キスは何度でも
その日の放課後、教室の空気は妙に乾いていた。
冬の夕方は、校舎の色を少しずつ奪っていく。窓の向こうに沈みかけた太陽は淡い橙色で、机の列には長い影が落ちていた。文化祭の頃のような熱はもうない。クラスメイトたちは部活へ向かう者、友人と帰る者、自習のために図書室へ向かう者に分かれ、教室は少しずつ空になっていく。
その中で、沙也加だけはまだ席に座っていた。
机の上には、授業用のノートではなく、無地のクリアファイルが置かれている。中身は外から見えないようになっていたが、僕にはそれがツアー関係の資料だと分かった。最近の沙也加は、学校にいる時間の隙間にも、白須賀沙也加としての準備を進めている。
全国アリーナツアー。
その響きは、今もまだ少し現実味がない。
けれど沙也加は、もう現実としてそれを背負っていた。ファンに向ける笑顔も、クラスメイトへ向ける明るい声も変わらない。変わらないように見せているだけで、その内側にある緊張や重圧は、日を追うごとに少しずつ濃くなっている。
僕が鞄を肩にかけると、沙也加は顔を上げた。
そして、何も言わずに立ち上がる。
その瞬間、教室に残っていた数人の視線が自然と彼女へ向いた。本人は気にしていないような顔をしていたが、僕には分かった。彼女は気づいている。誰が見ているか、どの距離なら自然か、どのタイミングなら僕と一緒に出ても不自然に見えないか、その全部を分かった上で動いている。
トップアイドルとしての計算。
彼女としての独占欲。
その二つが、沙也加の歩幅には同時に宿っていた。
「帰ろ」
沙也加は短く言った。
ただの一言だった。
けれど、その声の下に、今日は逃がさない、という温度が沈んでいた。
僕は頷き、二人で教室を出た。
廊下へ出ると、沙也加はすぐ隣に並んだ。肩が触れそうで触れない距離。けれど、人がいなくなるたびに、その距離はほんの少しずつ縮まっていく。階段を降りる時、彼女の指先が僕の袖を掠めた。渡り廊下へ出る頃には、僕の手の甲へ触れた。昇降口へ向かう人気の少ない廊下に差しかかった時には、完全に指を絡めてきた。
誰かに見られたら困る。
そう思うより先に、その手の熱が強かった。
沙也加は前を向いたまま歩いている。けれど、指だけは僕を離さない。軽く握るのではなく、指の間へ自分の指を深く入れて、逃げ道をなくすように絡めてくる。
その握り方が、昨日までより少し強かった。
「沙也加」
「なに?」
「今日は、何かあった?」
彼女はすぐには答えなかった。
窓の外では、グラウンドの部活動の声が遠く響いている。ボールを蹴る音、誰かを呼ぶ声、笛の音。それらが現実の音として廊下に流れ込んでくるのに、僕たちの周りだけは妙に静かだった。
「今日ね」
沙也加はようやく口を開いた。
「リハーサルの仮スケジュールが出たの」
声は落ち着いていた。
「春から、学校に来られない日が増える。朝だけ来て、昼から仕事の日もあるし、地方前乗りで何日か空く日もある」
その言葉を聞いた瞬間、指に込められた力の理由が分かった気がした。
沙也加は遠くへ行く。
分かっていたことだ。ツアーが始まれば、彼女は全国を回る。学校にいない日が増える。隣の席が空く日が増える。メッセージや電話だけで繋がる夜も増える。
それでも、実際にスケジュールという形で突きつけられれば、彼女の中で何かが現実味を持ってしまったのだろう。
「寂しくなったのか」
そう聞くと、沙也加は少しだけ唇を尖らせた。
「寂しいに決まってるでしょ」
即答だった。
「裕二、分かってる? 私、たぶん今よりもっと面倒になるよ」
「今でも十分だと思うけど」
「足りない」
その一言は、妙に低かった。
「今の私でも、まだ足りない。だって、会えなくなる日が増えるんだよ? 裕二が私のいない教室で、普通に授業受けて、普通に昼休み過ごして、普通に誰かと話すんだよ?」
沙也加の歩く速度が、ほんの少し遅くなる。
絡めた指は離れない。
「その間、私は地方の会場でリハして、打ち合わせして、白須賀沙也加で笑ってる。なのに、裕二がその時何してるか分からない」
声は静かだった。
静かだからこそ、重い。
「それ、嫌」
彼女はそう言い切った。
理屈としては無茶苦茶だ。僕にだって学校生活がある。沙也加がいない間に誰かと話すこともある。昼休みに一人でいることも、天雨とすれ違うことも、柊先輩に頼まれごとをされることもあるだろう。
でも、沙也加はそれを理屈として理解した上で、感情として嫌だと言っている。
そこが一番面倒で、一番彼女らしいところだった。
「裕二」
「うん」
「私がいない間も、私のこと考えて」
「考えるよ」
「朝、教室入ったら、私の席を見て」
「見る」
「昼休み、屋上行ったら、私がいないこと寂しいって思って」
「……努力する」
沙也加の指が、ぎゅっと締まった。
「努力じゃなくて、そうして」
命令だった。
でも、その声の奥が少しだけ震えていた。
強い独占欲と、隠しきれない不安。ツアーへ向かう白須賀沙也加の裏側で、僕から離れる時間を怖がっている沙也加がいる。その事実が、胸の奥を静かに締めつけた。
「分かった」
僕は答えた。
「沙也加がいない時も、考える。席も見る。屋上でも、寂しいって思う」
沙也加は、足を止めた。
廊下の先には昇降口が見える。けれど、彼女はそこへ行かず、横の空き教室へ視線を向けた。今は使われていない教室で、放課後になるとほとんど人が来ない。鍵は開いている。文化祭の時、備品置き場として使われていた部屋だった。
嫌な予感がした。
いや、正確には嫌ではなかった。
ただ、心臓が先に気づいただけだった。
沙也加は何も言わずに、僕の手を引いた。
※ ※ ※
空き教室の中は、夕方の光で薄く染まっていた。
机は端へ寄せられ、黒板には以前の授業の名残らしい薄いチョーク跡が残っている。カーテンは半分だけ閉じられていて、隙間から差し込む橙色の光が床に細長く落ちていた。暖房は入っていないはずなのに、扉を閉めた瞬間、教室の空気は妙に熱を持ったように感じた。
沙也加は手を離さなかった。
むしろ、扉が閉まった途端、僕の手を両手で包むように握った。まるで、外の世界との境界を閉じたのを確認してから、ようやく本音を出すみたいに。
彼女は少し俯いていた。
長い睫毛の影が頬に落ちる。制服のリボンがわずかに揺れている。完璧なアイドルの姿勢ではない。好きな人の前でだけ形を崩せる、沙也加の姿だった。
「……キスして」
小さな声だった。
けれど、その一言は空き教室の中でやけにはっきり響いた。
僕は息を止めた。
沙也加は顔を上げない。けれど、握る手の力だけが強くなる。
「今日、ずっと我慢してた」
彼女は続けた。
「朝から打ち合わせの資料見て、クラスの子にツアーのこと聞かれて、ちゃんと笑って、ちゃんと答えて、昼も連絡返して、午後も授業受けて」
声が少しずつ濡れていく。
「でも、本当はずっと、今日も昨日まで裕二に触りたかった」
その言葉で、胸の奥が熱を持った。
沙也加は一歩近づく。
近い。
近すぎる。
香りが届く。髪の匂いと、柔軟剤の匂いと、冬の外気が少し混ざった、彼女の匂い。
「机の下で手を握っただけじゃ足りなかった。電話で声を聞いても足りなかった。昨日の約束も、朝の約束も、全部嬉しかったけど、それでも足りなかった」
彼女は顔を上げた。
目が、危ういくらいまっすぐだった。
「だから、今して」
お願いの形をしている。
でも、ほとんど命令だった。
いや、命令というより、切実な要求だった。自分でも抑えきれなくなった愛情を、もう隠す気もなく差し出している。重くて、面倒で、逃げ場がない。けれど、その全部が僕へ向いている。
僕は沙也加の肩へ手を置いた。
細い肩だった。
ステージで何万人を圧倒する人とは思えないほど、近くで触れると小さく感じる。けれど、その小さな身体の中に、どれだけ大きなものを抱えているのか、今なら少しだけ分かる。
「沙也加」
「なに」
「こっち見て」
彼女はすぐに見た。
その瞬間、僕は彼女の頬に手を添えた。
沙也加の目が一瞬だけ揺れる。求めていたくせに、いざ触れられると弱い。そういうところがずるいと思う。けれど、僕ももう逃げる気はなかった。
唇を重ねた。
最初は、静かなキスだった。
触れるだけ。冬の空き教室で、夕陽の中に二人の影が落ちる。沙也加の唇は少し冷たくて、でも触れた瞬間に熱を持った。彼女の指が、僕の制服の袖を掴む。逃がさないためではなく、自分が崩れないために掴んでいるみたいだった。
離れる。
けれど、沙也加はすぐに目を開けなかった。
唇が離れた距離のまま、彼女は小さく息を吐く。
「……もう一回」
声が甘かった。
甘いのに、奥に圧がある。
「一回じゃ足りない」
僕が答える前に、沙也加は少し背伸びした。
二度目は、彼女からだった。
さっきより強い。まだ乱暴ではない。けれど、待てない気持ちがそのまま形になっていた。唇が重なり、彼女の手が僕の胸元へ移る。軽く掴むだけなのに、その力が熱い。
離れると、沙也加はすぐ近くで僕を見上げた。
頬が赤い。
目元も少し潤んでいる。
それなのに、口元には満たされきっていない笑みが浮かんでいた。
「まだ」
短い。
でも、十分だった。
三度目は、僕からした。
沙也加の背中へ腕を回し、少しだけ引き寄せる。彼女の身体が素直にこちらへ寄った。体温が近い。呼吸が混ざる。夕陽に照らされた教室の中で、世界の音が遠くなる。
唇が離れるたび、沙也加は少しずつわがままになる。
「もう一回」
また重ねる。
「まだ足りない」
また重ねる。
「裕二、ちゃんと私だけ見て」
また重ねる。
何度目かで、沙也加の手が僕の背中に回った。ぎゅっと抱きついてくる。制服越しに伝わる熱が、さっきよりずっと強い。彼女は僕の胸へ額を押し当て、短く息を整えた。
けれど、離れようとはしなかった。
「……これ、ツアー始まったらどうしよう」
「何が」
「会えない日、キスできない」
真剣だった。
あまりにも真剣で、思わず言葉に詰まる。
「電話で我慢しろ」
「無理かも」
「無理って」
「だって、今だって足りないのに」
沙也加は顔を上げた。
その目が、少し怖いくらい甘かった。
「会えない日が続いたら、次会った時、私、絶対止まれないと思う」
重い。
ひどく重い。
けれど、その言葉に宿る不安と渇きが、全部僕へ向かっていることを思うと、拒むより先に抱きしめたくなった。
「その時は、受け止める」
僕がそう言うと、沙也加は一瞬だけ固まった。
それから、信じられないくらい嬉しそうに笑った。
「言ったね」
「言った」
「絶対だよ」
「絶対」
沙也加はその言葉を、まるで宝物みたいに受け取った顔をした。
そして次の瞬間、またキスをねだった。
言葉ではなく、目で。
ほんの少し顎を上げて、唇を近づけて、僕が気づくのを待っている。いや、待っているようで、実際には逃げ道を塞いでいる。そんな顔だった。
僕は少しだけ笑って、応えた。
何度も。
短く、触れるだけのキスを。
少し長く、互いの呼吸を確かめるキスを。
彼女が不安を忘れるまで。
彼女が僕の制服を掴む手から少しずつ力を抜くまで。
夕陽が教室の床をさらに赤く染める頃、沙也加はようやく僕の胸へ顔を埋めた。
「……足りた?」
僕が聞くと、彼女は小さく首を横に振った。
「足りない」
即答だった。
けれど、その声はさっきより穏やかだった。
「でも、少しだけ満たされた」
そう言って、沙也加は僕の胸元に額を押し当てる。
「裕二」
「うん」
「ツアー中、会えなくても、私のこと忘れないで」
「忘れない」
「他の子に取られないで」
「取られない」
「私が帰ってくる場所でいて」
「いるよ」
そのたびに、沙也加の指が僕の制服を掴む力を少しずつ緩めていった。
最後に彼女は、僕の胸元から顔を上げた。
夕陽を受けた目が、濡れたように光っている。
「じゃあ、最後にもう一回」
「最後って言ったな」
「今日の最後」
「明日は?」
「明日は明日で欲しい」
筋金入りだった。
僕は苦笑しながら、もう一度彼女へ顔を寄せた。
沙也加は目を閉じる。
その表情は、さっきまでの焦がれるようなものではなく、約束を受け取るみたいに穏やかだった。
最後のキスは、長かった。
長くて、静かで、重かった。
全国へ向かう不安も、会えなくなる寂しさも、僕を誰にも渡したくない独占欲も、その全部を溶かして渡してくるようなキスだった。
唇が離れたあと、沙也加は小さく息を吐いて、僕の手を取った。
指を絡める。
そして、当たり前みたいに言った。
「これで今日、頑張れる」
もう放課後なのに、と思った。
けれど、沙也加にとってはここからまた仕事なのだろう。白須賀沙也加として、ツアーへ向けて、次の打ち合わせか、練習か、取材か。何万人の前へ立つための時間が、彼女を待っている。
その前に、彼女は僕のキスを欲しがった。
何度も。
足りないと言いながら。
それで少しだけ満たされて、また白須賀沙也加へ戻っていく。
その事実が、あまりにも重くて、あまりにも尊かった。
空き教室の夕陽の中で、沙也加はもう一度だけ僕の手を強く握った。
その握り方は、さっきまでの不安とは少し違っていた。
ちゃんと捕まえた。
ちゃんと帰る場所を確認した。
そう言っているような力だった。
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