本番まで残り
ツアー初日まで、あと三週間。
その数字が現実味を帯び始めた頃、学校の中でも沙也加の周囲だけ、別の時間が流れ始めていた。
朝の教室で彼女が英単語帳を開いていると思えば、そのページの間にはステージ構成表が挟まっている。数学のノートの隅には、なぜかMCで話す候補の地名が書かれている。昼休みに購買のパンを食べながら、イヤホン片耳で仮音源を聞いている。放課後になると、事務所の車が校門近くに止まり、彼女は白須賀沙也加の顔へ切り替わって乗り込んでいく。
それはもう、日常の中に仕事が混ざっているというより、仕事の隙間に学校生活を差し込んでいるようだった。
それでも沙也加は、僕の前では相変わらず面倒だった。
「裕二、今日の三限、誰と話してた?」
昼休み、屋上へ続く階段の踊り場で、沙也加は手すりに背を預けながら言った。
今日は午後からリハがあるらしく、昼食を食べたらすぐに早退する予定だった。制服姿のままなのに、彼女の鞄の中には着替えとリハ用のシューズが入っている。現実の重さがすごい。
「三限?」
「現代文のあと。隣の列の女子に話しかけられてた」
「プリント回してって言われただけだ」
「ふーん」
納得していない声だった。
「プリント、裕二からじゃないと受け取れなかったのかな」
「教室の構造上、僕が近かっただけだ」
「構造、嫌い」
「構造に嫉妬するな」
沙也加は真顔だった。
どうやら本気で少し不満らしい。
僕が呆れていると、彼女は鞄から小さなメモ帳を取り出した。表紙には、可愛らしいシールが貼ってある。そのシールの横に、小さく「裕二確認用」と書いてあった。
「なんだそれ」
「裕二ノート、簡易版」
「やめろ」
「大丈夫。まだ試験運用だから」
「本格運用する気なのか」
「裕二がちゃんと自主的に報告してくれるなら廃止を検討します」
会社の制度みたいに言うな。
僕が眉間を押さえると、沙也加は少しだけ満足そうに笑った。たぶん、こうして困らせること自体も彼女にとっては確認なのだろう。僕がちゃんと反応する。僕がちゃんと自分の重さを受け止める。それを見て、安心する。
面倒だ。
けれど、昨日よりも顔色が悪い彼女を見ると、その面倒さすら軽く扱えなくなる。
「沙也加」
「なに?」
「今日、無理してるだろ」
その一言で、沙也加の笑顔が一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬だった。次の瞬間には、いつものように軽く首を傾げる。
「してないよ」
「嘘だな」
「裕二、最近鋭い」
「お前が分かりやすくなったんだよ」
「違うもん。裕二が私を見すぎてるだけ」
そう言いながら、沙也加は少しだけ視線を逸らした。
図星だったのだろう。
階段の小窓から入る冬の光が、彼女の頬を白く照らしている。よく見れば、目の下に薄い影があった。声はいつも通りでも、指先は少し冷えている。笑顔は完璧でも、呼吸の間がほんの少しだけ長い。
僕は彼女の手からメモ帳を取った。
「あ」
沙也加が小さく声を上げる。
僕はそのままメモ帳を閉じて、彼女の鞄へ戻した。
「今日は僕の報告より、沙也加の休憩を優先」
「……裕二がそういうこと言うと、私、逆らえないんだけど」
「逆らうな」
「命令?」
「命令」
沙也加は目を丸くしたあと、少しだけ頬を赤くした。
「裕二が命令してくるの、珍しい」
「珍しく命令しないと、お前は止まらないだろ」
「うん」
素直に頷くな。
沙也加は壁にもたれたまま、ふっと息を吐いた。ようやく少しだけ力が抜けたように見えた。
「今日のリハ、通しなんだ」
「ランスルー?」
「うん。初日用の。まだ本番環境じゃないけど、曲順通りに全部動く」
言葉だけ聞けば簡単そうなのに、沙也加の声には明らかな緊張が混じっていた。
「怖いか」
「怖い」
即答だった。
「でも、楽しみ」
その横顔は、やっぱり綺麗だった。
怖いと認めながら、それでも前を見ている。完璧なトップアイドルの仮面ではなく、一人の女の子として震えながら、それでもステージへ向かっている。
だから僕は、彼女の頭に手を置いた。
「行ってこい」
「うん」
「終わったら、ちゃんと帰ってこい」
沙也加は、目を細めた。
その表情だけで、さっきまでの嫉妬も不安も、少しだけ柔らかくなったのが分かった。
「裕二のところに?」
「僕のところに」
「……うん。帰る」
彼女は小さく頷いた。
その時、階段の下から足音が聞こえた。
現れたのは天雨だった。
彼女は僕と沙也加の距離を見て、一瞬だけ目を細めた。けれど、何も言わなかった。ただ、沙也加の顔を見て、静かに告げる。
「白須賀さん、顔色悪いわ」
「美鈴ちゃんまで」
「沢渡くんだけじゃ心配だから言ってるの」
「私、そんなに分かりやすい?」
「今日は分かりやすい」
沙也加は少しだけ唇を尖らせた。
だが、天雨は容赦しなかった。
「彼氏に嫉妬する元気があるなら、その半分を体力温存に回した方がいいと思う」
「美鈴ちゃん、言い方」
「事実よ」
僕は思わず笑いそうになった。
沙也加は不満そうにしていたが、完全には否定しなかった。どうやら本人にも心当たりがあるらしい。
天雨は僕へ視線を向ける。
「沢渡くん、ちゃんと見送ってあげて」
「ああ」
「それと、帰ってきた時に甘やかしすぎないように」
沙也加がすぐ反応した。
「そこは甘やかしていいでしょ」
「限度があるわ」
「限度って誰が決めるの?」
「常識」
「常識、嫌い」
「さっき構造にも嫉妬していたわよね」
沙也加が黙った。
負けたらしい。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。
沙也加は鞄を持ち直し、ふっと息を吐いた。次に顔を上げた時、そこにいたのはもう白須賀沙也加だった。
背筋が伸びる。
目に光が戻る。
彼女はステージへ向かう顔をしていた。
「行ってきます」
「ああ。行ってこい」
沙也加は一歩進んでから、振り返った。
「裕二」
「なんだ」
「今日の報告、夜に聞くから」
「休憩しろって言っただろ」
「それはそれ。これはこれ」
やっぱり面倒だった。
でも、そう言い残して階段を降りていく沙也加の背中は、震えていなかった。
全国ツアー初日まで、あと少し。
彼女は確実に、白須賀沙也加として前へ進んでいる。
そしてその背中を見送りながら、僕は思った。
きっと今夜、彼女はまた疲れ切った声で電話をかけてくる。
嫉妬もするだろう。
甘えてもくるだろう。
僕の一日を細かく知りたがるかもしれない。
それでも、最後にはきっと言うのだ。
ただいま、と。
その言葉を受け止めるために、僕は今日も彼女の帰る場所でいるしかなかった。
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