全国ツアーの下準備
翌週から、沙也加の全国ツアー準備は明らかに段階を変えた。
これまでの打ち合わせや資料確認が“準備”だとすれば、ここからは“現場”だった。ランスルーは全体を最初から最後まで通す練習で、ゲネプロは本番同様に照明や音響、舞台まで組んで最終確認をするものらしい。沙也加はその違いを説明しながら、なぜか僕のノートに図まで描いた。
「裕二、ここが上手で、こっちが下手」
「右と左じゃだめなのか」
「だめ。現場でそれ言ったら、たぶんスタッフさんに一秒だけ無言で見られる」
「地味に怖いな」
「ちなみに私も見る」
「お前もか」
放課後の教室で、沙也加は机にツアー資料を広げていた。会場図、立ち位置表、仮セトリ、衣装ラフ。普通の高校生の机に乗るものではない。隣の席で数学の課題を出している僕だけが、世界観を完全に間違えている気がした。
けれど沙也加は真剣だった。
赤ペンで立ち位置に丸をつけ、曲間移動の矢印を書き足し、MC位置の横に「裕二に手を振る余裕があるか確認」と小さく書いた。
「待て」
「なに?」
「今、私情を混ぜなかったか」
「混ぜてないよ。ファンサの検討」
「僕個人に向けたらファンサじゃないだろ」
「裕二も一応、客席にいる予定だからセーフ」
理屈が強引だった。
その横で、いつの間にか教室に来ていた天雨が静かに言った。
「白須賀さん、それはセーフじゃないと思う」
「美鈴ちゃん、細かい」
「細かくないわ。公私混同」
「彼氏に手を振るだけだよ?」
「その彼氏が一人しかいないから問題なの」
ものすごく正論だった。
沙也加は一瞬だけ不満そうに頬を膨らませたが、すぐに赤ペンで「客席全体を見る」と書き直した。その下に、さらに小さく「裕二を含む」と追記した。
天雨が無言でそれを見た。
僕は見なかったことにした。
※ ※ ※
翌日、沙也加は初めて本格的な振付リハから戻ってきた。
放課後の教室に現れた彼女は、完璧な笑顔をしていた。けれど、椅子に座った瞬間、机へ額を落とした。
「……足が終わった」
国民的トップアイドルとは思えない第一声だった。
「終わるな。ツアー前だろ」
「裕二、私のふくらはぎが今日だけで三回くらい人生に抗議してる」
「筋肉にも意思があるんだな」
「あるよ。今、『なんで二曲目からこんなに跳ぶの?』って言ってる」
沙也加は机に伏せたまま、鞄から小さなボトルを出した。ステージドリンクの試作品らしい。ラベルには手書きで「白須賀用・酸っぱめ」と書かれていた。
一口飲んだ沙也加は、数秒固まった。
「……すっぱ」
「大丈夫か」
「大丈夫。目が覚めた。魂も少し出た」
「出るな」
そこへ、柊先輩が教室の入口から顔を出した。
「白須賀さん、ツアー資料の提出、先生から預かってるわ」
「副会長さん、ありがとうございます」
沙也加はすぐに顔を上げ、完璧な笑顔へ戻った。
その切り替えに、柊先輩は一瞬だけ目を細めた。
「……無理してるなら、そう言った方がいいわよ」
「大丈夫です」
「大丈夫って顔を作るのが上手い人ほど、信用ならないの」
柊先輩の言葉に、沙也加は少しだけ黙った。
その沈黙の隙間に、天雨が静かに入ってくる。
「沢渡くん、今日は白須賀さんを早めに帰した方がいいと思う」
「分かってる」
「あと、甘やかしすぎない方がいいわ」
沙也加が顔を上げた。
「美鈴ちゃん?」
「疲れている時の白須賀さんは、沢渡くんを全部吸収しようとするから」
「人をスライムみたいに言わないで」
「近いと思う」
「近くないよ。私はもっと可愛い」
そこは否定しないのか。
柊先輩が小さく息をついた。
「あなたたち、会話の情報量が多すぎるわ」
まったくその通りだった。
※ ※ ※
その週の金曜、沙也加はクラスメイトから大量の応援メッセージを書かれていた。
担任が気を利かせたのか、ツアー初日へ向けて寄せ書きを作ることになったらしい。色紙の中心には、白須賀沙也加へ、という文字。周りには「応援してる!」「チケット当てたい!」「無理しないで!」などの言葉が並んでいた。
沙也加はそれを見て、少しだけ泣きそうな顔をした。
けれど、その横で僕がペンを持つと、急に表情が変わった。
「裕二は別枠ね」
「別枠?」
「色紙にはクラスメイトとして書いて。あとで彼氏用に一枚ちょうだい」
「重いな」
「うん」
当然みたいに頷くな。
結局、僕は色紙に「初日、ちゃんと見てる」と書いた。
沙也加はそれを読んで、しばらく動かなかった。
「……これ、彼氏用じゃなくて?」
「クラスメイト用だ」
「裕二、距離感バグってる」
「お前に言われたくない」
そのやり取りを聞いていた桜井会長が、廊下からひょいと顔を出した。
「いいねぇ、青春だねぇ。ツアー前のトップアイドルと、彼氏と、周囲の女の子たちによる胃もたれ恋愛群像劇」
「会長、言い方」
柊先輩がすぐに止めたが、否定はできなかった。
胃もたれ。
たぶん、かなり正しい。
沙也加は色紙を胸に抱え、僕だけに見える角度で小さく笑った。
「裕二」
「なに」
「初日、ちゃんと見ててね」
「見るよ」
「一曲目で私が笑ったら、裕二のこと思い出してると思って」
「それはファンに申し訳ないだろ」
「大丈夫。みんなに向けて笑う。でも、いちばん奥に裕二を入れておく」
重い。
けれど、その言葉の奥にある覚悟は本物だった。
全国へ向かう白須賀沙也加。
そのステージの奥底に、僕を置いていくという宣言。
コメディみたいなやり取りの中に、平然とそういう重さを混ぜてくるから、この人は本当に油断ならない。
窓の外では、冬の夕陽が校舎を照らしていた。
ツアー初日は、もう遠い未来ではない。
沙也加は本腰を入れて、白須賀沙也加として走り出している。
そして僕は、その隣で、彼女の重さに振り回されながら、それでも初日の一曲目を待つことになった。
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