今は私で
翌朝、沙也加は教室にいなかった。
机の上は綺麗に片付いていて、隣の席だけがぽっかり空いている。その空白を見た瞬間、僕は昨日の夜に彼女が言った「私がいない日の昼休み、寂しかった?」という声を思い出した。
スマホには、朝早く届いたメッセージが残っていた。
『午前は仕事』
『リハ用の仮セトリ確認してくる』
『私がいなくて寂しいって思ってて』
セトリという言葉が、もう彼女の日常になっている。ライブの曲順や全体構成を意味する言葉で、ツアーが近づくほど沙也加の世界は学校よりステージ側へ傾いていく。ゲネプロも本番同様に衣装、照明、音響まで含めて通すものらしく、彼女の背負うものは日に日に現実味を増していた。
僕は隣の空席を見て、短く返信した。
『寂しい』
既読はつかなかった。
その代わり、後ろから静かな声がした。
「白須賀さん、休み?」
天雨だった。
僕は振り返らずに答える。
「午前は仕事らしい」
「そう」
それだけ言って、天雨は僕の隣の空席を見た。そこへ座るわけではない。ただ、沙也加がいない場所を確認するように見ていた。
「寂しい?」
「……少し」
「そう」
天雨の声は淡々としていた。けれど、その奥にわずかな熱があった。
「なら、今日の昼休みは私が少し付き合うわ」
「美鈴さん」
「白須賀さんの代わりじゃない」
彼女はすぐに言った。
「私として、隣にいるだけ」
その言葉は静かで、だからこそ重かった。
※ ※ ※
昼休み、屋上には天雨がいた。
冬の風の中で、彼女はフェンスのそばに立っていた。沙也加のように抱きついてくることはない。袖を引くことも、キスをねだることもない。ただ一定の距離を保って、僕の隣にいる。
その距離が逆に苦しい。
「沢渡くん」
「なに、美鈴さん」
「白須賀さんに、今日私とここにいたこと言う?」
「言うと思う」
「正解ね」
天雨は少しだけ笑った。
「言わなかったら、あの子はきっと傷つく。言ったら嫉妬する。でも、隠されるよりは嫉妬する方を選ぶでしょうね」
正確すぎて、何も言えなかった。
「美鈴さんは、沙也加のことをよく見てるな」
「あなたを見ていたから」
返事は静かだった。
「あなたを見ていれば、白須賀さんがどれだけあなたに沈んでいるかも見える」
沈んでいる。
その表現は、妙にしっくりきた。
「でも、私もまだ沈んでいるのよ」
天雨はフェンスの向こうを見たまま言った。
「だから、白須賀さんがいない日くらい、少しだけあなたの隣にいたい」
風が吹いた。
その言葉を攫ってくれればよかったのに、逆に僕の胸の中へ押し込んでいくみたいだった。
その時、スマホが震えた。
沙也加だった。
『今終わった』
『寂しかった?』
僕は少し迷って、正直に打った。
『寂しかった』
『昼は美鈴さんと屋上にいた』
既読。
そして、沈黙。
その数秒がやけに長かった。
返事は短かった。
『そっか』
『今日、放課後会う』
『絶対』
天雨が画面を見たわけではない。
けれど、僕の顔で分かったのだろう。
「呼ばれた?」
「ああ」
「行ってあげて」
天雨は静かに言った。
「たぶん今、白須賀さんは笑ってないから」
※ ※ ※
放課後、沙也加は空き教室で待っていた。
扉を開けた瞬間、彼女は僕の方を見た。制服姿のまま、窓際に立っている。夕陽を背にしたその顔は綺麗だった。けれど、笑っていなかった。
「美鈴ちゃんと屋上にいたんだ」
「ああ」
「楽しかった?」
「楽しいというより、話をした」
「私がいない場所で?」
声は柔らかい。
でも、目が重い。
「沙也加」
「分かってる。隠さなかったのは偉い。ちゃんと言ってくれて嬉しい」
沙也加は一歩近づいてきた。
「でも、嫉妬してる」
そう言って、僕の袖を掴む。
「裕二が寂しいって思ってくれたのは嬉しい。でも、その寂しい時間に美鈴ちゃんがいたのは嫌」
理不尽だった。
けれど、沙也加はその理不尽を隠さない。
「だから、今は私で埋めて」
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