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軽い気持ちで国民的アイドルと友達になったら、周りの美少女達から激重感情をぶつけられる件――え!? トップアイドルの君まで!?  作者: 沢田美


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全国ツアー

 沙也加の全国ツアーが、正式に発表されたのは、それから数日後のことだった。


 朝、学校へ向かう電車の中でスマホを開いた瞬間、ニュースサイトの見出しが目に飛び込んできた。


 ――白須賀沙也加、来春より初の全国アリーナツアー開催決定。


 文字だけなら、ただの芸能ニュースだ。けれど、その文字の向こう側にいる人間を僕は知っている。冬の夕暮れに「結婚したあとに事を円滑に進めるため」なんて冗談みたいな本気を言って、黒塗りの車へ乗り込んでいった女の子を知っている。ステージの上で何万人を魅了する人間が、学校の屋上では僕の手を自分から取りにくることも知っている。


 だから、そのニュースを見た瞬間、胸の奥に浮かんだのは単純な驚きではなかった。


 ああ、本当に始まるんだ。


 そんな実感だった。


 全国三十公演以上。主要都市のアリーナを巡る大規模ツアー。追加公演の可能性あり。記事にはそう書かれていた。写真には、昨夜解禁されたばかりらしい新しいアーティストビジュアルが載っている。黒を基調にした衣装に、銀色の装飾。照明の中でこちらを見据える白須賀沙也加は、僕の知っている沙也加とはまるで違う顔をしていた。


 鋭く、強く、美しい。


 誰かの隣で手を温めてもらう女の子ではなく、何万人もの視線を真正面から受け止めるために生まれたようなアイドルだった。その写真を見ているだけで、周囲の電車の音が一瞬遠くなった。僕の彼女は、本当に遠い場所へ行ける人なのだと思った。そしてその遠い場所から、それでも帰ってくる場所として僕を選んでいるのだと考えた瞬間、スマホを握る指に少しだけ力が入った。


※ ※ ※


 教室へ入ると、いつもより少しだけ空気が違っていた。


 ざわついている。けれど、文化祭前の浮ついたざわめきとも、特番翌日の感想大会とも違う。もっと大きなものが教室の中へ入り込んできた時のざわめきだった。原因は、言うまでもない。白須賀沙也加の全国ツアー。クラスのあちこちで、その話題が飛び交っていた。誰かがスマホを見せ合い、誰かがチケット取れるかなと騒ぎ、誰かがうちのクラスにいるのほんと意味わかんないよなと笑う。沙也加はその中心にいた。いつも通りの制服姿で、いつも通りの席の周辺にいるだけなのに、その周囲だけ明らかに注目の密度が違っていた。


 僕が席へ向かうと、沙也加はすぐにこちらを見た。


 一秒。いつもの一秒より、少しだけ長かった。その目の奥に、昨日までとは違う光がある。嬉しさも、緊張も、誇りも、少しの不安も、全部がひとつの場所に押し込められているような目だった。


 けれど次の瞬間には、彼女はクラスメイトへ向ける笑顔に戻る。


「そうなの。来年の春からだから、まだ少し先なんだけどね」


 声も表情も完璧だった。大きな発表の翌日。普通なら多少浮ついてもおかしくないのに、沙也加はもう白須賀沙也加としての顔でそこにいた。喜びすぎず、謙遜しすぎず、応援してくれる人たちへきちんと感謝を返す。そういう距離感を、彼女は呼吸のようにやってのける。それを見て、改めて思う。この人は、本物なんだと。


 僕が席へ着くと、机の下で何かが触れた。


 沙也加の指先だった。クラスメイトに囲まれながら、彼女は僕を見ていない。見ていないのに、机の下では僕の指先を探り当て、ほんの少しだけ触れてきた。その接触は短かった。短いけれど、十分だった。


 ――見て。ちゃんと私を見て。


 言葉にされなくても、そう言われている気がした。


 僕は机の下で、彼女の指へほんの少しだけ触れ返した。その瞬間、沙也加の笑顔が、本当にわずかにやわらかくなった。クラスメイトの誰も気づかないくらいの変化だった。けれど、僕には分かる。その微細な変化を受け取れる場所に、今の僕はいる。


※ ※ ※


 昼休み、沙也加は珍しく屋上へ来なかった。


 代わりに、昼食を取る間も惜しむように、事務所のマネージャーと電話をしていた。校舎の人通りが少ない階段の踊り場で、声を落として、けれど表情だけは鋭く集中している。


 偶然通りかかった僕は、数歩手前で足を止めた。


「はい。初日の演出は、あの曲を一曲目にする案で大丈夫です。でも、千秋楽の構成はもう少し変えたいです」


 沙也加の声は落ち着いていた。学校で友達と話す時の明るさでも、僕の前で甘える時の柔らかさでもない。白須賀沙也加として、プロの現場で意見を伝える声だった。


「地方公演ごとにMCの内容は変えます。定型文だけだと、その土地に来た意味が薄くなるので」


 その言葉に、息を呑んだ。ただツアーをするだけじゃない。ただ歌うだけじゃない。彼女はすでに、全国の各地で待っているファンの顔まで考えている。会場の大きさ、演出、曲順、MC、その全部に自分の意志を入れようとしている。


 トップアイドルとして、大きくなろうとしている。


 それは、隣の席でサンドイッチを半分こする女の子とは違う顔だった。けれど、違うからこそ眩しかった。


 通話を終えた沙也加は、スマホを胸元へ下ろして、短く息を吐いた。その横顔には少しだけ疲れが見えた。けれど、それ以上に楽しそうだった。大きなものへ向かう人間だけが持つ、怖さと期待が混ざった顔だった。そこでようやく、沙也加は僕に気づいた。


「裕二」


「ごめん。盗み聞きするつもりはなかった」


「いいよ。裕二なら」


 それは、あまりにも自然に言われた。裕二なら――その四文字だけで、彼女の中の線引きが分かる。見られてもいい、聞かれてもいい、むしろ自分がこうして大きな仕事へ向かっているところを、僕には見ていてほしいのだろう。


 沙也加は階段の手すりに背を預けた。ほんの少しだけ疲れた顔で、でも目だけは強い。


「発表、見た?」


「見た」


「どうだった?」


「すごかった」


「それだけ?」


「……遠いところへ行くんだなって思った」


 言ってから、少しだけ後悔した。それは、彼女にとって重い言葉になりかねない。案の定、沙也加は目を細めた。


「遠くなんて行かないよ」


「でも、全国回るんだろ」


「物理的にはね」


 沙也加はそう言って、一歩近づいてきた。階段の踊り場。昼休みの終わりにはまだ少し早く、人通りは少ない。それでも完全に誰も来ないわけではない場所だ。そこで、彼女は迷いなく僕の制服の袖を掴んだ。


「私は、ちゃんと戻ってくる。初日も、千秋楽も、その間の公演も、全部白須賀沙也加として行く。でも、終わったら裕二のところに戻ってくる」


 その言葉には、冬の夕暮れに聞いた約束と同じ重さがあった。


「だから、遠いって言わないで。遠いって言われると、寂しくなる」


 トップアイドルが、全国ツアー発表の翌日に、学校の階段の踊り場でそんなことを言っている。この落差を、もう笑えない。


「悪かった。――どこにいても、僕のところに戻ってくる人だ」


 沙也加は、一瞬だけ動きを止めた。それから、袖を掴んでいた指に力を込める。


「……そういうの、急に言うのずるい」


「沙也加の要求だろ」


「そうだけど、ずるいものはずるい」


 彼女はそう言いながら、ほんの少しだけ額を僕の腕に近づけた。触れるか触れないかの距離で止まる。学校だから。誰かが来るかもしれないから。ちゃんと分かっている。それでも、近づかずにはいられない。その我慢の仕方まで、最近の沙也加は重かった。


「ねえ、裕二。ツアーのリハ、始まったら忙しくなる。学校に来ても眠そうにしてるかもしれないし、連絡が変な時間になるかもしれない。電話、したいって急に言うかも。会いたいって言ったら?」


「できるだけ会う」


 沙也加は、そこでようやく少しだけ笑った。確認事項に丸をつけているみたいな笑顔だった。


「じゃあ大丈夫。私、頑張れる」


 その一言は、とても単純だった。単純なのに、胸に残る。何万人もの前に立つ人間が、自分の恋人からの約束で頑張れると言う。その重さを、簡単に受け取ってはいけないのだと思った。けれど、受け取らないという選択肢もなかった。


※ ※ ※


 放課後の教室で、沙也加はもう仕事の資料を広げていた。


 普通の生徒なら教科書や問題集を出す時間に、彼女の机には分厚い台本、セットリスト案、スケジュール表、各地の会場図が並んでいる。もちろん表紙は無地で、外から見れば何の資料か分からないようになっていた。教室にはもうほとんど人がいなかった。夕方の光が窓から差し込み、机の上の紙に斜めの影を落としている。沙也加はシャープペンを持ったまま、真剣な顔で紙面を見つめていた。


 その横顔は、教室の中にいるのに、もうステージの方を見ていた。


 時々小さくメモを書く。曲順の横に矢印を入れ、MC案の余白へ言葉を書き足し、スタッフからの注意事項らしい欄へ丸をつける。書いて、止まり、少し考えて、また書く。その動きは静かだったが、迷いがなかった。白須賀沙也加は、ただ与えられた場所へ立つだけのアイドルではない。自分のステージを、自分で作ろうとしている。


「そんなに見る?」


 不意に言われた。顔を上げると、沙也加がこちらを見ていた。仕事用の鋭い目から、少しだけ僕の彼女の目へ戻っている。


「集中できない。でも、見ててほしい」


「どっちだよ」


「集中はできないけど、見られてると頑張れる」


 めちゃくちゃだった。けれど、沙也加らしかった。彼女は資料の端を指で押さえたまま、少しだけ身体をこちらへ傾けた。


「ここ、初日の一曲目。本当は怖いよ。一曲目で空気を掴めなかったら、そのあと全部に響くから」


 そんな弱音を、沙也加は僕の前では隠さない。それが、少しだけ誇らしかった。トップアイドルとしては決して簡単に見せられない不安を、僕の前ではこうして机の上へ置く。それは甘えでもあり、信頼でもあり、彼女なりの重い愛情でもある。


「沙也加なら大丈夫だよ」


「雑」


「でも本心。――初日の一曲目に新曲を持ってくるなら、相当勝負なんだろ。でも、沙也加はそういう場所で逃げない人だと思う。怖いって言いながら、ちゃんと真正面から立つ人だから。それに、歌い終わったあとに一秒目を伏せるところまで、ちゃんと見る」


 沙也加の手が止まった。ゆっくり顔を上げた時、耳が赤くなっていた。


「……またそんな事言う」


「あの一秒が大事なんだろ」


「大事だけど、言われると変になる。――好きが増える」


 直球だった。あまりにも直球すぎて、今度は僕の方が言葉に詰まった。沙也加は満足そうに少しだけ笑うと、机の下で僕の手を探ってきた。指先が触れる。そのまま、握る。


 資料の上では全国ツアーの予定が広がっている。机の下では、彼女の手が僕を離さない。


 その二つが同時に存在していることが、今の白須賀沙也加そのものだった。世界へ向かう白須賀沙也加と、僕の手を握っていないと少し不安になる沙也加。その両方が、同じ温度でここにいる。


「裕二。初日、来てね。千秋楽も。途中も、来られるところ全部」


「たくさん行く」


 その言葉を聞いた瞬間、沙也加の指がぎゅっと強くなった。それで満足したらしい。彼女はもう片方の手でシャープペンを持ち直し、再び資料へ目を落とす。けれど、握った手は離さなかった。片手でツアー資料へ書き込みながら、もう片方の手で僕を捕まえている。


 それがあまりにも沙也加らしくて、笑いそうになった。でも笑うのをやめた。


 今の彼女は、本気で戦っているのだ。これから始まる全国ツアーという大きな舞台に向かって。三千万人の視線と、何万人もの観客と、スタッフや関係者の期待の全部を背負って。それでも、僕の手を握ることで少しだけ息を整えながら。


 その姿は、重くて、面倒で、どうしようもなく尊かった。


※ ※ ※


 数日後、沙也加のツアー告知動画が公開された。


 放課後の教室で、一人になってからスマホで再生した。画面の中には、黒いステージを歩く沙也加がいた。照明が背後から差し、彼女の輪郭を銀色に縁取っている。カメラが寄る。沙也加がこちらを見る。その視線だけで、画面越しに空気が変わった。


 告知映像は短かった。けれど、その短い時間の中に、来年始まる大きな物語の匂いが詰まっていた。都市名が次々に表示され、アリーナ名が流れ、最後にツアータイトルが浮かぶ。"白須賀沙也加 全国アリーナツアー"。その文字を見た時、教室の静けさが一段深くなった気がした。


 スマホが震える。沙也加からだった。


『見た?』


 相変わらず早い。


『見た。かっこよかった』


『かっこいいだけ? かわいくなかった?』


 面倒くさい。本当に面倒くさい。けれど、こういうところまで含めて、沙也加だった。


『かっこよくて、かわいかった。あと、遠かった』


 送ってから、しまったと思った。数秒後、返信が来る。


『遠くない。裕二のところに戻るから。だから遠いって言わないで』


 昼休みと同じだった。彼女は、遠いと言われることを嫌がる。トップアイドルとして大きくなることと、僕から遠ざかることを同じ意味にされたくないのだろう。


『じゃあ、遠くまで行っても戻ってくる人』


 今度は少し間が空いた。それから、短い文面が届く。


『正解。だから待ってて。初日も、千秋楽も、その先も』


 その先。ツアーの先にある未来まで、沙也加はもう当然みたいに僕を置いている。重い。相変わらず重い。けれど、画面の中で何万人の前へ立とうとしている白須賀沙也加と、スマホ越しに遠くないと拗ねる沙也加が同じ人間であることが、今はもう不思議ではなかった。


 窓の外を見た。冬の夕陽が、校舎の壁を赤く染めている。来年の春、沙也加は全国へ行く。それでも、彼女が戻ってくる場所を間違えないように、僕はここにいるのだろう。そう思うと、胸の奥が静かに熱くなった。


 スマホがまた震える。


『あと、今日も帰ったら電話したい。ツアーの話したい。裕二の声聞きながら資料見たい。だめ?』


 だめなわけがなかった。


『いいよ』


『好き』


 その二文字だけで、冬の教室が少しだけあたたかくなる。重い愛が、画面の向こうからまっすぐ届いた。その重さを受け止めながら、スマホを伏せた。


 白須賀沙也加は、来年の春、全国へ羽ばたく。


 けれどその前に、今日の夜、僕の声を聞きながらツアー資料を眺めるのだ。遠くへ行く準備をしながら、手元の一番近い場所へ僕を置こうとする。


 そういう人だった。


 そして僕は、そんな彼女の重さを、もう少しも手放したいとは思わなかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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