寂しかった
空き教室で何度もキスをした翌日、沙也加はいつも通りの顔で教室にいた。
いや、正確には“いつも通りに見える顔”だった。
机の上には教科書とノート。隣の席の僕が登校してくる前から、彼女はクラスメイトに囲まれていた。全国アリーナツアーの話題はまだ消えない。むしろ日が経つごとに、少しずつ現実味を増して広がっているようだった。チケットはどうやって取るのか、どこの会場が一番大きいのか、グッズは出るのか、ファンクラブ先行はあるのか。そういう声が、朝の教室のあちこちに浮かんでいる。
沙也加はそれらすべてに、完璧な笑顔で答えていた。
答えすぎず、突き放さず、期待させすぎず、けれど応援してくれる気持ちは丁寧に受け取る。白須賀沙也加としての距離感は、本当に隙がない。ステージの上で何万人を相手にする人間は、教室の中にいても、やっぱり人の視線の扱いが違う。
けれど、僕が教室に入った瞬間だけ、その笑顔の奥がわずかに変わった。
たった一瞬。
ほんの一瞬だけ、昨日の空き教室で何度もキスをねだった女の子の顔が覗いた。
その顔を見た瞬間、僕は昨日の夕陽の匂いを思い出してしまった。人気のない空き教室。半分だけ閉じたカーテン。震える指。足りないと繰り返す声。何度唇を重ねても、最後には「明日は明日で欲しい」と言っていた、あの沙也加。
そして今朝、その“明日”が来ている。
僕が席へ着くと、机の下で彼女の指が待っていた。
当然みたいに。
約束していたわけではない。けれど、昨日あれだけ求めたあとなら、今日も求めてくることくらい分かっていた。僕は鞄を置くふりをして、指先だけをそっと伸ばす。彼女の指へ触れた瞬間、沙也加の肩から少しだけ力が抜けた。
表では、まだクラスメイトに笑っている。
机の下では、僕の指を捕まえている。
その二重性が、今の沙也加そのものだった。
白須賀沙也加として全国へ向かう準備をしている彼女と、沢渡裕二の手を掴まないと今日を始められない沙也加。その両方が、同じ身体の中にいる。しかも、どちらも嘘ではない。
彼女は机の下で、僕の指を一度だけ強く握った。
昨日の続きを催促するみたいに。
僕は前を向いたまま、小さく息を吐いた。
朝からこれだ。
この先、ツアーのリハーサルが始まって会えない時間が増えたら、彼女は本当にどうなってしまうのだろうと思った。
※ ※ ※
昼休みになると、沙也加は教室にはいなかった。
代わりに、僕のスマホには短いメッセージが届いていた。
『今日は屋上行けない』
『打ち合わせ』
『でも寂しいから、あとで絶対来て』
最後の一文だけ、妙に圧が強かった。
僕はその文面を見て、苦笑しながらも返事をした。
『分かった』
既読はすぐについた。
『分かっただけ?』
面倒くさい。
けれど、こういう時の沙也加は本当に返信を待っている。僕がどう返すかで、そのあとの彼女の機嫌も、集中力も、たぶん少し変わる。
『打ち合わせ頑張れ』
『あとで会いに行く』
今度は少し間が空いた。
そして返ってきた。
『好き』
『頑張る』
単純すぎる。
けれど、その単純さが妙に胸に残った。
昼食を一人で済ませたあと、僕は廊下を歩いた。屋上には行かなかった。行っても、そこには今日、沙也加はいない。そう思うと、行く理由の半分くらいが消えた気がした。
代わりに、廊下の窓から外を見る。
校庭の向こう、冬の空が高い。グラウンドではサッカー部が昼休みの軽い自主練をしていて、遠くでボールを蹴る音が響いていた。昨日までは何でもない音だったのに、今日はそれすら、彼女のツアー準備と重ねてしまう。
沙也加もきっと、今ごろどこかの空き教室か事務所との通話で、曲順や演出やリハーサル日程を確認している。
リハーサル、ゲネプロ、本番。
最近、沙也加の資料や会話の中でそういう言葉が増えた。普通の練習だけではなく、全体の流れを確認し、本番に近い形で通していく時間が必要になるのだという。ツアーは歌うだけではない。照明、音響、移動、衣装、MC、曲間の導線。その全部が噛み合って初めて、白須賀沙也加のステージになる。
それを彼女は、たった一人の身体で背負っていく。
そう考えると、昨日の空き教室で何度もキスを欲しがった沙也加の姿が、少し違って見えた。
あれはただ甘えたかっただけではない。
これから大きな場所へ向かう前に、戻る場所を確かめていたのだ。
僕の唇で、手で、体温で。
自分が白須賀沙也加として遠くへ行っても、沙也加として戻ってこられる場所があるのだと、何度も確かめていた。
重い。
けれど、その重さには理由があった。
それでもやはり、少しだけ怖いと思った。あの重さが、これからどこまで深くなるのか。沙也加自身も、たぶん分かっていない。分からないまま、彼女は僕の方へ沈んでくる。
そして僕は、その重さを受け止めると決めている。
決めているのに、時々、自分の腕が足りるのか不安になる。
そんなことを考えていると、背後から静かな声がした。
「沢渡くん」
振り向くと、天雨がいた。
黒髪が冬の廊下の光を受けて、少しだけ青く見えた。表情はいつも通り静かだったが、その目には全部を見抜いているような鋭さがある。
「美鈴さん」
僕が呼ぶと、天雨は少しだけ視線を落とした。
その呼び方を、今の彼女はどう受け止めているのだろうと思う。以前からそう呼んでいた。けれど、沙也加と付き合い始めてから、その響きは少しだけ変わってしまった気がする。
「白須賀さん、今日は忙しそうね」
「ああ。打ち合わせらしい」
「そう」
短い返事だった。
けれど、そこで会話は終わらなかった。
天雨は僕の隣へ並び、窓の外へ視線を向けた。少し離れた距離。近すぎず、遠すぎず。彼女はもう僕に踏み込みすぎないよう、線を引いている。その線を守っているからこそ、逆に彼女の感情の重さが伝わってくる。
「寂しい?」
不意に聞かれた。
僕はすぐ答えられなかった。
天雨は、僕の沈黙を答えとして受け取ったようだった。
「白須賀さんがいない屋上は、静かでしょうね」
その言葉は優しいのか、少し意地悪なのか、判断しづらかった。
「静かだよ」
「でも、物足りない?」
「……そうかもな」
正直に答えると、天雨はほんの少しだけ目を伏せた。
その動きに、まだ消えない痛みがあった。
けれど、彼女はそれを僕にぶつけなかった。ただ、静かに受け取って、自分の中へしまう。
「なら、ちゃんと待ってあげて」
天雨は言った。
「白須賀さんは、たぶんあなたが思っているよりずっと、あなたを必要としてる」
その言葉には、不思議な重みがあった。
恋敵だからこそ分かることがあるのかもしれない。沙也加がどれほど僕を見ているか。どれほど僕へ重さを預けているか。天雨は、ずっと近くでそれを見ていた。
「美鈴さんは、いいのか」
「何が?」
「そうやって、沙也加のことを気にかけるみたいに言って」
天雨は少しだけ黙った。
そして、静かに答えた。
「よくはないわ」
はっきりした言葉だった。
「でも、あなたが白須賀さんを選んだことは知ってる。なら、あなたが後悔するような形で壊れてほしくないだけ」
その優しさは、簡単に受け取ってはいけないものだった。
天雨はまだ、僕を好きなままだ。
だからこそ、その言葉は自分の胸を削って出てきたものなのだと思う。
「ありがとう」
僕が言うと、天雨は横目で僕を見た。
「お礼を言われると、少し腹が立つ」
「ごめん」
「謝られても腹が立つ」
「どうすればいいんだ」
「ちゃんと困って」
それだけ言って、天雨はほんの少しだけ笑った。
笑った、というには小さい変化だった。けれど、たしかに彼女の口元が緩んだ。
「白須賀さん、きっともっと面倒になるわよ」
「もうなってる」
「まだ序盤だと思う」
その言い方に、少しだけ背筋が冷えた。
天雨はきっと、沙也加の重さがこれからさらに増していくことを予感している。僕よりも冷静に、彼女の感情の膨らみ方を見ているのだろう。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。
天雨は窓から離れた。
「じゃあ」
「ああ」
彼女は数歩進んだあと、一度だけ振り返った。
「沢渡くん」
「なに、美鈴さん」
「白須賀さんがいない時に寂しいと思うなら、その寂しさをちゃんと本人に言ってあげて」
その言葉だけ残して、天雨は教室へ戻っていった。
僕はしばらく、窓際に立ったままだった。
沙也加がいない時間。
天雨が言った通り、そこにある寂しさを僕はまだ本人に伝えていなかった気がする。
沙也加はきっと、知りたがる。
僕が寂しいと思ったことを。
自分がいない場所で、自分を求めたことを。
それを知ったら、彼女はたぶん、面倒なくらい喜ぶだろう。
でも、それで少しでも彼女が安心するなら。
午後の授業が始まる前、僕はスマホを取り出した。
『屋上、静かだった』
『少し寂しかった』
送信。
既読はすぐにつかなかった。
打ち合わせ中なのだろう。
それなのに、送っただけで少しだけ胸が軽くなった。
※ ※ ※
放課後、教室には沙也加の姿がなかった。
荷物もない。
机の上も綺麗に片付いている。
昼の打ち合わせから、そのまま事務所へ向かったのだろう。そう思った瞬間、ほんの少しだけ胸の奥が空いた。
けれど、スマホが震えた。
沙也加からだった。
『今見た』
昼に送ったメッセージへの返信だ。
続けて、すぐにもう一通。
『寂しかったの?』
さらにもう一通。
『私がいなくて?』
さらに。
『ほんとに?』
怒涛だった。
重い。重すぎる。
けれど、画面の向こうで沙也加がどんな顔をしているのか想像できてしまう。たぶん、嬉しさを隠しきれずに頬を緩めている。だけど同時に、「もっと言って」と言いたくて仕方ない顔をしている。
僕は廊下の端で立ち止まり、返信した。
『本当に』
『沙也加がいないと静かすぎる』
既読。
今度はすぐについた。
そして、少しだけ間が空いた。
『だめ』
『今それ言われるの無理』
『会いたくなった』
僕は思わず額に手を当てた。
まずい。
これは完全に火をつけた。
次のメッセージは、予想通りだった。
『今から少しだけ会える?』
『事務所行く前に』
『五分でいい』
『五分じゃ足りないけど』
最後の一文が本音だった。
僕は少しだけ周囲を見てから、返信する。
『どこにいる?』
『体育館裏の方』
『人いない』
その一文で、嫌な予感と、少しの期待が同時に胸を叩いた。
僕は鞄を持ち直し、足早に昇降口へ向かった。
校舎の外へ出ると、冬の夕方の空気が頬へ刺さる。校庭を回り込み、体育館の裏へ向かう。そこは普段からあまり人の通らない場所だった。部活動の声は聞こえるが、建物の陰になっているせいで、視線は届きにくい。
沙也加は、そこで待っていた。
制服の上にコートを羽織り、マフラーを首元に巻いている。片手にはスマホ。もう片方の手は、胸元のあたりでぎゅっと握られていた。
僕を見ると、沙也加はすぐに歩いてきた。
そして、何も言わずに僕の胸へ額を押し当てた。
重い衝撃ではない。
けれど、感情の重さだけがまっすぐぶつかってきた。
「……寂しかったって、ほんと?」
「ほんと」
「私がいなくて?」
「うん」
その瞬間、沙也加の腕が僕の背中へ回った。
ぎゅっと、力が込められる。
「やばい」
「何が」
「嬉しい」
声が震えていた。
「裕二が私いなくて寂しいって思ったの、すごく嬉しい」
普通なら、少しおかしい感想なのかもしれない。
けれど沙也加にとって、それは何よりの安心材料なのだろう。自分がいない時間にも、僕の中に自分が残っている。その事実が、彼女を支えている。
沙也加は顔を上げた。
目が、少し潤んでいた。
「もっと言って」
「またか」
「言って」
逃がさない声だった。
「沙也加がいなくて、寂しかった」
僕がそう言うと、彼女は目を閉じた。
言葉を食べるみたいに、受け取っている顔だった。
「もう一回」
「沙也加がいなくて寂しかった」
「もう一回」
「沙也加」
「名前だけでもいい」
かなり危ない。
でも、止められなかった。
「沙也加」
僕が名前を呼ぶたびに、彼女の指が背中で強くなる。まるで、その声で自分を満たしているみたいだった。トップアイドルが、体育館裏の薄暗い場所で、たった一人の男子に名前を呼ばれるだけで、こんな顔をしている。
重い。
そして、ひどく尊い。
「キスして」
沙也加は、唐突に言った。
「今?」
「今」
「五分しかないんじゃなかったのか」
「だから早く」
理屈がおかしい。
けれど、沙也加は本気だった。目が完全に求めている。昨日の空き教室の続きが、まだ彼女の中で終わっていない。
僕は周囲を確認した。
人はいない。体育館の向こうから部活の声がするだけだ。
それを見て、沙也加が小さく言う。
「誰もいないよ」
その声が、少しだけ甘く沈む。
「いても、隠すから」
「何を」
「裕二を」
冗談みたいに言うくせに、目が本気だった。
僕はため息をつきかけて、やめた。
代わりに、沙也加の頬へ手を添える。
冷えていた。
外で待っていたせいだろう。その冷たさに少し胸が痛くなる。こんな寒い場所で、僕からの「寂しかった」を抱えたまま、彼女は待っていたのだ。
僕は顔を近づけた。
唇を重ねる。
短いキスだった。
けれど、沙也加はすぐに離してくれなかった。僕のコートの前を掴み、もう一度ねだるように背伸びをする。
「もう一回」
やっぱりそうなる。
二度目は少し長かった。
唇が触れた瞬間、沙也加の肩から力が抜ける。けれど、掴んだ手だけは離れない。彼女の体温が近い。マフラー越しに、彼女の香りが少しだけ届く。
離れる。
「もう一回」
「沙也加」
「五分しかないから」
「それは理由になるのか」
「なる」
三度目。
今度は彼女から距離を詰めてきた。
寒さで冷えた唇が、触れるたびに熱を持っていく。僕が少しでも離れようとすると、沙也加はコートを掴む指に力を込める。
「足りない」
またそれだ。
「昨日も言ってたな」
「昨日より足りない」
「増えてるのか」
「裕二が寂しいって言ったから」
どういう理屈だ。
そう思ったが、たぶん沙也加の中では完璧に繋がっているのだろう。僕が寂しいと思った。つまり、自分は僕の中にちゃんといる。ならもっと欲しい。もっと確かめたい。もっと深く残りたい。
そういう流れだ。
重い。
けれど、今さら驚くほどでもない。
僕は彼女を抱き寄せた。
沙也加が小さく息を呑む。
今度は、僕から何度もキスをした。
額の近くに。
頬に。
唇に。
短く、何度も。
そのたびに沙也加の表情が少しずつ溶けていく。白須賀沙也加の顔ではない。ツアー発表で世間を騒がせているトップアイドルの顔でもない。ただ、好きな人に求められて、満たされていく女の子の顔だった。
「裕二」
「うん」
「好き」
「知ってる」
「もっと知って」
「十分知ってる」
「足りない」
これも足りないのか。
でも、沙也加らしい。
彼女の愛は、たぶん底がない。どれだけ受け取っても、まだ渡したがる。どれだけ満たされても、もっと欲しがる。それが怖くもあり、同時に僕を強く惹きつけるものでもあった。
最後にもう一度、唇を重ねた。
長くはない。
けれど、今までで一番静かなキスだった。
沙也加は目を閉じたまま、僕の胸元へ額を押し当てる。
「これで、少し頑張れる」
昨日と同じようなことを言う。
けれど、今日はその意味がもっと深く分かった。
彼女にとって、僕とのキスはただの甘さではない。
白須賀沙也加へ戻るための儀式みたいなものなのだ。
僕の前で沙也加になり、僕の体温で満たされて、またステージへ向かう。
その循環の中心に、僕がいる。
「行けそうか」
「うん」
沙也加は顔を上げた。
目元はまだ少し赤い。けれど、そこにはもう仕事へ向かう光が戻り始めていた。
「でも夜、電話して」
「分かった」
「あと、今日のこと忘れないで」
「忘れない」
「私がいなくて寂しかったって、明日も言って」
「明日も?」
「毎日でもいい」
面倒くさい。
けれど、もう笑うしかなかった。
「分かった。言える時は言う」
「言える時じゃなくて、言って」
「……努力する」
沙也加がじっと僕を見る。
「そうする」
言い直すと、彼女は満足そうに笑った。
体育館裏の冷たい空気の中で、沙也加は僕から一歩離れる。ほんの少し名残惜しそうに、指先が最後まで僕の袖を掴んでいた。けれど次の瞬間には、彼女の背筋がすっと伸びる。
白須賀沙也加へ戻っていく。
その切り替わりを、目の前で見た。
「じゃあ、行ってくる」
「ああ。頑張れ」
「裕二が寂しかったって言ってくれたから、今日は勝てる気がする」
何に勝つのかは分からない。
けれど、彼女にとってはきっと大事な戦いなのだろう。
沙也加は最後に一度だけ振り返った。
「夜、絶対電話ね」
「分かってる」
「絶対」
「絶対」
それでようやく、彼女は歩き出した。
校舎の影を抜けて、迎えの車が待つ方へ向かう背中は、さっきまで僕の腕の中にいた女の子とは別人みたいに真っ直ぐだった。
全国へ向かうアイドル。
その前に、僕のキスを何度もねだった彼女。
どちらも同じ沙也加だ。
そしてその両方を、僕はこれからも見続けるのだと思った。
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