表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
軽い気持ちで国民的アイドルと友達になったら、周りの美少女達から激重感情をぶつけられる件――え!? トップアイドルの君まで!?  作者: 沢田美


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

81/104

キスは何度でも

 その日の放課後、教室の空気は妙に乾いていた。


 冬の夕方は、校舎の色を少しずつ奪っていく。窓の向こうに沈みかけた太陽は淡い橙色で、机の列には長い影が落ちていた。文化祭の頃のような熱はもうない。クラスメイトたちは部活へ向かう者、友人と帰る者、自習のために図書室へ向かう者に分かれ、教室は少しずつ空になっていく。


 その中で、沙也加だけはまだ席に座っていた。


 机の上には、授業用のノートではなく、無地のクリアファイルが置かれている。中身は外から見えないようになっていたが、僕にはそれがツアー関係の資料だと分かった。最近の沙也加は、学校にいる時間の隙間にも、白須賀沙也加としての準備を進めている。


 全国アリーナツアー。


 その響きは、今もまだ少し現実味がない。


 けれど沙也加は、もう現実としてそれを背負っていた。ファンに向ける笑顔も、クラスメイトへ向ける明るい声も変わらない。変わらないように見せているだけで、その内側にある緊張や重圧は、日を追うごとに少しずつ濃くなっている。


 僕が鞄を肩にかけると、沙也加は顔を上げた。


 そして、何も言わずに立ち上がる。


 その瞬間、教室に残っていた数人の視線が自然と彼女へ向いた。本人は気にしていないような顔をしていたが、僕には分かった。彼女は気づいている。誰が見ているか、どの距離なら自然か、どのタイミングなら僕と一緒に出ても不自然に見えないか、その全部を分かった上で動いている。


 トップアイドルとしての計算。


 彼女としての独占欲。


 その二つが、沙也加の歩幅には同時に宿っていた。


「帰ろ」


 沙也加は短く言った。


 ただの一言だった。


 けれど、その声の下に、今日は逃がさない、という温度が沈んでいた。


 僕は頷き、二人で教室を出た。


 廊下へ出ると、沙也加はすぐ隣に並んだ。肩が触れそうで触れない距離。けれど、人がいなくなるたびに、その距離はほんの少しずつ縮まっていく。階段を降りる時、彼女の指先が僕の袖を掠めた。渡り廊下へ出る頃には、僕の手の甲へ触れた。昇降口へ向かう人気の少ない廊下に差しかかった時には、完全に指を絡めてきた。


 誰かに見られたら困る。


 そう思うより先に、その手の熱が強かった。


 沙也加は前を向いたまま歩いている。けれど、指だけは僕を離さない。軽く握るのではなく、指の間へ自分の指を深く入れて、逃げ道をなくすように絡めてくる。


 その握り方が、昨日までより少し強かった。


「沙也加」


「なに?」


「今日は、何かあった?」


 彼女はすぐには答えなかった。


 窓の外では、グラウンドの部活動の声が遠く響いている。ボールを蹴る音、誰かを呼ぶ声、笛の音。それらが現実の音として廊下に流れ込んでくるのに、僕たちの周りだけは妙に静かだった。


「今日ね」


 沙也加はようやく口を開いた。


「リハーサルの仮スケジュールが出たの」


 声は落ち着いていた。


「春から、学校に来られない日が増える。朝だけ来て、昼から仕事の日もあるし、地方前乗りで何日か空く日もある」


 その言葉を聞いた瞬間、指に込められた力の理由が分かった気がした。


 沙也加は遠くへ行く。


 分かっていたことだ。ツアーが始まれば、彼女は全国を回る。学校にいない日が増える。隣の席が空く日が増える。メッセージや電話だけで繋がる夜も増える。


 それでも、実際にスケジュールという形で突きつけられれば、彼女の中で何かが現実味を持ってしまったのだろう。


「寂しくなったのか」


 そう聞くと、沙也加は少しだけ唇を尖らせた。


「寂しいに決まってるでしょ」


 即答だった。


「裕二、分かってる? 私、たぶん今よりもっと面倒になるよ」


「今でも十分だと思うけど」


「足りない」


 その一言は、妙に低かった。


「今の私でも、まだ足りない。だって、会えなくなる日が増えるんだよ? 裕二が私のいない教室で、普通に授業受けて、普通に昼休み過ごして、普通に誰かと話すんだよ?」


 沙也加の歩く速度が、ほんの少し遅くなる。


 絡めた指は離れない。


「その間、私は地方の会場でリハして、打ち合わせして、白須賀沙也加で笑ってる。なのに、裕二がその時何してるか分からない」


 声は静かだった。


 静かだからこそ、重い。


「それ、嫌」


 彼女はそう言い切った。


 理屈としては無茶苦茶だ。僕にだって学校生活がある。沙也加がいない間に誰かと話すこともある。昼休みに一人でいることも、天雨とすれ違うことも、柊先輩に頼まれごとをされることもあるだろう。


 でも、沙也加はそれを理屈として理解した上で、感情として嫌だと言っている。


 そこが一番面倒で、一番彼女らしいところだった。


「裕二」


「うん」


「私がいない間も、私のこと考えて」


「考えるよ」


「朝、教室入ったら、私の席を見て」


「見る」


「昼休み、屋上行ったら、私がいないこと寂しいって思って」


「……努力する」


 沙也加の指が、ぎゅっと締まった。


「努力じゃなくて、そうして」


 命令だった。


 でも、その声の奥が少しだけ震えていた。


 強い独占欲と、隠しきれない不安。ツアーへ向かう白須賀沙也加の裏側で、僕から離れる時間を怖がっている沙也加がいる。その事実が、胸の奥を静かに締めつけた。


「分かった」


 僕は答えた。


「沙也加がいない時も、考える。席も見る。屋上でも、寂しいって思う」


 沙也加は、足を止めた。


 廊下の先には昇降口が見える。けれど、彼女はそこへ行かず、横の空き教室へ視線を向けた。今は使われていない教室で、放課後になるとほとんど人が来ない。鍵は開いている。文化祭の時、備品置き場として使われていた部屋だった。


 嫌な予感がした。


 いや、正確には嫌ではなかった。


 ただ、心臓が先に気づいただけだった。


 沙也加は何も言わずに、僕の手を引いた。


※ ※ ※


 空き教室の中は、夕方の光で薄く染まっていた。


 机は端へ寄せられ、黒板には以前の授業の名残らしい薄いチョーク跡が残っている。カーテンは半分だけ閉じられていて、隙間から差し込む橙色の光が床に細長く落ちていた。暖房は入っていないはずなのに、扉を閉めた瞬間、教室の空気は妙に熱を持ったように感じた。


 沙也加は手を離さなかった。


 むしろ、扉が閉まった途端、僕の手を両手で包むように握った。まるで、外の世界との境界を閉じたのを確認してから、ようやく本音を出すみたいに。


 彼女は少し俯いていた。


 長い睫毛の影が頬に落ちる。制服のリボンがわずかに揺れている。完璧なアイドルの姿勢ではない。好きな人の前でだけ形を崩せる、沙也加の姿だった。


「……キスして」


 小さな声だった。


 けれど、その一言は空き教室の中でやけにはっきり響いた。


 僕は息を止めた。


 沙也加は顔を上げない。けれど、握る手の力だけが強くなる。


「今日、ずっと我慢してた」


 彼女は続けた。


「朝から打ち合わせの資料見て、クラスの子にツアーのこと聞かれて、ちゃんと笑って、ちゃんと答えて、昼も連絡返して、午後も授業受けて」


 声が少しずつ濡れていく。


「でも、本当はずっと、今日も昨日まで裕二に触りたかった」


 その言葉で、胸の奥が熱を持った。


 沙也加は一歩近づく。


 近い。


 近すぎる。


 香りが届く。髪の匂いと、柔軟剤の匂いと、冬の外気が少し混ざった、彼女の匂い。


「机の下で手を握っただけじゃ足りなかった。電話で声を聞いても足りなかった。昨日の約束も、朝の約束も、全部嬉しかったけど、それでも足りなかった」


 彼女は顔を上げた。


 目が、危ういくらいまっすぐだった。


「だから、今して」


 お願いの形をしている。


 でも、ほとんど命令だった。


 いや、命令というより、切実な要求だった。自分でも抑えきれなくなった愛情を、もう隠す気もなく差し出している。重くて、面倒で、逃げ場がない。けれど、その全部が僕へ向いている。


 僕は沙也加の肩へ手を置いた。


 細い肩だった。


 ステージで何万人を圧倒する人とは思えないほど、近くで触れると小さく感じる。けれど、その小さな身体の中に、どれだけ大きなものを抱えているのか、今なら少しだけ分かる。


「沙也加」


「なに」


「こっち見て」


 彼女はすぐに見た。


 その瞬間、僕は彼女の頬に手を添えた。


 沙也加の目が一瞬だけ揺れる。求めていたくせに、いざ触れられると弱い。そういうところがずるいと思う。けれど、僕ももう逃げる気はなかった。


 唇を重ねた。


 最初は、静かなキスだった。


 触れるだけ。冬の空き教室で、夕陽の中に二人の影が落ちる。沙也加の唇は少し冷たくて、でも触れた瞬間に熱を持った。彼女の指が、僕の制服の袖を掴む。逃がさないためではなく、自分が崩れないために掴んでいるみたいだった。


 離れる。


 けれど、沙也加はすぐに目を開けなかった。


 唇が離れた距離のまま、彼女は小さく息を吐く。


「……もう一回」


 声が甘かった。


 甘いのに、奥に圧がある。


「一回じゃ足りない」


 僕が答える前に、沙也加は少し背伸びした。


 二度目は、彼女からだった。


 さっきより強い。まだ乱暴ではない。けれど、待てない気持ちがそのまま形になっていた。唇が重なり、彼女の手が僕の胸元へ移る。軽く掴むだけなのに、その力が熱い。


 離れると、沙也加はすぐ近くで僕を見上げた。


 頬が赤い。


 目元も少し潤んでいる。


 それなのに、口元には満たされきっていない笑みが浮かんでいた。


「まだ」


 短い。


 でも、十分だった。


 三度目は、僕からした。


 沙也加の背中へ腕を回し、少しだけ引き寄せる。彼女の身体が素直にこちらへ寄った。体温が近い。呼吸が混ざる。夕陽に照らされた教室の中で、世界の音が遠くなる。


 唇が離れるたび、沙也加は少しずつわがままになる。


「もう一回」


 また重ねる。


「まだ足りない」


 また重ねる。


「裕二、ちゃんと私だけ見て」


 また重ねる。


 何度目かで、沙也加の手が僕の背中に回った。ぎゅっと抱きついてくる。制服越しに伝わる熱が、さっきよりずっと強い。彼女は僕の胸へ額を押し当て、短く息を整えた。


 けれど、離れようとはしなかった。


「……これ、ツアー始まったらどうしよう」


「何が」


「会えない日、キスできない」


 真剣だった。


 あまりにも真剣で、思わず言葉に詰まる。


「電話で我慢しろ」


「無理かも」


「無理って」


「だって、今だって足りないのに」


 沙也加は顔を上げた。


 その目が、少し怖いくらい甘かった。


「会えない日が続いたら、次会った時、私、絶対止まれないと思う」


 重い。


 ひどく重い。


 けれど、その言葉に宿る不安と渇きが、全部僕へ向かっていることを思うと、拒むより先に抱きしめたくなった。


「その時は、受け止める」


 僕がそう言うと、沙也加は一瞬だけ固まった。


 それから、信じられないくらい嬉しそうに笑った。


「言ったね」


「言った」


「絶対だよ」


「絶対」


 沙也加はその言葉を、まるで宝物みたいに受け取った顔をした。


 そして次の瞬間、またキスをねだった。


 言葉ではなく、目で。


 ほんの少し顎を上げて、唇を近づけて、僕が気づくのを待っている。いや、待っているようで、実際には逃げ道を塞いでいる。そんな顔だった。


 僕は少しだけ笑って、応えた。


 何度も。


 短く、触れるだけのキスを。


 少し長く、互いの呼吸を確かめるキスを。


 彼女が不安を忘れるまで。


 彼女が僕の制服を掴む手から少しずつ力を抜くまで。


 夕陽が教室の床をさらに赤く染める頃、沙也加はようやく僕の胸へ顔を埋めた。


「……足りた?」


 僕が聞くと、彼女は小さく首を横に振った。


「足りない」


 即答だった。


 けれど、その声はさっきより穏やかだった。


「でも、少しだけ満たされた」


 そう言って、沙也加は僕の胸元に額を押し当てる。


「裕二」


「うん」


「ツアー中、会えなくても、私のこと忘れないで」


「忘れない」


「他の子に取られないで」


「取られない」


「私が帰ってくる場所でいて」


「いるよ」


 そのたびに、沙也加の指が僕の制服を掴む力を少しずつ緩めていった。


 最後に彼女は、僕の胸元から顔を上げた。


 夕陽を受けた目が、濡れたように光っている。


「じゃあ、最後にもう一回」


「最後って言ったな」


「今日の最後」


「明日は?」


「明日は明日で欲しい」


 筋金入りだった。


 僕は苦笑しながら、もう一度彼女へ顔を寄せた。


 沙也加は目を閉じる。


 その表情は、さっきまでの焦がれるようなものではなく、約束を受け取るみたいに穏やかだった。


 最後のキスは、長かった。


 長くて、静かで、重かった。


 全国へ向かう不安も、会えなくなる寂しさも、僕を誰にも渡したくない独占欲も、その全部を溶かして渡してくるようなキスだった。


 唇が離れたあと、沙也加は小さく息を吐いて、僕の手を取った。


 指を絡める。


 そして、当たり前みたいに言った。


「これで今日、頑張れる」


 もう放課後なのに、と思った。


 けれど、沙也加にとってはここからまた仕事なのだろう。白須賀沙也加として、ツアーへ向けて、次の打ち合わせか、練習か、取材か。何万人の前へ立つための時間が、彼女を待っている。


 その前に、彼女は僕のキスを欲しがった。


 何度も。


 足りないと言いながら。


 それで少しだけ満たされて、また白須賀沙也加へ戻っていく。


 その事実が、あまりにも重くて、あまりにも尊かった。


 空き教室の夕陽の中で、沙也加はもう一度だけ僕の手を強く握った。


 その握り方は、さっきまでの不安とは少し違っていた。


 ちゃんと捕まえた。


 ちゃんと帰る場所を確認した。


 そう言っているような力だった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

応援が次回更新の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ