今は私の番
体育館裏で沙也加と別れたあと、僕はしばらくその場から動けなかった。
冬の夕方は、熱を奪うのが早い。校舎の影に入った空気はひやりとしていて、吐いた息が白くほどけていく。さっきまで腕の中にいた沙也加の体温も、唇に残った熱も、このまま立っていれば少しずつ冷めていくはずだった。
なのに、なかなか消えなかった。
何度もキスをねだった沙也加の顔が、頭から離れない。
寂しかったと言っただけで、あそこまで嬉しそうにする。名前を呼んだだけで、背中に回した指へ力が入る。短いキスを一度しただけでは足りなくて、二度、三度と求めてくる。最後には白須賀沙也加へ戻るための儀式みたいに、僕の唇と声と体温を確かめてから仕事へ向かっていった。
重い。
もはや、その一言だけでは足りないくらい重い。
けれど、その重さを抱えたまま歩き出そうとした時、不意にスマホが震えた。
沙也加かと思った。
だが、画面に表示された名前は違った。
結城葵。
数秒だけ、僕はその文字を見つめていた。
最近、結城とは少し距離が空いていた。文化祭の騒ぎや沙也加との関係、全国ツアー発表の慌ただしさに押されて、意識の外へ追いやっていたと言ってもいい。けれど、それで向こうの気持ちまで消えるわけではない。
嫌な予感がした。
開くと、短い文面があった。
『今日、学校近くまで来てる』
『少しだけ会えない?』
沙也加を迎えの車へ見送ったばかりのタイミングで、これだ。
タイミングが良すぎる、というより悪すぎる。いや、もしかするとラブコメの神様とやらは、こういう時に限って律儀に最悪のタイミングを選んでくるのかもしれない。
僕は返事に迷った。
沙也加と付き合っている。
その事実はもう変わらない。結城にもいずれ、ちゃんと向き合わなければならない相手の一人だった。なら、ここで逃げ続けるわけにはいかない。
そう思って返信しようとした瞬間、背後から声がした。
「沢渡くん」
振り返ると、そこには天雨がいた。
黒髪が冬の風に少し揺れている。制服姿のまま、いつも通り静かに立っていた。けれど、その視線はスマホから顔を上げた僕の表情を、もう全部読み取っているようだった。
天雨は、こういう時に本当に鋭い。
「美鈴さん」
「今、白須賀さんと会っていたの?」
いきなり核心だった。
僕は一瞬だけ返事に詰まったが、嘘をつく意味はない。
「会ってた」
「そう」
天雨は短く答える。
それだけだった。
それだけなのに、その“そう”の中にいろいろなものが沈んでいた。納得。痛み。諦め。ほんの少しの嫉妬。けれど、それらを表へ出しすぎないよう、彼女はきちんと自分で抑えている。
その姿が、前よりもずっと大人びて見えた。
「その顔だと、また何かあったのね」
「顔に出てる?」
「少しだけ」
天雨はそう言って、僕の手元へ視線を落とした。
スマホの画面はすでに暗くなっている。それでも、誰かから連絡が来ていることくらいは分かったのだろう。
「誰かに呼ばれた?」
「……結城から」
天雨の目が、ほんのわずかに細くなった。
結城の存在を、天雨は知っている。林間学校で、あの場で、彼女は僕と結城が近い距離にいるところを見た。だからこそ、その名前が出た意味をすぐに理解したのだと思う。
「行くの?」
「行った方がいいと思ってる」
「白須賀さんには?」
痛いところを突かれた。
沙也加に何も言わず、結城に会う。
それがどういう意味を持つか、想像するまでもない。沙也加が知ったら、確実に重くなる。いや、重くなるどころでは済まない可能性もある。
それでも、全部を沙也加の許可制にするのは違う。
そう思ったのに、口に出す前に天雨が静かに続けた。
「言わない方が、あとで面倒になると思う」
正論だった。
あまりにも正論すぎた。
僕が黙っていると、天雨は小さく息を吐いた。
「白須賀さんは、あなたの行動を縛りたいわけじゃない」
「そうかな」
「縛りたいとは思ってるでしょうね」
訂正が早い。
「でも、それ以上に、自分が知らないところであなたが誰かと会っていた事実が嫌なのだと思う」
その分析は、怖いくらい正確だった。
天雨は沙也加のことをよく見ている。恋敵として。クラスメイトとして。そして、僕を好きだった一人として。だからこそ、沙也加がどこで傷つき、どこで不安になり、どこで重くなるのかを、僕より冷静に見抜く時がある。
「……美鈴さんは、そういうの言ってて辛くないのか」
思わず聞いてしまった。
天雨は僕を見た。
静かな目だった。
「辛いわ」
すぐに答えた。
「でも、あなたが白須賀さんと付き合っているのは事実だから」
その声は、少しだけ冷たかった。
冷たいけれど、突き放す冷たさではない。自分を守るための冷たさだった。
「それに」
天雨は少しだけ視線を逸らす。
「白須賀さんが不安定になると、あなたも巻き込まれるでしょう」
それもまた正論だった。
僕は苦笑しかけて、やめた。
天雨は本当に、面倒なほど優しい。自分の気持ちを完全に消せていないのに、僕が選んだ相手のことまで見ている。そして、その上で自分の痛みを自分で抱えようとしている。
それは、ある意味で沙也加とは別の重さだった。
静かで、深くて、逃げ道を塞がない代わりに、忘れることも許してくれない重さ。
「連絡するよ」
「その方がいい」
天雨はそれだけ言うと、踵を返しかけた。
けれど、数歩進んだところで立ち止まり、こちらを振り返る。
「沢渡くん」
「なに、美鈴さん」
「もし白須賀さんに怒られたら、ちゃんと怒られて」
「慰めてはくれないのか」
「必要ならするわ」
天雨の声は淡々としていた。
「ただし、白須賀さんに見えないところで」
冗談なのか本気なのか分からなかった。
たぶん、両方だ。
そういうところが、天雨美鈴という女の子の厄介なところだった。
※ ※ ※
僕は結城へ返信する前に、沙也加へメッセージを送った。
『結城から少し会えないかって連絡が来た』
『話してくる』
送信してから、数秒。
既読はつかなかった。
仕事中だろう。さっき別れたばかりだ。今ごろ車の中か、事務所へ向かっている途中か、あるいはもう次の現場に入っているかもしれない。
そのまま結城へ返信する。
『少しなら』
『駅前でいいか?』
すぐに既読がついた。
『うん』
『待ってる』
短い返事だった。
けれど、その“待ってる”の四文字に、沙也加とは違う種類の圧を感じた。
駅へ向かう道を歩きながら、僕はスマホを握っていた。
沙也加からの返信はまだ来ない。
それが、逆に怖かった。
沙也加の返事が早い時は、まだ感情が見える。遅い時は、見えない場所で何かが溜まっているような気がしてしまう。もちろん、ただ仕事中なだけだろう。けれど、今の僕はもう、彼女の重さを知りすぎていた。
駅前へ着くと、結城はすぐに見つかった。
以前より明るくなった髪。少し派手めの制服の着こなし。昔のおとなしい結城葵を知っている僕からすれば、今でも少し不思議になるくらい、彼女は“陽キャ”としてそこに立っていた。
けれど、僕を見つけた瞬間の目だけは、昔と少し似ていた。
奥に隠しているものが、重い。
「沢渡くん」
結城は笑った。
笑ったけれど、その笑顔には少しだけ硬さがあった。
「来てくれてありがと」
「急にどうしたんだ」
「んー、顔見たかったから」
軽い口調だった。
けれど、言葉自体は軽くない。
僕は少しだけ周囲を見た。駅前は人通りが多い。立ち話をするには落ち着かない場所だった。
「少し歩くか」
「うん」
結城はすぐに頷いた。
二人で駅前の大通りを外れ、少し静かな道へ入る。夕方の街はイルミネーションが始まりかけていて、冬らしい明かりが歩道の植え込みを照らしていた。カップルや学生の姿もちらほらある。その中を歩く僕たちは、他人から見ればただの知り合い同士に見えるだろう。
けれど、実際はそんな簡単な関係ではなかった。
「白須賀さんと、付き合ってるんだよね」
結城は、前置きなしに言った。
僕は足を止めなかった。
「ああ」
答えると、結城は少しだけ笑った。
「そっか。知ってたけど、本人から聞くとやっぱ違うね」
知っていた。
その言葉に、少し胸が重くなる。
僕が説明する前から、彼女は何かしらの形で察していたのだろう。文化祭、林間学校、その後の空気。僕と沙也加の距離を見れば、気づかない方が難しいのかもしれない。
「おめでとう、って言うべきなんだろうね」
結城は前を向いたまま言った。
「でも、ごめん。今はまだ、素直に言えないかも」
その声に、いつもの明るさは少なかった。
「言わなくていいよ」
「優しいね」
「そういうつもりじゃない」
「そういうところだよ」
結城は笑った。
少し寂しそうに。
「沢渡くんって、ずっとそう。逃げる時もあるけど、肝心なところで変に優しい。だから、好きになる側は困る」
それは、前にも似たようなことを言われた気がする。
僕は何も言えなかった。
結城は僕の少し前を歩きながら、街灯の下で立ち止まった。振り返る。明るくなったはずの彼女の姿が、その瞬間だけ昔のおとなしい女の子の輪郭を帯びた。
「でもさ」
声が、少し低くなる。
「彼女ができたからって、私の気持ちまで勝手に終わったことにしないでね」
胸の奥が、静かに鳴った。
「結城」
「分かってるよ。奪うとか、困らせるとか、そういうの、今すぐするつもりはない」
今すぐ。
その言葉が妙に引っかかった。
結城は一歩近づいてくる。
沙也加とは違う距離の詰め方だった。沙也加が自分のものを確認するように詰めてくるなら、結城は“昔から知っている”という記憶を武器にするように近づいてくる。
「でも、好きなままではいる」
その言葉は、まっすぐだった。
「沢渡くんが白須賀さんの彼氏でも、私にとっては沢渡くんだから」
重い。
明るく振る舞っていても、結城の感情はしっかり重かった。
そして、それを向けられた僕は、もう曖昧に笑って流すことはできない。
「僕は沙也加と付き合ってる」
「うん」
「そのことは変わらない」
「分かってる」
結城は頷く。
その上で、ほんの少しだけ唇を引き結んだ。
「でも、分かってても、会いたかった」
その一言は、ずるかった。
責められた方がまだ楽だったかもしれない。好きだと押しつけられた方が、拒みやすかったかもしれない。けれど、ただ会いたかったと言われると、それを完全に切り捨てることはできなかった。
その時、スマホが震えた。
沙也加からだった。
画面には、短い文面。
『今どこ?』
空気が凍る。
いや、凍ったのは僕の中だけだったかもしれない。
結城は僕の表情を見て、すぐに察した。
「白須賀さん?」
「ああ」
「返した方がいいよ」
その言い方は、妙に落ち着いていた。
僕は画面を開く。
続けて、もう一通。
『結城さんといるの?』
心臓が跳ねた。
なぜ分かる。
いや、僕が送ったのだ。結城から連絡が来たと。だから、それ自体は不思議ではない。けれど、今このタイミングでその文面が届くと、まるで見られているような錯覚を覚える。
僕は返信する。
『駅前で話してる』
『少ししたら帰る』
既読はすぐについた。
そして、しばらく返信が来なかった。
その沈黙が怖い。
結城は僕のスマホを覗き込むことはしなかった。ただ、僕の顔を見ていた。
「白須賀さん、怒ってる?」
「たぶん」
「そっか」
結城は少しだけ笑った。
「愛されてるね」
「その言い方」
「だって本当でしょ」
その瞬間、沙也加から返信が来た。
『分かった』
『早く帰ってきて』
『帰ったら電話』
『結城さんと何話したか、全部聞く』
最後の一文に、沙也加の重さが凝縮されていた。
隠させない。
誤魔化させない。
全部聞く。
その言葉に、ぞくりと背筋が冷える。
結城は僕の表情を見て、少しだけ目を細めた。
「すごいね、白須賀さん」
「何が」
「ちゃんと繋いでる感じ」
結城はそう言って、スマホをしまう僕の手元を見た。
「離れてても、沢渡くんのこと掴んでる」
その分析は正しかった。
沙也加は今ここにいない。
それでも、メッセージひとつで僕の空気を変える。結城と向き合っているこの瞬間ですら、僕の中へ自分の存在を割り込ませてくる。
彼女がいない場所でも、沙也加は確かに僕を捕まえている。
結城は少しだけ俯いた。
「悔しいな」
その声は、小さかった。
「私も、そういうふうに沢渡くんの中に残りたかった」
何も言えない。
結城はそこで顔を上げ、いつもの明るい笑顔を作った。
少し無理のある笑顔だった。
「今日はこれだけ」
「結城」
「会いたかっただけだから。ほんとに」
そう言って、彼女は一歩下がる。
「でも、忘れないでね。私、まだちゃんと好きだから」
その言葉を残して、結城は駅の方へ歩いていった。
冬の街灯の下、明るくなった彼女の背中が人混みに紛れていく。
僕はその背中を見送ったあと、スマホを握った。
沙也加へ返信する。
『今終わった』
『帰る』
既読は一瞬だった。
『電話、今』
短い。
命令に近かった。
僕は人通りの少ない道へ入り、通話ボタンを押した。
コール音は鳴らなかった。
「裕二」
声が低かった。
怒っている。
いや、怒っているだけではない。嫉妬している。不安になっている。僕を取り戻そうとしている。声だけでそれが分かる。
「今、終わった」
「知ってる」
「知ってるって」
「裕二が終わったって送ったから」
言葉だけなら普通だ。
けれど、声の奥が全然普通ではない。
「何話したの」
「結城が、まだ僕のこと好きだって」
隠さなかった。
隠したら、もっと悪くなると分かっていたからだ。
電話の向こうで、沙也加の息が一瞬止まった。
「そっか」
声がさらに静かになった。
こういう時の沙也加が一番危ない。
「裕二は?」
「僕は、沙也加と付き合ってるって言った」
「それだけ?」
「そのことは変わらないって」
沈黙。
冬の道で、僕は立ち止まった。
電話の向こうの沙也加が、何かを飲み込んでいるのが分かる。嫉妬も不安も怒りも、全部を飲み込んで、それでも言葉を探している。
「……偉い」
ようやく返ってきたのは、その一言だった。
「偉いけど」
来る。
そう思った。
「今日、電話だけじゃ足りないかも」
やっぱりだった。
「沙也加、今日は仕事じゃ」
「仕事終わったら会いたい」
「遅くなるだろ」
「五分でいい」
「五分で済まないだろ」
「済まない」
即答だった。
開き直っていた。
「結城さんに会った分、私を見て。私の声聞いて。私のことだけ考えて。じゃないと無理」
重い。
完全に加速している。
けれど、拒む気にはなれなかった。
たぶん、ここで拒めば沙也加はもっと沈む。いや、そういう計算以前に、僕自身も会いたかった。結城と会って、他のヒロインたちがまだ僕を見ていることを改めて突きつけられた今、沙也加に会って、ちゃんと自分の気持ちを確かめたかった。
「分かった」
僕は言った。
「終わったら連絡して」
電話の向こうで、沙也加の息が少しだけ溶けた。
「うん」
それだけで、声が少し柔らかくなる。
「裕二」
「うん」
「私、今ちょっと怖いくらい嫉妬してる」
「だろうな」
「でも、裕二がちゃんと言ってくれたから、まだ大丈夫」
まだ。
その言葉が、妙に生々しかった。
「だから、後でちゃんと抱きしめて」
「分かった」
「キスも」
「……分かった」
「何回も」
「はいはい」
「はいは一回」
「分かった」
ようやく少しだけ、いつもの沙也加に戻った気がした。
それでも、電話の奥にある嫉妬の熱は消えていない。
むしろ、これから会った時にその熱がどうなるのかを考えると、少しだけ心臓が重く鳴った。
※ ※ ※
その夜、沙也加から連絡が来たのは、二十時を少し過ぎた頃だった。
『終わった』
『いつもの場所』
それだけ。
僕はコートを羽織り、家を出た。
向かったのは、以前にも何度か会った人気の少ない小さな公園だった。駅から少し離れていて、夜は人通りが少ない。街灯はいくつかあるが、園内の端は木陰になっていて、外からは見えにくい場所がある。
沙也加は、そこにいた。
黒いコートにマフラー。帽子を深く被っていて、ぱっと見ただけでは白須賀沙也加だとは分からない。けれど、僕には一目で分かった。立ち方、肩の線、こちらを見つけた瞬間の空気の変わり方。
彼女は僕を見るなり、歩いてきた。
そして、何も言わずに抱きついてきた。
勢いがあった。
胸へ飛び込んでくるような抱きつき方だった。僕は少しよろけながらも受け止める。沙也加の腕が背中へ回り、ぎゅっと強く締まった。
「裕二」
「うん」
「結城さんと会った」
「会った」
「私以外の子に、まだ好きって言われた」
「言われた」
「それを、ちゃんと私に言った」
「言った」
沙也加は僕の胸元へ顔を埋めたまま、確認するみたいに一つずつ言葉を重ねた。
まるで、自分の中で不安を処理するために、事実を順番に並べているみたいだった。
「じゃあ」
彼女は顔を上げる。
目が潤んでいた。
けれど、その奥には嫉妬の火がはっきり残っている。
「今は私の番」
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




