重すぎる美少女達
翌日、沙也加は学校に来なかった。
朝のホームルームで担任が「白須賀は仕事で欠席」とだけ告げた時、教室の空気が少しざわついた。全国ツアーの発表から日が浅いせいで、誰もがその理由をすぐに察したのだろう。
彼女の隣の席は、空いていた。
そこに沙也加がいないだけで、教室の温度が半分くらい下がった気がした。机の上には何もない。昨日まで机の下で僕の指を捕まえていた手も、今日はない。
けれど、スマホには朝一番に届いたメッセージが残っていた。
『今日は終日リハ』
『セトリの確認と立ち位置合わせ』
『私がいない間、誰と話したかあとで教えて』
最後の一文だけ、明らかに毛色が違った。
セットリストやリハーサルという言葉の横に、当然みたいに僕への監視めいた要求を混ぜてくる。それが今の沙也加だった。白須賀沙也加として全国ツアーへ向かいながら、沢渡裕二の一日だけは自分の手元から逃がしたくない。
重い。
でも、その重さがない空席は、やっぱり少し寂しかった。
※ ※ ※
昼休み、僕が購買へ向かおうと廊下へ出ると、そこに柊先輩がいた。
書類を抱えた姿はいつも通りだったが、今日はなぜか僕を待っていたように見えた。視線が合った瞬間、先輩は迷いなくこちらへ歩いてくる。
「あなた、昼休み空いてる?」
「購買に行くところです」
「じゃあ、ついでに来なさい」
ついで、というには強制力が強かった。
連れていかれたのは生徒会室だった。中には桜井美代会長もいて、机の上には文化祭後の報告資料と、来月の行事予定が広がっていた。
会長は僕を見るなり、楽しそうに笑った。
「裕二くん、白須賀さん今日いないんだって?」
「仕事らしいです」
「そっか。じゃあ今日はちょっと借りても怒られないかな」
その発言に、柊先輩が目だけで会長を制した。
「怒られますよ。たぶん」
否定できなかった。
会長は面白そうに笑うだけだったが、柊先輩は僕の方を見て、少しだけ声を落とした。
「白須賀さんがいない日に、あなたが誰といたか。あの子、あとで聞くでしょう」
「……今朝、すでに言われました」
「でしょうね」
柊先輩は淡々と頷く。
それから、書類を一枚僕へ差し出した。手伝い自体は本当に必要らしい。けれど、そこに僕を呼ぶ理由がそれだけではないことも分かった。
「あなた、彼女持ちになってからの方が危ういわ」
「どういう意味ですか」
「白須賀さんを選んだから、周囲が引くとは限らないってこと」
会長が横から頬杖をつく。
「柊ちゃんも引いてないしね」
「会長」
「事実でしょ?」
柊先輩の返事はなかった。
沈黙が返事だった。
その一瞬で、部屋の空気が少しだけ変わる。柊先輩は決して露骨ではない。白須賀みたいに抱きつかない。天雨みたいに静かに刺してこない。けれど、確かにまだ僕を見ている。
先輩は書類へ視線を落としたまま言った。
「私は掻っ攫うつもりはないわ」
そこで一拍置く。
「でも、あなたが隙を見せたら、たぶん放っておけない」
その言い方が、妙に大人だった。
優しさの形をしているのに、ちゃんと危ない。引くと言いながら、踏み込む場所だけは残している。
会長が楽しそうに笑う。
「ね、裕二くん。ハーレム主人公って大変だね」
「笑い事じゃないです」
「でも、今の状況って完全にそうじゃん。トップアイドルの彼女がいて、静かな美少女に見守られて、副会長には心配されて、外には芸能界の子や幼なじみもいる」
言葉にされると、改めて頭が痛かった。
しかも、たぶん全部事実だった。
※ ※ ※
放課後、沙也加からの連絡はなかなか来なかった。
代わりに来たのは、結城からだった。
『今日、白須賀さんいないんだよね?』
『少しだけ電話できる?』
なぜ知っている。
そう思ったが、もう深く考えないことにした。僕の周囲にいるヒロインたちは、なぜか僕の状況を知るのが早い。
返信する前に、今度は神崎玲音からも来た。
『沙也加、今日かなり詰められてると思う』
『夜、ちゃんと甘やかしてあげなさい』
『でも、私への返事も忘れたら怒る』
さらに天雨から。
『今日、白須賀さんがいないなら、寄り道せず帰った方がいいと思う』
『ただし、誰かに捕まったら正直に言いなさい』
僕はスマホを見つめたまま、しばらく動けなかった。
沙也加がいない。
そのたった一日で、周囲の女の子たちがそれぞれの距離から僕へ手を伸ばしてくる。
誰も直接的に奪いに来ているわけではない。けれど、誰も完全には引いていない。優しさ、忠告、未練、牽制。その全部が別々の形で僕へ絡みついてくる。
これが、沙也加のいない日の僕の日常だった。
いや、沙也加がいないからこそ、余計にはっきり見えてしまった日常だった。
※ ※ ※
夜、ようやく沙也加から電話が来た。
画面に名前が出た瞬間、僕はほとんど反射で通話を取った。
「裕二」
声が疲れていた。
けれど、それ以上に硬かった。
「お疲れ」
「うん。疲れた。今日、ランスルー一回と立ち位置確認、あと衣装合わせもあった」
ランスルー。衣装合わせ。照明確認。
沙也加の口から出る言葉が、どんどん学校から遠くなっていく。
「それで?」
「それで?」
「今日、誰と話したの」
来た。
僕は隠さずに話した。
柊先輩と生徒会室に行ったこと。会長にからかわれたこと。結城と玲音と天雨から連絡が来たこと。
電話の向こうで、沙也加は最後まで黙って聞いていた。
その沈黙が怖かった。
「……そっか」
やっと返ってきた声は、低かった。
「私がいない日に、みんな裕二に近づくんだ」
「近づくってほどじゃ」
「近づいてるよ」
即答だった。
「みんな、私がいない隙間をちゃんと見てる。美鈴ちゃんも、副会長さんも、結城さんも、玲音も」
沙也加の声が、少しずつ熱を帯びる。
「ねえ、裕二。私、今日ずっと白須賀沙也加だったんだよ。スタッフさんの前で笑って、何回も踊って、衣装着て、ここ直した方がいいですねって言って、ちゃんと仕事してた」
「うん」
「なのに、その間に裕二の周りへ他の子がいるの、すごく嫌」
理不尽だった。
けれど、その理不尽を責める気にはなれなかった。
彼女は疲れている。頑張った分だけ、僕を欲しがっている。自分が遠くへ行くほど、僕の隣へ誰かが入り込むことを怖がっている。
「沙也加」
「なに」
「今日、寂しかった」
電話の向こうが静かになった。
「沙也加がいない席を見た。屋上にも行かなかった。行っても、いないと思ったから」
言葉を選ばず、正直に言った。
「だから、誰と話しても、沙也加がいないことは消えなかった」
長い沈黙。
それから、かすかな吐息。
「……ずるい」
「何が」
「怒ってたのに、溶ける」
声が少し震えていた。
「裕二、そういうこと言うの本当にずるい」
「本当のことだ」
「もっと言って」
やっぱりそう来る。
僕は天井を見上げた。
「沙也加がいなくて寂しかった」
「うん」
「席が空いてるのが変だった」
「うん」
「声が聞けて安心した」
電話の向こうで、沙也加が小さく息を呑んだ。
「……今日、会えないの悔しい」
「遅いだろ」
「分かってる。でも会いたい。今すぐ裕二の隣に行って、誰の連絡が来たか全部見て、私の名前だけ残したい」
重い。
今までより、さらに一段深いところまで来ている。
けれど、沙也加は止まらなかった。
「明日、学校行ったら、最初に私のところ来て」
「分かった」
「机の下で手、繋いで」
「分かった」
「昼休み、屋上。絶対」
「分かった」
「あと、スマホ見せて」
そこで、僕は止まった。
「スマホ?」
「今日、誰から来たか確認したい」
声は甘い。
でも、本気だった。
僕は少しだけ息を吐いた。
「沙也加、それはやりすぎだ」
電話の向こうが静かになる。
怒るかと思った。
けれど、返ってきた声は小さかった。
「……分かってる」
その声に、胸が痛んだ。
「分かってるけど、見たいって思っちゃった」
弱い声だった。
「ごめん。重すぎた」
沙也加が謝った。
それが逆に、僕の胸へ重く落ちた。
「重いよ」
「うん」
「でも、言ってくれた方がいい」
僕は続けた。
「勝手に溜め込まれるより、その方がいい」
沙也加は何も言わなかった。
ただ、息だけが聞こえる。
「明日、会ったらちゃんと話そう。スマホは見せない。でも、誰と話したかは言う」
「……うん」
「それで我慢できるか?」
「できるようにする」
その答えが、今の沙也加の精一杯なのだと思った。
白須賀沙也加は完璧だ。
けれど、恋をしている沙也加は完璧ではない。嫉妬する。疑う。縛りたくなる。確認したくなる。好きすぎて、境界線を踏み越えそうになる。
それでも、僕の言葉で踏みとどまろうとしている。
そこが、どうしようもなく重くて、愛おしかった。
「裕二」
「うん」
「明日、いっぱい甘やかして」
「分かった」
「でも、スマホ見たいって言ったこと、嫌いにならないで」
「ならない」
その瞬間、電話の向こうで沙也加が少しだけ泣きそうな息をした。
「好き」
「僕も好きだよ」
その夜、沙也加はなかなか電話を切らなかった。
ツアーの疲れも、嫉妬も、不安も、全部声の中に滲ませながら、それでも最後まで僕の名前を何度も呼んだ。
彼女がいない学校で、他のヒロインたちは確かに僕へ近づいてくる。
でもその夜、電話越しに一番深く僕を捕まえていたのは、やっぱり沙也加だった。
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