これも未来のためだよ
「沢渡くん、私ね、今、とても幸せなんだよ」
人気のない放課後の廊下で、沙也加はそう言って、僕の手をゆっくりと握った。
恋人らしく指を絡める、というよりは、そこに確かに在るものを確かめるような握り方だった。失くしたくないものを、自分の手の中へちゃんと収めておくための力加減。強すぎないのに、離す気がないと分かる。細い指先の温度の奥に、白須賀沙也加という女の子が僕へ向けている、どうしようもなく重たい愛情が静かに滲んでいた。
廊下の窓から差し込む冬の夕陽が、沙也加の横顔を柔らかく照らしていた。
笑っている。
けれど、それはテレビの中やステージの上で見せる、誰にでも等しく降り注ぐ完璧な笑顔ではなかった。今この瞬間、自分の手の中にある幸福を噛み締めるように味わっている時の顔だった。少しだけ目尻が緩んで、唇の端がやわらかく上がっている。誰かを魅了するための笑みじゃない。たった一人へ向けて、自分が満たされていることを隠しきれない女の子の笑顔だった。
その顔を見ていたら、不意に、ひどく馬鹿げた考えが頭を過った。
――このまま行き着く先は、結婚だったりするのだろうか。
自分でも呆れるくらい早い発想だった。付き合い始めてまだそう長くもないくせに、相手があまりにもまっすぐ未来まで含めて僕を欲しがってくるせいで、思考の方まで引っ張られているのかもしれない。
そんなことを考えていた時だった。
沙也加が、じっと僕の顔を見ていた。見透かすみたいな目だった。国民的トップアイドルとして何万人もの人間の表情を読んできた人間の目だ。僕みたいな一般人が内心を少し揺らしたくらいでは、たぶんすぐに気づかれてしまう。
「ねぇ、裕二。今、何考えてたの?」
「あ、いや……その、何でもない」
とっさにはぐらかした。まさか結婚のことを考えていた、なんて口にできるほど、僕の心臓は強くできていない。口にした瞬間、たぶんこの人は今日一日じゃ済まないくらい喜ぶ。その喜び方が容易に想像できるからこそ、余計に言えなかった。
案の定、沙也加は少しだけ怪しむように目を細めた。けれど追及はしなかった。追及しない代わりに、握った手にほんの少しだけ力を込める。その"今は逃がしてあげるけど、あとでちゃんと回収するからね"みたいな沈黙が、いかにも沙也加らしかった。
「まぁ、いいか。他の女の子のこと考えてる顔じゃなかったし」
その一言が、軽くない。さらっと言うくせに、その判定基準がきっと彼女の中には細かくいくつもあるのだろう。僕の視線の揺れ方や、返事の間や、目元の緩み方まで全部見た上で、それじゃないと判断している。重い。けれど、その重さが今は妙に温かかった。
沙也加は僕の手を握ったまま、少しだけ視線を前へ流した。人気のない廊下に、冬の夕陽が床へ長く伸びている。窓の外では部活動へ向かう生徒たちの声が遠く聞こえていて、ここだけが少し切り離されたみたいに静かだった。
「……私たち、これから先どうなるんだろうね」
今度の声は、さっきより少しだけ低かった。
「もし週刊誌とかにバレたら、やばそうだし。それが原因で裕二と離れることになるの、嫌だな」
その言葉には、トップアイドルとしての現実がそのまま混ざっていた。僕とこうして手を繋いで歩くだけで、本当なら十分危ういのだ。彼女がどれだけ大きな存在で、どれだけ多くの人間に見られているのかを思えば、この恋は最初からずっと綱渡りの上にある。
それでも、僕の中に迷いはなかった。
「ならないよ。たとえ僕たちの関係が知られたとしても、僕が責任を持って守る」
格好つけたつもりは少しもなかった。ただ本当のことを言っただけだった。今の僕にとって、沙也加はもう替えのきかない存在だ。重くて、面倒で、逃がしてくれなくて、それでもどうしようもなく大事な人だった。だったら守る以外の選択肢なんて、最初からない。
沙也加は、その言葉を聞いて、すぐには何も言わなかった。
ただ、僕の手をぎゅっと握った。さっきまでの確認するような握り方ではなかった。もっと直接的な喜びと、安心と、それでもまだ足りない欲しさとが全部混ざった握り方だった。冬の廊下で、彼女の指先だけが妙に熱かった。
それから、沙也加は少しだけ視線を逸らし、耳まで赤くしながら小さく笑った。
「うん、ありがと。……その時は、裕二が責任持って、私と結婚しよ」
息が止まりかけた。
さっき自分が心の中で考えたことを、そのまま目の前の女の子が口にしてくる。この人は本当にずるい。いや、ずるいというより、たぶんまっすぐすぎるのだ。欲しい未来を欲しいまま口にできる。自分の幸せの形を、遠慮なく僕の前へ差し出してくる。
普通なら、そこで茶化すべきだったのかもしれない。けれど、今の沙也加の目を見てしまったら、それはできなかった。
「ああ、任せろ」
口をついて出たのは、そんな言葉だった。自分でも驚くくらい自然に、そう言っていた。
沙也加の目が、一瞬だけ大きく揺れた。それからすぐに、頬を染めたまま、どうしようもなく嬉しそうに笑った。完璧なトップアイドルの顔ではない。好きな人から欲しい言葉をもらってしまった、ただの女の子の顔だった。
そんな会話をしているうちに、僕たちは昇降口へ着いていた。
靴へ履き替えて、外へ出る。夕暮れだった。冬独特の乾いた寒さが、頬と耳へ一気に刺さってくる。吐いた息が白く広がった。
「さむ……」
沙也加はそう言って、両手に息を吐いた。小さく肩を竦めながら、指先を自分の吐息であたためようとする。その仕草が、ステージの上では決して見られないほど無防備で、少しだけ幼く見えた。
僕は、その手を自然に取った。
沙也加の手は、思ったよりあたたかかった。さっき自分の息であたためていたせいかもしれない。あるいは最初から、僕と同じくらい、少しだけ火照っていたのかもしれない。
校門が近づいた頃、沙也加がふと口を開いた。
「なぁ」と僕が言おうとしたのと、ほぼ同時だった。
「なに?」
「いつか、本当の意味で結ばれるとしたら……沙也加の両親は、どう思うんだろうな」
沙也加は、少しだけ目を丸くした。そのあとすぐ、からかう前の顔になった。
「うーん、別に否定はしないと思うよ。そんなに心配なら、会ってみる? 私の両親に」
「いいのか」
「いいよ。結婚する時に円滑にことを進めるためには、お互いの両親に挨拶しないとだしね♡」
完全にからかっていた。からかっているのに、半分以上は本気だと分かってしまうのが、白須賀沙也加という女の子の一番厄介なところだった。軽口みたいに未来の話をするくせに、その未来へ本気で手を伸ばしている。
僕はそんな顔を見て、少しだけ笑った。それから、彼女の頭へ手を置いた。さらりとした髪を、撫でる。軽く、でも逃がさないように。
「そうだな」
沙也加は一瞬だけ目を見開いた。次の瞬間には、耳まで赤くして、ほんの少しだけ唇を尖らせた。
「……その返しは少しずるい」
「こっちもやられっぱなしは癪だからな」
「なにそれ」
口ではそう言うくせに、沙也加は嫌がらなかった。むしろ、撫でられたところへ自分から頭を少しだけ押しつけてきた。重い。重いけれど、その重さが、今はひどく愛おしかった。
やがて、黒塗りの車が見えてくる角の手前で、沙也加が足を止めた。
振り向いた。その目が何を望んでいるのかは、もう言葉にしなくても分かった。
周囲を一度だけ確かめた。人気がない。夕暮れの校舎裏に近い一角で、通行人の気配もない。
僕は一歩近づいて、沙也加の体を抱き寄せた。そのまま、唇を重ねる。
最初は触れるだけの柔らかさだった。冬の冷気の中で、触れ合った部分だけが少しずつ熱を持ち始める。短く済ませるつもりだったのに、沙也加はすぐに離れようとしなかった。腕の中で、彼女の体がぴたりとこちらへ沿ってくる。薄いコート越しに伝わる体温が、夕方の冷気とは種類の違う熱さで、じわりと肌に滲んでくる。
離れたくない、と、全身で言っていた。
次の瞬間、沙也加の舌先が、僕の唇の縁をゆっくりとなぞった。
誘うみたいに。開かせようとするみたいに。あるいは、さっきの"結婚"という言葉の続きを、もっと別の熱でなぞり直すみたいに。
息が、浅くなった。
僕はほんのわずかに唇を開いて、そのまま深く受け入れた。沙也加の舌が、ゆっくりと入り込んでくる。甘くて、温かくて、それでいてどこか焦れているような動き方だった。肩へ回された腕の力が強くなる。コートの生地が引っ張られて、沙也加の吐息が僕の口の中に溶けた。二人分の白い息が、唇を離すたびに夜の空気へ消えていく。舌と舌が触れ合うたびに、思考の端がじわじわと溶けていく感覚があった。
何秒だったか、分からなかった。
時間の感覚が曖昧になるくらいには、甘くて、深くて、離しがたかった。
ようやく唇が離れた時、お互いの口から唾液の細い糸が引く。沙也加は少しだけ乱れた呼吸のまま、ひどく満足そうに笑っていた。頬が赤い。唇が、さっきより色づいている。艶やかで、綺麗で、そして間違いなく人を狂わせる種類の顔だった。
「これも、結婚したあとに円滑に進めるための予習だから」
息を整えながら、そんなことを言う。
「今のうちにやっとかないとね」
「……ノーコメントで」
「えー、なにそれ」
不満そうに唇を尖らせる。けれど、その目の奥は完全に上機嫌だった。沙也加はそのまま、今度は僕の頬へ軽いキスを落とした。
「じゃあね」
その声音は、さっきまでの甘ったるい空気を少しだけ名残として残しながら、それでも仕事へ戻る前の白須賀沙也加の声へ近づいていた。
黒塗りの車のドアが開く。彼女は最後に一度だけ僕を見て、それから乗り込んだ。扉が閉まり、車は静かに走り出す。その姿が角を曲がって見えなくなるまで、僕はそこに立っていた。
冬の夕暮れの中に、一人残る。
吐いた息が白く広がって消えていく。唇にも、頬にも、まだ沙也加の熱が残っていた。あの満足そうな笑みも、結婚だの挨拶だのと平気で未来を口にする重たさも、舌先から伝わってきた甘さも、全部がそのまま残っている。
重い、と思う。
重いくせに、少しも手放したいと思わなかった。
僕は残った熱を逃がさないように、少しだけ足早に帰路へついた。冬の夜が降りてくる前の街を歩きながら、さっきまで腕の中にいたトップアイドルのぬくもりを、ひどく大事なものみたいに抱えたまま。
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