まだ好きが足りない
家に帰るまでの道のりが、いつもより少しだけ長く感じた。
冬の夜は足音をよく響かせる。駅前の喧騒を抜け、住宅街へ入ると、吐息の白さと靴底がアスファルトを擦る音だけが妙に鮮明になった。街灯の下を通るたび、スマホの画面を確認する。沙也加からの追加のメッセージは来ていない。けれど、それがかえって落ち着かなかった。
待っている。
あの短い文面の向こうで、彼女はきっと待っている。
白須賀沙也加として全国アリーナツアーへ向けて走り出した彼女が、今夜だけは沙也加として、僕の声を待っている。その事実が、神崎玲音の言葉と重なって、胸の奥へ重く沈んでいた。
――沙也加が白須賀沙也加でいるために、無理して笑ってる時、ちゃんと気づいてあげて。
玲音はそう言った。
今までだって見ていたつもりだった。隣の席で、屋上で、放課後の廊下で、夜の広場で。沙也加が僕にだけ見せる顔を、僕だけが受け取っていると思っていた。けれど、同じ芸能界で彼女を見てきた玲音の言葉は、僕の認識の甘さを静かに突きつけてきた。
僕は、沙也加の重さに安心していたのかもしれない。
彼女があまりにもまっすぐ僕を求めるから、その求める力の強さばかりを見ていた。けれど、その強さの奥にある疲れや怖さや、今にも崩れそうな柔らかい部分まで、ちゃんと見えていたのか。
玄関を開け、部屋へ上がる。
コートを脱ぐより先に、スマホを手に取った。画面には、さっきの沙也加のメッセージが残っている。
『ちょっと疲れた』
『裕二の声聞きたい』
たったそれだけの文字なのに、普段の沙也加より少しだけ弱い。
僕はベッドへ腰を下ろし、通話ボタンを押した。
コール音は一度も最後まで鳴らなかった。
「裕二」
すぐに声が届いた。
その声を聞いた瞬間、さっきまで胸に溜まっていた冬の冷気みたいなものが、ほんの少しだけ溶けた気がした。
「帰った」
「うん。おかえり」
電話越しなのに、その一言は妙に近かった。
沙也加の声は、少しかすれていた。疲れている。けれど、僕と話せて安心している。そういう音だった。テレビやラジオで聞く、よく通る白須賀沙也加の声ではない。もっと低くて、もっと柔らかくて、少しだけ僕に寄りかかってくる声だった。
僕は靴下のままベッドへ身体を預け、天井を見た。
「打ち合わせ、長かったのか」
「長かった。曲順と演出と衣装と移動スケジュールと、あと取材の予定。途中から頭が紙になりそうだった」
「紙?」
「ぺらぺらになって、風で飛んでいきそうって意味」
「疲れてるな」
「うん。疲れてる」
沙也加は、珍しく素直に認めた。
いつもなら、疲れていても「でも大丈夫」と付け足す。今日もきっと付け足すのだと思った。けれど、電話の向こうの彼女はしばらく何も言わなかった。
沈黙が落ちる。
不安な沈黙ではない。けれど、軽くもない。沙也加が何かを飲み込んでいる時の沈黙だった。
「裕二」
「うん」
「私ね、今日、スタッフさんの前でずっと笑ってた」
その言葉だけで、胸が少し痛くなる。
「新しい衣装案見せてもらって、演出の説明聞いて、各会場のキャパ見て。みんなが期待してくれてるの、すごく伝わってきて。だから、ちゃんと笑って、ちゃんと答えた」
「うん」
「でもね」
沙也加の声が、ほんの少しだけ細くなる。
「帰りの車の中で、急に怖くなった」
白須賀沙也加が、怖いと言った。
全国ツアー発表の翌日に、初日の一曲目が怖いと漏らした時と同じだ。けれど今夜のそれは、もっと剥き出しだった。彼女はたぶん、今、変装も笑顔もマイクも持っていない。部屋か車の中か、どこか一人になれる場所で、僕にだけその怖さを渡してきている。
「会場、広いんだよ。東京ドームもやったのに、変だよね。今さら広いとか言うの。でも、全国を回るって思ったら、急に全部が大きくなって見えて」
声の奥で、かすかな息遣いが揺れた。
「私、ちゃんと最後まで白須賀沙也加でいられるかなって、思った」
僕は何も言えなかった。
大丈夫だと、簡単に言いたくなかった。
沙也加ならできる。たしかにそう思う。けれど、その一言だけでは、彼女が今抱えている怖さには届かない気がした。全国の会場、関係者の期待、ファンの歓声、メディアの注目。その全部を背負う彼女へ向けて、安っぽい励ましを投げるのは違う。
だから、僕は少しだけ息を整えてから言った。
「最後まで白須賀沙也加でいられなくなったら、沙也加に戻ればいい」
電話の向こうで、彼女の呼吸が止まった気がした。
「僕の前では、それでいい」
自分でも、少しだけ重いことを言っている自覚はあった。
でも、今はそれでいいと思った。沙也加の重さを受け止めるなら、僕だって軽い言葉だけで済ませてはいけない。
「ステージでは白須賀沙也加でいればいい。だけど、終わったら戻ってこい。僕のところに。怖かったことも、疲れたことも、面倒くさいことも、全部持ってきていいから」
沈黙。
長い沈黙だった。
電話が切れたのかと思うほど長かった。けれど耳を澄ませば、沙也加の小さな呼吸が聞こえていた。
「……裕二」
「うん」
「今の、録音したかった」
「やめろ」
「もう一回言って」
「言わない」
「言って。お願い」
疲れているのに、要求は相変わらず重い。
けれど、その声にはさっきまでの細さが少しだけ消えていた。甘えている。安心して、いつもの沙也加が顔を出してきている。そう思うと、拒みきれなかった。
「帰ってこい。僕のところに」
言った瞬間、電話の向こうで小さな音がした。
布が擦れるような音だった。たぶん、沙也加がベッドかソファの上で顔を伏せたのだと思う。
「……だめ」
「何が」
「好きすぎる」
言い方が、あまりにも直接だった。
「裕二、そういうこと言うと、私ほんとに帰ってくる場所そこだけでいいって思っちゃうよ」
「それでいいんじゃないのか」
「いいけど、よくない」
「どっちだ」
「だって、もっと欲しくなる」
声が低くなった。
甘く、重く、少し危うい声だった。
「今すぐ会いたくなる。会って、ぎゅってして、裕二の服の匂いして、私のことだけ見てって言いたくなる」
電話越しなのに、距離が一気に詰まった気がした。
「今日、打ち合わせ中もね、裕二のこと考えてた」
「仕事に集中しろ」
「してたよ。でも考えてた。初日の演出の話をしてる時、裕二が客席にいるところ想像した。千秋楽の出口で裕二が待ってるところも想像した。あと、終わったあとに抱きしめてもらうところも」
そこまで言って、沙也加は少しだけ黙った。
次の声は、さらに小さかった。
「その先も」
何を指しているかを、考えないようにする方が難しかった。
夜の部屋で、一人ベッドに座っているのに、耳元に沙也加の体温があるような錯覚がする。電話越しの声だけで、空気が熱を帯びる。こういうところが、この人は本当にずるい。会っていなくても、画面越しでも、声だけで距離を奪ってくる。
「沙也加」
「なに?」
「寝ろ。疲れてるんだろ」
「やだ」
即答だった。
「まだ裕二の声聞いてたい」
「明日も学校だぞ」
「知ってる。でも今切ったら、たぶん寂しくなる」
その言い方に、胸の奥が少しだけ締めつけられた。
寂しくなる。
沙也加は、それを隠さない。トップアイドルとしては決して口にしないであろう感情を、僕へは平気で差し出してくる。いや、平気ではないのかもしれない。怖いから、差し出すのかもしれない。
僕はスマホを耳に当てたまま、目を閉じた。
「じゃあ、寝るまで繋いでる」
電話の向こうで、沙也加が息を呑んだ。
「……ほんと?」
「ほんと」
「途中で寝ても?」
「寝たら切る」
「切らないで」
「充電なくなるだろ」
「充電より私」
「理不尽だな」
「私、彼女だもん」
何の理屈にもなっていない。
けれど、沙也加の中ではたぶん完全な理屈なのだろう。自分は彼女だから、スマホの充電より優先されるべき。そう本気で思っているのが、声だけで分かった。
そして、その本気が嫌ではない自分もいた。
「分かった。できるだけ繋いでる」
「できるだけ、じゃなくて」
「繋いでる」
「うん」
沙也加の声が、少しだけ満ちた。
それからしばらく、僕たちは何でもない話をした。
ツアーの衣装案が思ったより重かったこと。地方公演のMCで各地の名物を入れる案が出ていること。リハーサル用の靴を新しく作ること。振付師がかなり厳しい人で、初回から筋肉痛になりそうなこと。
話す沙也加の声には、疲労と期待が混ざっていた。
怖いのに楽しみ。
不安なのに前へ進みたい。
そういう矛盾を抱えたまま、それでも彼女は白須賀沙也加として動き始めている。その姿を想像すると、胸が熱くなると同時に、どこかで守りたいと思った。
やがて、沙也加の返事が少しずつ遅くなった。
眠気が来たのだろう。
声がとろりと柔らかくなる。
「裕二」
「うん」
「明日、学校で会ったら、最初に私見て」
「いつも見てるだろ」
「もっと」
「もっと?」
「教室入ったら、誰より先に私を見て。それで、机の下で手、触って」
重い。
眠くなっても重い。
「朝からか」
「朝から。じゃないと、今日の分足りない」
「今日電話してるだろ」
「声だけじゃ足りない。ほんとは触りたい」
最後の方は、ほとんど寝言みたいだった。
けれど、だからこそ本音に近かった。
「裕二の手、好き」
「そうか」
「指も、声も、匂いも、全部好き」
だんだん危ないことを言い始めている。
けれど、止められなかった。
沙也加の声が、眠気と独占欲でとろけている。普段ならからかうところなのに、今夜はなぜか黙って聞いていたかった。
「沙也加」
「ん……」
「明日、ちゃんと見るよ」
「うん」
「手も触る」
「うん」
「だから寝ろ」
「……裕二」
「なに」
「好き」
短い言葉だった。
その二文字だけで、通話の向こうの部屋まで見える気がした。ベッドの中でスマホを耳に当て、目を閉じかけながら、それでも最後に僕へその言葉を置いてくる沙也加の姿が。
「僕も好きだよ」
返すと、少しだけ笑ったような息が聞こえた。
そのあと、彼女の声は途切れた。
寝息だけが、かすかに残る。
僕はしばらく通話を切れなかった。
画面には通話時間だけが増えていく。耳元には、国民的トップアイドルの寝息がある。明日も仕事で、学校で、ツアー準備で、何万人の前に立つための会議に追われる人が、今は電話越しに僕の声を聞いたまま眠っている。
その事実が、どうしようもなく重かった。
そして、どうしようもなく尊かった。
※ ※ ※
翌朝、教室へ入った瞬間、僕は一番に沙也加を見た。
約束通りだった。
彼女はすでに席に座っていた。机の上には教科書が開かれていて、周囲にはクラスメイトが数人いる。全国ツアーの話題はまだ尽きていないらしく、彼女はいつもの白須賀沙也加として、明るく、丁寧に、完璧に応じていた。
けれど、僕が教室へ入った瞬間だけ、彼女の目がこちらへ動いた。
一秒。
いや、今日は二秒だった。
その目が、昨夜の電話の続きを求めていた。
僕は席へ向かい、鞄を置く。そのまま何食わぬ顔で椅子に座った。
机の下で、沙也加の指が待っていた。
約束した通りに、僕はその指へ触れた。
ほんの一瞬だけ。
けれど、それだけで沙也加の肩から、見えない力が少し抜けたのが分かった。彼女はクラスメイトと話しながら、表情を少しも崩さない。崩さないまま、机の下で僕の指を捕まえた。
離さない。
朝の教室で、誰にも見えない場所で、白須賀沙也加は僕の指を握っている。
表では国民的トップアイドル。
裏では、昨夜「声だけじゃ足りない」と眠りかけの声で言った女の子。
その両方が同時にここにいた。
そして僕は、今朝の彼女の指の冷たさと、握り返してくる力の強さで、彼女がどれだけ僕を必要としているのかを知る。
ホームルームのチャイムが鳴る直前、沙也加が前を向いたまま、小さく唇を動かした。
「足りた?」
声にはならなかった。
けれど、僕には読めた。
僕も小さく首を横に振る。
足りるわけがない。
すると沙也加は、一瞬だけ目を伏せて、ひどく嬉しそうに笑った。
その笑顔は、誰にも見せない種類のものだった。
朝の教室の机の下で、彼女の指がもう一度だけ強く絡む。
全国ツアーへ向かう白須賀沙也加は、今日も完璧に笑う。
けれど、その完璧を支えるために、沙也加は僕の指を離さない。
その重さごと、僕は受け止めるのだと思った。
たとえそれが、これからもっと深く、もっと面倒で、もっと逃げ場のない愛になっていくのだとしても。
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