日まで、あと二週間。
その数字がカレンダーの上で現実味を帯びた瞬間から、沙也加の周囲は本格的に戦場になった。
朝、教室に来る。授業を受ける。昼休みに資料を見る。午後に早退する。放課後から夜までリハーサル。その合間に取材、告知動画の収録、衣装の最終調整、グッズ用写真の確認。普通の高校生なら一つでも十分疲れる予定が、沙也加の日常には平然と詰め込まれていた。
それでも彼女は笑っていた。
クラスメイトに話しかけられれば、いつもの白須賀沙也加として明るく答える。教師に心配されれば「大丈夫です」と完璧な笑顔で返す。事務所から電話が来れば、廊下の端へ移動して、声の温度を一段変える。
その全部が、あまりにも自然だった。
自然すぎて、怖いくらいだった。
だから僕は最近、彼女の「大丈夫」を信用しないことにした。
※ ※ ※
昼休み、沙也加は珍しく僕の机へ突っ伏していた。
自分の席ではない。僕の机だ。
僕が購買で買ってきた焼きそばパンを置くスペースすらないくらい、彼女は当然のようにそこへ顔を伏せていた。長い髪が机の上に広がっていて、横から見ると完全に電池切れのトップアイドルだった。
「沙也加、そこ僕の机」
「知ってる」
「知ってて退かないのか」
「裕二の机だから休める」
理屈が分からない。
いや、沙也加の中では分かっているのだろう。僕に関係する場所なら自分の休憩所。そういう異常な方程式が、彼女の中では成立している。
周囲のクラスメイトたちは、白須賀さん疲れてるんだな、くらいの顔で見守っている。彼女が僕の机に突っ伏していることを、誰もそこまで深く考えない。白須賀沙也加という存在は、普段から距離感の異常さを笑顔と華で誤魔化せるから厄介だった。
「今日もリハか」
「うん。今日は衣装つきの通し」
「重いやつ?」
「重いやつ。肩が一回、事務所に労災申請しようとしてた」
「肩に意思を持たせるな」
「あるよ。昨日から右肩が『この装飾、本当に必要?』って聞いてくる」
沙也加は机に伏せたまま、ぼそぼそと言う。
疲れ切っているはずなのに、言葉だけは妙に元気だった。いや、これは元気というより、疲れすぎて変なところのブレーキが壊れているのかもしれない。
僕が焼きそばパンの袋を開けようとすると、沙也加の手が伸びてきた。
机の上を這うように、僕の袖を掴む。
「裕二」
「なんだ」
「今日の昼、私が出発するまでここにいて」
「いるよ」
「どこにも行かない?」
「行かない」
「美鈴ちゃんに呼ばれても?」
「行かない」
「副会長さんに書類頼まれても?」
「断る」
「結城さんから連絡来ても?」
「今は見ない」
沙也加は、そこでようやく顔を上げた。
目元に少しだけ疲れがある。それでも、僕の返事を聞いた瞬間、ほんの少しだけ満たされた顔をした。
「……よろしい」
「何様だ」
「彼女様」
言い切った。
この人は、時々自分の立場を王権みたいに使う。
けれど、そんなやり取りをしていると、教室の後方から静かな視線が飛んできた。天雨だ。彼女は教科書を開いているふりをしながら、こちらを見ていた。
嫉妬ではない。
少なくとも、沙也加のような分かりやすいものではない。
ただ、僕と沙也加の距離を見て、何かを測っているような目だった。
その視線に気づいた沙也加が、わざとらしく僕の袖をもう一度引いた。
「沙也加」
「なに?」
「今、わざとだろ」
「うん」
隠す気がない。
「美鈴ちゃんには、ちゃんと見せておかないと」
「何を」
「裕二は私の充電器だってこと」
「人を電源扱いするな」
「違うよ。もっと大事。専用充電器」
どちらにせよ、人権が怪しい。
天雨はそのやり取りを聞いていたのか、静かに息を吐いた。そして、席を立ってこちらへ歩いてくる。
「白須賀さん」
「なに、美鈴ちゃん」
「専用充電器は持ち運び禁止よ」
「学校内ならセーフ」
「校則にはないけど、常識にはあるわ」
「常識、また出た」
沙也加は不満そうに頬を膨らませる。
だが、天雨は沙也加の顔色をじっと見て、少し声を落とした。
「本当に疲れてるなら、沢渡くんで遊んでないで寝た方がいい」
「遊んでないよ。回復してるの」
「なら、なおさら寝なさい」
天雨の言い方は冷たい。
けれど、その奥には確かな心配があった。
沙也加もそれを分かっているのだろう。反論しかけて、結局、小さく息を吐いた。
「……五分だけ」
「十分」
「美鈴ちゃん、彼女みたい」
「違うわ」
天雨は即答した。
その即答の早さが、逆に少し痛かった。
沙也加は一瞬だけ黙ったあと、僕の袖を掴んだまま、また机に顔を伏せた。
「裕二、ここにいて」
「それは」
「眠いの」
「寝ろ」
僕がそう言うと、沙也加は小さく頷いた。
そして、本当に数秒で静かになった。
机の上で、白須賀沙也加が眠っている。
全国ツアー初日を目前に控えたトップアイドルが、昼休みの教室で、僕の袖を掴んだまま眠っている。
重いというより、もはや生活の一部として侵食されている気がした。
※ ※ ※
放課後、沙也加は迎えの車に乗る前、僕を校舎裏へ呼び出した。
いつものことになりつつあるのが怖い。
ただ、今日は甘えるためだけではなかった。彼女は鞄から一枚の封筒を取り出した。黒い封筒に銀色の文字。見るからに普通のチケットではない。
「これ」
「何だ?」
「初日の関係者パス」
僕は受け取った封筒を見た。
そこには、白須賀沙也加 全国アリーナツアー初日公演、関係者席入場証と印字されていた。
現実味が、一気に押し寄せてくる。
「本当に行くんだな」
「行くのは私。裕二は見るの」
「そうだった」
沙也加は少しだけ笑った。
けれど、その笑みはすぐに薄くなる。
「裕二」
「うん」
「初日、怖い」
昼間よりもずっと素直な声だった。
「でも、逃げたくない」
「ああ」
「だから、ちゃんと見てて」
その言葉は、何度も聞いた。
でも、今日は重さが違った。
沙也加は僕に手を伸ばさなかった。ただ、まっすぐ立っていた。白須賀沙也加として、ステージへ向かう人間の顔で。
「一曲目、最初の音が鳴った時、私たぶん裕二を思い出す」
「客席全体を見ろよ」
「見るよ」
沙也加は静かに頷く。
「でも、その奥に裕二がいるから、私は笑える」
その瞬間、風が吹いた。
冬の冷たい風が、彼女の髪を揺らす。制服姿のままなのに、今の沙也加はもう半分ステージに立っているみたいだった。
「分かった」
僕は封筒を握る手に力を込めた。
「ちゃんと見る」
沙也加は安心したように目を細めた。
その時、遠くでクラクションが短く鳴った。迎えの車が待っている合図だろう。
沙也加は一歩下がる。
そして、いつものように笑った。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ。行ってこい」
彼女は背を向けて歩き出した。
けれど、数歩進んだところで振り返る。
「裕二」
「なんだ」
「今日、誰と話したか夜に聞くから」
「今の流れでそれ言うか」
「大事だから」
台無しだった。
でも、その台無しさが沙也加らしかった。
全国へ向かうトップアイドル。
そして、彼氏の一日を把握したい重すぎる彼女。
その両方を背負ったまま、沙也加は黒塗りの車へ乗り込んでいった。
車が走り去ったあと、僕は手元の封筒を見下ろした。
ツアー初日まで、あと二週間。
白須賀沙也加の物語が、いよいよ大きく動き出そうとしていた。
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