保護者枠の恋人
全国ツアー準備が本格化してから、沙也加の一日は目に見えて細かくなった。
朝は学校に来る前にボイストレーニング。昼はマネージャーとの通話。放課後は振付リハ。夜はセトリ確認と映像演出の打ち合わせ。ランスルーは全体の流れを止めずに確認する通し練習、ゲネプロは衣装や音響、照明まで含めた本番同様の最終確認らしい、と説明された時点で、僕はもうスケジュール表の文字だけで胃が重くなった。
けれど、沙也加本人はもっと重かった。
物理的にも、精神的にも。
昼休み、隣の席で彼女は机に額をつけていた。朝からリハ用の仮音源を確認していたらしく、イヤホンを外したあとも、目だけが少し遠い。
「裕二」
「なんだ」
「私、今日の一限で現代文を受けてたはずなのに、頭の中でずっとサビ前の立ち位置に移動してた」
「授業を受けろ」
「受けてたよ。心だけ下手側にいた」
「戻ってこい」
「無理。二曲目のイントロでまた走らされる」
国民的トップアイドルの悩みは、思ったより体育会系だった。
沙也加はノートの端に、なぜかステージの簡易図を描いていた。黒板ではなく、ステージ。教師ではなく、照明位置。現代文のノートなのに、余白に「ここでターン」「ここで客席見る」「ここで裕二を思い出す」と書かれている。
「最後の一個、消せ」
「なんで?」
「授業ノートだろ」
「大丈夫。先生に見られても『恋愛比喩です』で押し通す」
「無理がある」
「私、表現力には自信あるから」
そういう問題ではない。
そんな沙也加の横で、天雨が静かにノートを覗き込んだ。
「白須賀さん、そこ、たぶん客席全体を見る場所でしょう」
「美鈴ちゃん、細かい」
「裕二くんだけ見たら、あとで切り抜かれるわ」
「切り抜かれたら困る?」
「困るのは沢渡くん」
僕が困る前提で会話が進んでいた。
沙也加はむっとした顔をしつつ、余白に書いた「裕二」を小さく丸で囲んだ。
消す気はないらしい。
※ ※ ※
放課後、沙也加は初めて本格的なランスルーを終えて学校へ戻ってきた。
正確には、戻ってきたというより、燃え尽きた状態で教室に搬送されてきた、に近かった。
迎えの車から降りたらしく、マネージャーらしき女性が廊下の向こうで軽く頭を下げて去っていく。その数秒後、沙也加は教室の扉を開け、僕の隣の席まで歩いてきて、そのまま机へ突っ伏した。
「……裕二、私の脚、今日で独立した」
「どういう状況だよ」
「もう私の命令を聞かない。階段を見た瞬間に反乱を起こす」
「深刻だな」
「深刻だよ。三曲目終わりの階段演出、あれ考えた人をステージ袖に正座させたい」
沙也加は机に伏せたまま、片手だけ伸ばして僕の袖を掴んだ。
疲れている時の沙也加は、いつもより遠慮がない。
周囲に数人クラスメイトがいるのに、指先が迷わず僕を探してくる。とはいえ、表情は机に隠れているので、周りから見ればただ疲れている白須賀沙也加だ。机の下で彼氏の袖を捕獲しているとは、誰も思わない。
「白須賀さん、大丈夫?」
近くの女子が心配そうに声をかける。
沙也加は一瞬で顔を上げた。
「うん、大丈夫! ちょっとリハが長かっただけだから」
完璧な笑顔だった。
その三秒後、女子が離れると同時に、沙也加は再び机へ沈んだ。
「大丈夫じゃない」
「知ってる」
「でも言えない」
「知ってる」
「だから裕二が分かって」
「分かってる」
そう返すと、机の下で袖を掴む力が少し強くなった。
すると、教室の入口から柊先輩が現れた。
「白須賀さん、先生からツアー期間中の出席扱いに関する確認書類を預かってるわ」
沙也加はまた一瞬で顔を上げた。
「ありがとうございます、副会長さん」
その切り替えの速さに、柊先輩の眉がわずかに動いた。
「あなた、本当に大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「今の『大丈夫』、ビジネス用語でいうところの要注意案件ね」
「副会長さん、言い方が社会人です」
「あなたのスケジュールが社会人以上なのよ」
その通りすぎて誰も笑えないはずなのに、なぜか笑いが漏れた。
柊先輩は資料を置きながら、僕へ視線を向ける。
「あなたも、ちゃんと見ておきなさい」
「見てます」
「見てるだけじゃ足りないわ。白須賀さんは、倒れる直前まで『大丈夫』って言うタイプだから」
沙也加は少しだけ唇を尖らせた。
「倒れません」
「倒れる人はみんなそう言うの」
完全に保護者だった。
※ ※ ※
その日の夜、沙也加から送られてきたツアー用の仮セトリには、赤字でいくつものメモが入っていた。
『一曲目、息を吸うタイミング注意』
『三曲目後、給水』
『五曲目、客席全体を見る』
『七曲目、裕二が来てる場合は見すぎない』
最後のメモだけ私情がすごい。
僕がそう返信すると、すぐに電話が来た。
「裕二、違うの。これはリスク管理」
「どの辺が」
「見すぎると歌詞を間違える可能性がある」
「それは僕を見ない方がいいやつだろ」
「でも見ないと元気出ない」
「詰んでるな」
「だから見すぎない。大人の判断」
電話の向こうで、沙也加は真剣だった。
真剣に彼氏を見る量を調整していた。
「ツアーって、もっと壮大なことで悩むものじゃないのか」
「悩んでるよ。照明、衣装、歌、ダンス、移動、MC、全部」
少しだけ声が柔らかくなる。
「でも、その全部の中心に裕二がいるの」
さっきまでコメディだった空気が、急に重くなる。
沙也加はこういうことを平気で言う。いや、平気ではないのだろう。たぶん本気だから、言わずにはいられないのだ。
「全国を回るのは、白須賀沙也加としての夢。だけど、終わったあとに帰る場所があるから、私はそこまで行ける」
電話の向こうで、紙が擦れる音がした。
きっと、セトリを見ているのだろう。
「裕二、初日」
「行くよ」
「まだ何も言ってない」
「言わなくても分かる」
沈黙。
それから、ほんの小さな笑い声。
「……そういうところ、ほんとにずるい」
「何が」
「私が欲しい答え、先にくれるところ」
沙也加の声は疲れていた。
それでも、嬉しそうだった。
「じゃあ、初日の一曲目で私が笑ったら」
「客席全体に向けた笑顔だろ」
「うん」
少し間が空く。
「でも、その一番奥に、裕二を置く」
また重い。
でも、その重さはもう怖いだけではなかった。
白須賀沙也加は、全国へ向かう。
ランスルーで脚を反乱させながら、ステージ図に僕の名前を書き込みながら、周囲に心配されながら、それでも前へ進んでいる。
その姿は、少しおかしくて、少し危なっかしくて、そしてどうしようもなく眩しかった。
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