同業者として
白須賀沙也加の全国アリーナツアー開催が正式に発表されてから、三日が経った。
その日の昼休み、僕は一人で屋上にいた。
冬の屋上は、音が少ない。
夏のように熱気が床から立ち上ることもなく、秋のように風が心地よく髪を撫でることもない。ただ冷たく、乾いた風がコンクリートの上を滑っていく。フェンスの向こうに見える空は高く澄んでいて、雲の輪郭だけがやけにくっきりしていた。
以前なら、この場所には自然と誰かがいた。
天雨が静かに隣へ立っていたり、沙也加が当然のように僕へ身を寄せてきたり。気づけば一人でいる時間の方が珍しくなっていたはずなのに、今日は本当に誰もいない。
それが、どこか心地よかった。
同時に、妙に寂しかった。
矛盾していると思う。けれど、この感覚はたぶん、今の僕の正直な心境だった。誰かの重い感情に巻き込まれずに済む静けさは楽だ。けれど、その重さに慣れてしまった後だと、何も絡みついてこない時間は、少しだけ物足りなくもある。
僕はベンチに腰を下ろしたまま、スマホの画面を見つめていた。
映っているのは、白須賀沙也加の全国アリーナツアー公式サイトだった。
黒を基調にしたツアービジュアル。銀色の照明の中で、こちらを射抜くように見つめている沙也加。日程表には、全国の都市名と会場名がずらりと並んでいる。東京、名古屋、大阪、福岡、札幌。その文字列を追っているだけで、彼女がこれからどれだけ大きな場所へ向かっていくのかが、嫌でも分かった。
きっと今頃、沙也加はマネージャーやスタッフ、関係者たちと打ち合わせをしているのだろう。
曲順、演出、衣装、移動、学校とのスケジュール調整。
僕が昼休みにおにぎりを食べている間にも、彼女は白須賀沙也加として、何万人の前に立つ準備をしている。
天雨も、たぶんどこかで自分の時間を過ごしているはずだ。誰かと一緒かもしれないし、一人で静かに何かをしているのかもしれない。彼女はもう僕と沙也加の関係を知っている。それでも感情を消さないまま、自分の中で整えて、静かに立っている。
それぞれが、自分の場所で動いている。
その中で、僕だけが屋上に置いていかれたような感覚があった。
けれど、その孤独の奥で、沙也加の言葉がよぎる。
――終わったら裕二のところに戻ってくる。
あの時の沙也加は、少し拗ねたような顔で、けれど目だけは真剣だった。
彼女は遠い場所へ行く。
全国を回り、何万人もの歓声を浴び、テレビやネットニュースの中で、今よりさらに大きな白須賀沙也加になっていく。
それでも、戻ってくると言った。
僕のところへ戻ってくると、当然のように言った。
沙也加の愛は重い。
独占欲も強い。
面倒くさいし、時々どうしようもなく理不尽だ。僕が少し他の誰かを見ただけで、不満そうな顔をする。メッセージが遅れれば拗ねる。会えない日が続けば、文章の端々から甘さと不安と圧が滲む。
けれど、今なら分かる。
その重さは、彼女が僕を“帰る場所”にしている証でもある。
なら、今の僕の役目は決まっている。
沙也加がどれだけ遠くへ行っても、戻ってこられる場所でいること。
彼女が白須賀沙也加として全力で走り抜けた後、息を吐ける場所でいること。
それは、ただ待つだけよりずっと重いことなのかもしれない。
僕は手に持っていたおにぎりを食べ終え、包みを畳んだ。冷えた指先で弁当袋を片付ける。冬の風が一度強く吹いて、公式サイトを映したスマホの画面に、僕のぼんやりした顔が映った。
情けない顔をしているな、と思った。
でも、逃げたい顔ではなかった。
そのまま屋上を出ようと立ち上がった時、スマホが震えた。
一通のメッセージ。
差出人を見て、僕は少しだけ眉を動かした。
神崎玲音。
『今日の夕方、時間空けといて』
それだけだった。
用件も場所もまだない。けれど、彼女らしい短さだった。沙也加のように感情をそのまま押しつけてくる文面ではない。天雨のように静かに予告する文面でもない。神崎玲音は、必要な言葉だけを置いて、こちらが来ることを当然のように見越している。
数秒後、もう一通届いた。
『駅前のカフェ。場所送る』
添付された地図を見て、僕は小さく息を吐いた。
どうやら、今日の放課後も静かには終わらないらしい。
※ ※ ※
放課後、僕は指定された駅前のカフェへ向かった。
駅から少しだけ離れた細い通りの奥に、その店はあった。大通りのチェーン店のような明るさはない。看板も控えめで、よほど意識して歩かないと見落としてしまいそうな場所だった。外から見える窓には淡い照明が反射していて、店内の様子ははっきりとは分からない。
知る人ぞ知る店。
まさにそんな雰囲気だった。
店の前で待っていたのは、サングラスと帽子で顔を隠した女子だった。
けれど、その立ち方だけで分かった。姿勢が綺麗すぎる。周囲へ溶け込もうとしているのに、逆に妙な存在感が出ている。沙也加とは違う種類の、芸能界の人間が持つ空気だった。
「来てくれてありがとう、沢渡」
「急に呼び出して、なんだ? 玲音さん」
神崎玲音はサングラスを少しだけ下げて、僕の顔を確認するように見た。
それから、ふっと笑う。
芸能界で見せる笑顔ではない。もっと近くて、もう少しだけ素の混じった笑い方だった。
「立ち話もなんでしょ。入ろ」
そう言うと、玲音は僕の手首を軽く引いた。
その動作は自然だった。自然すぎて、逆に警戒が遅れる。沙也加のように所有を確認する握り方ではない。天雨のように逃げ道を塞ぐ触れ方でもない。けれど、距離を詰めることにためらいがないのは、やはりこの人も同じだった。
カフェの中は、外観以上に落ち着いた雰囲気だった。
低めの照明。木目の濃いテーブル。壁に飾られた古い映画ポスター。カウンターの奥では、無口そうな店主がグラスを磨いている。客は数人だけで、全員が自分の時間に沈んでいるように見えた。誰もこちらへ過剰な関心を向けてこない。
芸能人が身を隠すには、たしかにちょうどいい場所だった。
「ここ、私のお気に入りなんだよね」
玲音は奥の席へ腰を下ろしながら言った。
「出てくるもの、全部ちゃんと美味しいし。あと、余計な詮索をしない」
そう言って、帽子とサングラスを外す。
変装を解いた神崎玲音は、やはり目を引く人だった。沙也加のような圧倒的な華ではなく、もっと静かで艶のある存在感。学校の中にいたら浮く。街の中でも浮く。だからこういう薄暗いカフェの奥に座って、ようやく少しだけ景色に馴染む。
玲音はメニュー表を手に取ると、僕の方へ差し出した。
「好きなの選んで。今日は私が呼んだから奢る」
「別にそこまでしなくていい」
「いいの。こういう時くらい年上ぶらせて」
その言い方に、少しだけ苦笑する。
僕がメニューを受け取ると、玲音は変装道具を鞄へしまい、それからまっすぐ僕を見た。
さっきまでの軽さが、そこで少し消えた。
「最近、沙也加の様子はどう?」
いきなり本題だった。
僕はメニューを見る手を止めた。
「沙也加の様子か……」
口にしてから、すぐに答えられない自分に気づく。
近くで見ているはずだった。
誰よりも近い場所にいるつもりだった。
けれど、いざ問われると、僕の中に出てくる言葉は曖昧だった。
沙也加はいつも通りだ。学校では完璧な笑顔を見せ、クラスメイトに囲まれても明るく返し、授業中は真面目にノートを取り、放課後になればツアー資料へ目を落とす。メッセージは相変わらず重いし、電話では甘えてくる。僕の前では疲れも弱音も少し見せる。
けれど、それだけで本当に見えているのだろうか。
白須賀沙也加という人間は、苦労していない顔をするのが上手すぎる。
平気な顔をする。
大丈夫な顔をする。
完璧な顔をする。
その全部が上手すぎて、近くにいても時々見誤りそうになる。
「少し……いや、普通にキツそうな感じがする」
僕は正直に言った。
「でも、どこまでキツいのかは、正直分からない。沙也加は、そういうの隠すのが上手いから」
玲音は、それを聞いて静かに頷いた。
「そっか。まぁ、そうだよね」
予想していた答えだったのだろう。
玲音は店員を呼び、コーヒーとケーキを注文した。僕も同じものを頼む。注文を終えると、彼女はテーブルの上で指を組み、少しだけ視線を落とした。
「全国ツアーってね、業界でも選ばれた人間にしか回ってこない話なの」
声が、少し低くなる。
「ドラマで主演を張るとか、CMが何本も決まるとか、そういうのとはまた別の重さがある。自分の名前で、各地の会場を埋めるってことだから」
玲音の言葉には、実感があった。
外側から見ているだけの僕とは違う。彼女は同じ芸能界にいる人間として、その重さを知っている。
「ましてやアイドルの全国アリーナツアーなんて、稀の稀よ。東京ドームを成功させたからこそ、沙也加はそこまで行けた。でも、そこまで行けたってことは、今度はその期待を背負って全国を回らなきゃいけないってことでもある」
玲音はそこで、僕を見た。
視線が、真剣だった。
「たぶん、今の沙也加は嬉しい。ものすごく嬉しいはず。でも同じくらい、怖いと思う」
その言葉に、胸の奥が静かに重くなる。
沙也加は怖いと言っていた。
初日の一曲目で空気を掴めなかったら、その後全部に響く、と。
僕の前でそう言った時の横顔を思い出す。
「沙也加は、怖いって顔を人前では見せないわ。見せたとしても、見せてもいい相手にしか見せない」
玲音は淡々と言う。
「だから、今一番近くにいる沢渡が見てあげて」
その声には、友人としての優しさだけではない、もっと切実なものがあった。
「私や他の子たちより近くで見てきたあなたが。沙也加が白須賀沙也加でいるために、無理して笑ってる時、ちゃんと気づいてあげて」
言葉が、胸に落ちる。
僕は自然と背筋を伸ばしていた。
「分かった」
短く答える。
それ以上の言葉は、今は余計な気がした。
沙也加を誰よりも近くで見られるのは、たぶん僕だ。彼女がそれを望んでいるのも分かっている。なら、その場所にいる人間として、目を逸らしてはいけない。
「もしかして、それだけを言いに来たの?」
僕がそう聞くと、玲音は少しだけ肩の力を抜いた。
「そうよ」
あっさりしたものだった。
「少しでもあなたを沙也加の隣に置いておかないと、沙也加がダメになりそうだから」
「ダメになるって」
「なるわよ、あの子」
玲音は即答した。
「強いけど、脆いところもある。完璧だけど、完璧でい続けるための支柱が必要なタイプ。今の沙也加にとって、その支柱があなただってこと」
支柱。
その言葉は、思っていたより重かった。
沙也加が戻ってくる場所でいること。
その心構えをすること。
屋上で自分に言い聞かせたことが、玲音の言葉で別の形になって返ってきた気がした。
「……ありがとう、玲音」
僕は自然にそう言っていた。
玲音は、一瞬だけ目を丸くした。
それから、少しだけ視線を逸らす。
「そんなことないわよ。あんたたちの友人として、当たり前のことを言っただけ」
「それでも、気にかけてくれて嬉しい。助かる」
僕がそう言うと、玲音はカップへ手を伸ばした。
まだ運ばれてきていないことに気づいて、少しだけ気まずそうに手を引っ込める。その仕草が、妙に年相応だった。
「……沢渡」
「うん?」
「言っとくけど」
玲音は、今度こそ真正面から僕を見た。
その目に、さっきまでの友人としての真剣さとは違う色が宿る。
「私、まだあんたのこと諦めたわけじゃないからね」
カフェの空気が、ほんの少しだけ変わった。
低い照明の下で、玲音の瞳だけが静かに光っている。沙也加ほど露骨に独占してこない。天雨ほど静かに囲い込んでもこない。けれど、玲音にも玲音の重さがある。
諦めていない。
そう言葉にすることで、僕の中へ自分の存在を残そうとしている。
その感情は、軽くない。
「そこのとこ、忘れないで」
僕はすぐには返事ができなかった。
沙也加を選んだ。
それは変わらない。
けれど、選ばれなかった側の気持ちが綺麗に消えるわけではないことを、僕はもう何度も思い知らされている。天雨も、柊先輩も、そして今の玲音も。
「……忘れないよ」
僕がそう答えると、玲音は少しだけ笑った。
満足したというより、最低限の爪痕は残した、という顔だった。
「ならいいわ」
そのタイミングで、注文したコーヒーとケーキが運ばれてきた。
玲音は何事もなかったようにフォークを取る。けれど、さっきの言葉はもうテーブルの上から消えなかった。甘いケーキの香りと、苦いコーヒーの湯気の間に、まだ静かに残っている。
その後、僕たちは少しだけ他愛のない話をした。
沙也加のツアー発表後の業界の反応。玲音自身の仕事の話。最近見た映画の話。話題は普通だったが、時々彼女の言葉の端に、僕と沙也加を気にかける温度が滲んだ。
そして時々、僕自身へ向けられる未練のようなものも。
カフェを出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
駅前の灯りが冬の夜に滲み、人の流れが白い息を連れて動いている。玲音は店の外でサングラスをかけ直し、帽子を少し深く被った。さっきまでの神崎玲音が、再び芸能界側の人間の姿へ戻っていく。
「沢渡」
「なに?」
「沙也加のこと、ちゃんと見てあげて」
念押しだった。
「うん」
「それと」
玲音は一拍置く。
「沙也加ばっかり見すぎて、私のこと忘れたら怒るから」
最後だけ、少し冗談めかしていた。
けれど、全部が冗談ではないことは分かった。
「難しい注文だな」
「できるでしょ。あんた、変なところで律儀だし」
玲音はそう言って、片手を軽く振った。
「じゃあね」
「ああ、また」
彼女の背中が人混みの中へ消えていく。
僕はしばらく、その場に立っていた。
今日、玲音が言ったことは、たぶん全部本当だ。
沙也加は強い。
けれど、その強さは無限ではない。
白須賀沙也加でいるために、彼女はきっと見えないところで何度も息を詰めている。全国ツアーという大きな舞台へ向かうほど、その重さは増していく。
そして、その重さを最も近くで受け止める役目が、僕にある。
スマホが震えた。
画面を見ると、沙也加からだった。
『今日、帰ったら電話できる?』
『ちょっと疲れた』
『裕二の声聞きたい』
玲音の言葉が、胸の中で静かに繋がる。
僕はすぐに返した。
『できる』
『帰ったらかける』
既読はすぐについた。
少し間を置いて、沙也加から返信が来る。
『待ってる』
『早く帰ってきて』
帰ってきて。
その言葉の重さが、今日はいつもよりはっきり分かった。
僕はスマホを握ったまま、駅へ向かって歩き出した。
冬の夜の風は冷たい。
けれど、帰ったら電話の向こうで沙也加が待っている。
白須賀沙也加として全国へ向かう準備をしながら、沙也加として僕の声を待っている。
その事実を胸に抱えながら、僕は少しだけ足を速めた。
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