まだまだ全然足りない
翌日、僕が席へ着くと、沙也加はクラスメイトへ笑顔で返事をしながら、机の下で僕の指先へ触れてきた。
昨日と同じだった。
いや、昨日より少しだけ強かった。
触れるだけでは足りないのだろう。彼女の指は、すぐに僕の指を捕まえた。絡める。逃げ道を塞ぐ。けれど表情は少しも崩さない。目の前の女子に「ツアーのグッズはまだ内緒かな」と笑って答えながら、机の下では僕を離さない。
その二面性が、少し怖くて、どうしようもなく愛しかった。
沙也加は前を向いたまま、唇だけを小さく動かした。
「昨日の続き、覚えてる?」
声にはならなかった。
でも、読めた。
僕はほんの少しだけ頷く。
その瞬間、彼女の指に力が入った。満足したように、けれどそれだけでは足りないとでも言うように。
朝のホームルームが始まり、担任が教室へ入ってくる。クラスメイトたちは席へ戻り、ざわめきが少しずつ静まっていった。
沙也加の指は、最後まで離れなかった。
チャイムが鳴る直前、ようやく指先がほどける。
その短い別れ際、沙也加は僕の方を一瞬だけ見た。
――放課後、逃がさないから。
目だけでそう言われた気がした。
※ ※ ※
昼休み、天雨に呼び止められた。
場所は図書室へ向かう廊下だった。昼の校舎は人の流れが多いが、この辺りは比較的静かだ。冬の光が窓から差し込んで、床の上に淡い四角を作っている。その光の端に、天雨は立っていた。
黒髪が肩に落ち、表情はいつも通り静かだった。
けれど、静かだからこそ分かる。
彼女は何かを言いに来た。
「沢渡くん」
「なに、美鈴さん」
そう呼ぶと、天雨は少しだけ目を伏せた。
その一瞬の沈黙には、もう慣れてしまった。僕が彼女をそう呼ぶたび、天雨はほんのわずかに揺れる。けれど何も言わない。言わないまま、その呼び方を受け取る。
「昨日、白須賀さんと会った?」
あまりにも直球だった。
僕は反射的に視線を逸らしかけ、すぐにやめた。
「会った」
「そう」
天雨は短く答えた。
責めるわけではない。けれど、その“そう”には、やっぱり少しだけ痛みがあった。
「白須賀さん、今日少し機嫌がいい」
「分かるのか」
「分かるわ」
即答だった。
「あなたを見る時の目が、昨日より安心してるから」
そこまで見ているのかと思った。
いや、天雨なら見るだろう。彼女はそういう人だ。表に出ない感情の揺れを、誰よりも静かに拾う。沙也加の重さも、僕の迷いも、たぶん僕自身より早く見抜いていた。
「でも」
天雨は続ける。
「安心している時ほど、白須賀さんはたぶん欲張りになる」
胸の奥が小さく鳴った。
その分析は正しい。
昨日の夜がまさにそうだった。嫉妬が落ち着いたあと、沙也加はもっと求めた。安心したからこそ、さらに確かめたがった。
僕が黙っていると、天雨は僕の表情を見て、少しだけ目を細めた。
「やっぱり、そうなのね」
「何が」
「何かあった顔をしてる」
「……顔に出すぎだな、僕は」
「あなたは分かりやすいわ」
天雨はそう言って、少しだけ僕へ近づいた。
近すぎない。
でも、遠くもない。
以前なら、その距離だけで何かが始まっていたかもしれない。けれど今の天雨は線を越えない。越えないようにしている。その自制が、逆に胸へくる。
「白須賀さんばかり見ていると、あなたはその重さに慣れすぎる」
「悪いことなのか?」
「悪いとは言わない」
天雨の声は淡々としていた。
「でも、慣れると、自分がどれだけ深いところにいるのか分からなくなる」
その言葉は、妙に冷たい水みたいに胸へ落ちた。
「美鈴さんは、僕を引き戻そうとしてるのか」
「いいえ」
天雨は首を横に振る。
「白須賀さんを選んだなら、そのまま沈めばいいと思ってる」
思っているより過激な答えだった。
僕が返事に詰まると、天雨は少しだけ口元を緩めた。笑ったというより、困らせたことに少しだけ満足したような顔だった。
「ただ、沈むなら自覚して沈んで」
彼女は静かに言う。
「あなたが白須賀さんの愛を受け止めるなら、途中で苦しくなった顔をしないで。あの子は、あなたのそういう揺れに一番弱いから」
その言い方が、あまりにも正確だった。
沙也加は強い。完璧で、華やかで、圧倒的だ。けれど、僕の些細な揺れには過剰に反応する。僕が遠いと言えば傷つき、寂しかったと言えば満たされ、誰かと会えば嫉妬で不安定になる。
天雨は、それを全部見ている。
「……美鈴さんは、優しいな」
思わず言うと、天雨は目を伏せた。
「優しくないわ」
声が低かった。
「優しかったら、まだあなたを好きなままでいたりしない」
その言葉に、僕は何も返せなかった。
天雨は自分の感情を消していない。
消せていないのではなく、消さないと決めている。けれど、それを沙也加と僕の関係へ乱暴にぶつけることはしない。その静かな矛盾こそが、彼女の重さだった。
天雨は僕の横を通り過ぎる直前、足を止めた。
「沢渡くん」
「うん」
「白須賀さんに苦しくされたら、少しだけ私に逃げてもいいわ」
心臓が跳ねた。
天雨は顔をこちらへ向けない。
そのまま、静かに続けた。
「でも、その時は私も優しくできるか分からない」
それだけ残して、天雨は廊下の向こうへ歩いていった。
残された僕は、しばらく動けなかった。
沙也加と付き合っている。
それは変わらない。
けれど、天雨はまだ僕を見ている。結城も、玲音も、そして柊先輩も。誰もが、自分の距離で、自分の重さで、僕という場所へまだ手を伸ばしている。
彼女持ちになったから終わりではない。
むしろ、はっきり選んだことで、選ばれなかった側の感情は形を変えて残っている。
それが今の僕のハーレムだった。
甘くて、重くて、面倒で、いつ爆ぜるか分からない危うさを孕んだ関係だった。
※ ※ ※
放課後、沙也加はすぐに僕を捕まえた。
捕まえた、という表現が一番近い。
終礼が終わり、クラスメイトが教室を出始めたタイミングで、沙也加は机の下から僕の袖を引いた。その力は控えめだったが、意思は強かった。逃げられないと悟らせる程度には十分な力だ。
周囲から見れば、ただ隣の席の女子が何か話しかけたようにしか見えない。
けれど、僕には分かる。
これは招集命令だ。
「裕二」
声は小さい。
「少しだけ、来て」
少しだけ。
その言葉が信用ならないことを、僕はもうよく知っている。
沙也加に連れられて向かったのは、校舎裏へ続く非常階段の踊り場だった。冬場はほとんど人が来ない。冷たい外気が金属製の手すりを冷やしていて、足元からも寒さが上がってくる。けれど、そこは人目を避けるにはちょうどよかった。
扉が閉まると同時に、沙也加は僕の前へ立った。
近い。
昨日の夜ほどではない。けれど、最初から近い。
「昼休み、美鈴ちゃんと話してたよね」
やっぱり見ていた。
「話してた」
「何を?」
声は柔らかい。
でも、柔らかいだけではない。
その奥に、昨日の夜とは違う種類の嫉妬がある。結城への嫉妬より、天雨への嫉妬はもっと深く静かだ。たぶん沙也加は、天雨を軽く見ていない。だからこそ、反応も鋭くなる。
「沙也加のこと」
「私のこと?」
「ああ」
「どんな?」
沙也加は一歩近づく。
僕の背中が非常階段の壁へ近づいた。
「沙也加が安心してる時ほど欲張りになるって」
正直に言った。
隠す方が危ない。
沙也加は一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ笑った。
「美鈴ちゃん、やっぱりよく見てるね」
その笑い方は、嬉しそうではなかった。
警戒している。
自分の中身を見抜かれたことに対する、少しの苛立ちと、相手を認めざるを得ない悔しさ。その両方が混ざった笑みだった。
「で、裕二は?」
「僕?」
「私は欲張りだと思う?」
問いの形をしている。
けれど、答えは求められていない気がした。
沙也加はさらに近づく。僕の前に立ち、上目遣いでこちらを見る。その目が、昨日の夜と同じ熱を帯びていく。
「思うよ」
僕は答えた。
「沙也加は欲張りだ」
彼女の目がわずかに揺れた。
「僕のことを見てほしがる。いない間も考えてほしがる。寂しがってほしがる。キスも、言葉も、たぶん何回あっても足りない」
言葉にするたび、沙也加の頬が少しずつ赤くなる。
それでも、目は逸らさない。
「でも」
僕は続けた。
「それでいいと思ってる」
沙也加の指が、僕の制服の袖を掴んだ。
「……ずるい」
「何が」
「そういうこと言われると、もっと欲しくなる」
声が低い。
沙也加は、袖を掴んだまま額を僕の胸元へ近づけた。触れる寸前で止まる。止まったまま、吐息だけが届く。
「美鈴ちゃんと話してた分、今は私のこと見て」
「見てるよ」
「もっと」
「見てる」
「足りない」
やっぱりそうなる。
沙也加は顔を上げた。
唇が、ほんの少しだけ開く。
「キスして」
短い命令だった。
非常階段の踊り場は寒い。誰かが扉を開ければすぐ見られる。けれど、その危うさすら今の沙也加には燃料になるのかもしれない。
僕は周囲の気配を確認し、沙也加の頬へ手を添えた。
冷たい。
でも、彼女の目は熱かった。
軽く唇を重ねる。
すぐ離れる。
沙也加は不満そうに眉を寄せた。
「短い」
「学校だぞ」
「知ってる」
「知っててそれか」
「知ってるから短く我慢した」
どこが我慢なのか分からない。
けれど、彼女の中では本当にそうなのだろう。
「もう一回」
「沙也加」
「美鈴ちゃんと話した」
「それは関係あるのか」
「ある」
即答だった。
「裕二が他の子と話した日は、私が多めにもらう」
ルールが増えている。
しかも、かなり一方的に。
「いつ決まったんだ」
「今」
沙也加はそう言って、背伸びをした。
今度は彼女から唇を重ねてきた。
さっきより長い。
けれど深すぎはしない。学校だということは分かっているのだろう。分かっているからこそ、ぎりぎりのところで止めている。その自制すら、逆に色っぽかった。
離れると、沙也加は僕の胸へ額を押し当てた。
「……だめだ」
「何が」
「足りない」
「またか」
「うん」
素直だった。
「でも、今は我慢する。仕事あるし」
言いながらも、彼女の手は僕の袖を離さない。
白須賀沙也加としての理性が、沙也加としての独占欲をぎりぎり抑えている。そんな感じだった。
「夜、電話して」
「する」
「電話だけじゃ足りないって言ったら?」
「困る」
「困って」
昨日、天雨に言われた言葉と同じだった。
ちゃんと困って。
沙也加も、天雨も、違う形で僕を困らせる。
それなのに、どちらも本気だから厄介だった。
※ ※ ※
その日の夜、沙也加との通話は二時間続いた。
内容はほとんどツアーの話だった。
初日の演出。地方ごとのMC。リハーサルの仮日程。新曲の歌詞。衣装の重さ。移動中に何を食べたいか。どれも、白須賀沙也加としての未来に繋がっている話だった。
けれど、その合間に沙也加は何度も僕を確認した。
「今日、美鈴ちゃんとどのくらい話したの?」
「結城さんから連絡来てない?」
「玲音さんとは最近話した?」
「私がいない日の昼休み、屋上行った?」
「寂しかった?」
質問は多かった。
面倒くさかった。
でも、その一つ一つが彼女の不安から来ていることを、僕はもう知っている。
そして、たぶん沙也加も分かっている。
自分が面倒くさいことを。
重いことを。
それでも、やめられないことを。
「ねえ、裕二」
「うん」
「私、ツアー始まったら、もっと面倒になると思う」
「今日も聞いた気がする」
「でも、本当だもん」
電話越しの声が、少しだけ弱くなる。
「会えない日が増えたら、その分、裕二を疑うかもしれない。寂しいって言わせたくなるかもしれない。電話切りたくないって泣くかもしれない」
沈黙。
それから、さらに小さく続く。
「それでも、嫌いにならないで」
胸の奥が静かに痛んだ。
強くて、華やかで、完璧な白須賀沙也加が、電話の向こうでそんなことを言う。
僕はスマホを握り直した。
「嫌いにならない」
「ほんと?」
「ほんと」
「重いよ?」
「知ってる」
「もっと重くなるよ?」
「受け止める」
通話の向こうで、沙也加が小さく息を吸った。
「……そういうの、ほんとだめ」
「何が」
「好きが増える」
昼間の教室で聞いたようなことを、彼女はまた言った。
でも、今夜の声はもっと甘かった。
「裕二」
「うん」
「今すぐ会えないから、代わりに名前呼んで」
「沙也加」
「もう一回」
「沙也加」
「もっと」
結局、その夜も僕は何度も彼女の名前を呼ばされた。
電話越しに。
眠る直前まで。
沙也加はそのたびに小さく返事をした。満たされるように。安心するように。僕の声で、自分の居場所を確かめるように。
彼女と付き合っていても、他のヒロインたちはまだ僕を見ている。
でも、沙也加もまた、それを知った上で僕を捕まえようとしてくる。
誰よりも華やかで、誰よりも強くて、誰よりも面倒で、誰よりも僕を必要としている彼女。
その重さは、これからもっと増していく。
そして、その重さの中で、僕の日常はまた少しずつ形を変えていくのだろう。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
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