本番前の練習
その日の夜、沙也加から電話が来たのは、二十三時を少し過ぎた頃だった。
画面に表示された名前を見た瞬間、僕は反射的に通話を取った。何度目か分からないやり取りなのに、最近はこのコールが鳴るたび、少しだけ背筋が伸びる。沙也加が今日一日を白須賀沙也加として走り切って、ようやく沙也加として帰ってくる時間だからだ。
けれど、聞こえてきた第一声は、想像よりずっと低かった。
『ただいま』
たった四文字だった。
なのに、その声には一日分の疲労が沈んでいた。ランスルーを通し、スタッフと修正点を洗い出し、衣装の重さや階段演出に文句を言いながらも、最後まで白須賀沙也加として立ってきた人間の声だった。
「おかえり」
僕がそう返すと、電話の向こうで沙也加が小さく息を吐いた。
『……うん。今ので少し帰ってきた」』
「まだ完全には帰ってないのか」
『まだ三割くらいステージにいる』
「魂を置いてくるな」
『仕方ないでしょ。三曲目の階段がまだ私の脚を許してくれないんだから』
疲れているのに、言うことだけは相変わらずだった。
ただ、その軽口の奥には確かな手応えもあった。今日のランスルーは相当きつかったはずだ。それでも彼女は、声の底でどこか興奮している。怖さも、疲労も、同時にちゃんと楽しさへ変わり始めているのが分かった。
「どうだったんだ」
『全部見えた』
沙也加は少しだけ声を落とした。
『まだ照明も仮だし、衣装も全部じゃないし、ステージも本番と違う。でも、一曲目で立った瞬間、客席が見えた気がした』
電話越しなのに、彼女の目が遠くを見ているような気がした。
『そこに裕二がいるのも、見えた』
「本番では客席全体を見ろよ」
『分かってる。分かってるけど、中心に置くのは裕二』
また重い。
でも、今夜の重さは少し違った。
嫉妬や不安だけではない。白須賀沙也加として前へ進むための核に、僕を置こうとしている重さだった。
『それでね、マネージャーさんに言われた』
「何を」
『『白須賀、今日すごく良かったけど、一曲目の最後で誰か一人を見すぎてる顔してた』って』
「バレてるじゃないか」
『まだ裕二いないのにバレた』
「想像上の僕を見るな」
『だっていたもん』
いない。
いないはずなのに、沙也加の中ではいたことになっているらしい。
『だから、対策を考えました』
「嫌な予感しかしない」
『初日、裕二には関係者席の一番見えやすいところに座ってもらいます』
「対策とは」
『視界に入る場所を固定すれば、探さなくて済む』
「それは探す前提だろ」
『うん』
開き直りが早かった。
※ ※ ※
翌日の昼休み、沙也加はその“対策”を本当に持ってきた。
屋上のベンチに座った僕の前で、彼女は鞄から一枚の紙を取り出した。そこには初日会場の客席図らしきものが印刷されていて、関係者席の一角に赤丸がついている。
その赤丸の横には、手書きで「裕二席」と書かれていた。
「おい」
「なに?」
「これ、スタッフ資料じゃないのか」
「コピーじゃなくて、私が自分用に作ったやつだからセーフ」
「倫理的にアウト寄りだろ」
「大丈夫。愛情で作ったから」
沙也加の基準はいつもおかしい。
僕が紙を見つめていると、背後から静かな声がした。
「白須賀さん、それはもはや座席表ではなく包囲網ね」
天雨だった。
いつの間にか屋上の扉の近くに立っている。黒髪を冬の風に揺らしながら、相変わらず静かな目でこちらを見ていた。
沙也加は紙を胸元に引き寄せる。
「美鈴ちゃん、見ないで」
「見えたわ。裕二席って書いてあった」
「見ないでって言ったのに」
「見える大きさで書く方が悪い」
正論だった。
沙也加は少しだけ頬を膨らませたあと、僕の隣へぴたりと座った。肩が触れるほど近い。天雨の前だからこそ、わざと距離を詰めているのが分かる。
「初日は、裕二がここにいるの」
「そう」
天雨は短く答えた。
「なら、私は別の場所から見るわ」
沙也加の表情が止まった。
「来るの?」
「行くわ。チケットは取ったから」
さらっと言った。
僕も沙也加も、一瞬だけ言葉を失った。
天雨は表情を変えない。
「白須賀さんのステージを見るためよ。あと、沢渡くんがどんな顔で見るのかも少し気になるから」
「後半いらなくない?」
「いるわ」
天雨は淡々としていた。
沙也加の指が、僕の袖を無言で掴んだ。強い。かなり強い。
彼女の中で、ツアー初日の客席図が一瞬で戦場の配置図に変わったのだと思う。
※ ※ ※
その後、生徒会室でも似たようなことが起きた。
柊先輩に呼ばれて書類を届けに行っただけなのに、桜井会長が開口一番、爆弾を落とした。
「白須賀さんの初日、私も行くよ」
「会長もですか」
「うん。柊ちゃんと」
隣の柊先輩が静かに書類を整えていたが、その耳がわずかに赤い気がした。
「私は会長の付き添いよ」
「そういうことにしておいてあげる」
「会長」
桜井会長は楽しそうだった。
「いやー、楽しみだね。トップアイドルの全国ツアー初日。それを見守る彼氏。さらに彼氏を狙う女の子たちが客席に点在」
「言い方が最悪です」
「ラブコメとしては最高じゃない?」
否定できないのが悔しかった。
柊先輩は僕へ視線を向ける。
「あなた、当日は変な顔をしないように」
「変な顔?」
「白須賀さんに見惚れすぎて、周囲から彼氏だと悟られる顔」
「そんな顔ありますか」
「あるわ。あなたは分かりやすいから」
最近、全員から分かりやすいと言われている気がする。
その時、スマホが震えた。
沙也加からだった。
『今どこ?』
僕は正直に返す。
『生徒会室』
『会長と柊先輩が初日来るって』
既読。
数秒後。
『席、離してもらえる?』
僕は思わず天井を見た。
嫉妬の方向が具体的すぎる。
続けてメッセージが来る。
『裕二の近くは私の関係者席』
『客席でも油断できない』
もはやライブ会場が恋愛戦略マップになっていた。
※ ※ ※
初日に向けて、沙也加の準備はさらに加速していった。
放課後の教室で、彼女はMC原稿を読み上げる練習をしていた。僕は隣で聞き役。天雨は少し離れて添削役。なぜか柊先輩と桜井会長まで途中から見学に来た。
「皆さん、本日は白須賀沙也加、全国アリーナツアー初日にお越しいただき、本当にありがとうございます」
沙也加の声は、さすがに綺麗だった。
教室なのに、空気が一瞬でライブ会場になる。
けれど、その次で台無しになった。
「今日は、皆さん一人一人と――特に関係者席の一人と――最高の時間を」
「待て」
僕が止めた。
天雨も即座にペンで原稿へ線を引く。
「白須賀さん、そこ私情」
「ちょっとだけだよ?」
「ちょっとでもだめ」
柊先輩が冷静に言う。
「関係者席の一人、という表現は露骨すぎます」
桜井会長は腹を抱えて笑っていた。
「いいじゃん、伝説になるよ。『白須賀沙也加、初日MCで彼氏匂わせ疑惑』」
「会長、笑い事じゃないです」
沙也加はむうっと唇を尖らせながら、原稿を修正した。
『皆さん一人一人と、最高の時間を』
その下に、小さく小さく書き足す。
『裕二も含む』
「沙也加」
「消さない」
そこだけは譲らないらしい。
僕はため息をつきながらも、少しだけ笑ってしまった。
ツアー初日は、もう目前だった。
沙也加は怖がり、疲れ、嫉妬し、僕を関係者席に固定しようとしながら、それでも白須賀沙也加として確実に仕上がっていく。
そして彼女を見に来るのは、ファンだけではない。
天雨も、柊先輩も、桜井会長も、きっと玲音も、結城も。
僕を取り巻く重すぎる感情たちが、全国ツアー初日の客席へ集まろうとしていた。
ライブはまだ始まっていない。
なのに僕だけ、すでに開演前から胃が痛かった。
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