トップアイドルはどにいても重い
特番は、思っていた以上だった。
冒頭から白須賀沙也加の名前がテロップで流れるたびに、スタジオの空気が変わる様子が画面越しにも伝わってきた。司会者が「今夜のゲストは」と言い終える前に、客席から歓声が上がっていた。そういう人だ、と改めて思った。名前を呼ばれる前から、存在を予感させる人だ。
画面の中の沙也加は、完璧だった。
インタビューのコーナーで見せる笑顔も、トークの受け答えも、歌のパフォーマンスも、全部が精密に、それでいて自然に組み上がっていた。カメラが寄った瞬間の表情の作り方、歌い上げる直前の一瞬の静けさ、マイクを持つ手の角度まで、何もかもが計算されているのに、計算の跡が見えない。
さっきまであの広場で、マフラーに顔を埋めながら「まだ足りてない」とメッセージを送ってきた人間と、今テレビ画面の中にいる人間が、同じ存在だということを、頭では分かっていても、感覚がついていかなかった。
クライマックスのシーンは、特番の後半に来た。
新曲の披露だった。タイトルは事前には発表されていなかったらしく、スタジオの空気が一瞬だけ静まり返った。沙也加がマイクを持って、ステージの中央へ歩いていく。照明が一段落ちて、スポットライトだけが沙也加を照らした。
歌い始めた瞬間、画面の前でも空気が変わった気がした。
それは単純に上手い、という話ではなかった。届けようとしている、という気配が、画面を通してでも伝わってくる。誰かに向けて歌っている、その方向性みたいなものが、音の中に紛れ込んでいた。スタジオの観客も、おそらくそれを感じたのだろう、途中から静かになっていた。歓声ではなく、聞き入る静けさだった。
歌い終わった後、沙也加は一度だけ目を伏せた。
その一秒が、カメラに収まっていた。伏せた睫毛の下で、何かを確かめているような、あるいは誰かに届いたかを確認しているような、そういう一秒だった。
スタジオが、割れるような歓声で満ちた。
僕はリモコンを手に持ったまま、その歓声が収まるのを待って、スマホを手に取った。
『見た。クライマックス、ちゃんと届いた』
それだけ送った。
既読がついたのは、三分後だった。
返事は一行だけだった。
『よかった。裕二に届いたなら、もう何もいらない』
その一行の重さを、夜の部屋で一人、ゆっくりと受け止めた。
※ ※ ※
特番の翌日、学校に来た沙也加は、いつも通りの白須賀沙也加だった。
昨夜のパフォーマンスについて、クラスメイトたちが口々に話しかけてくる。見た、感動した、新曲がやばかった、という言葉が、教室のあちこちから沙也加へ向かっていった。沙也加はその全部を、完璧な笑顔で受け取っていた。
僕が席に着くと、沙也加はちらりとこちらを見た。
一秒だった。その一秒の中に、昨夜のメッセージのやり取りと、広場でのキスと、足りてないという言葉が、全部詰まっていた。それだけで、沙也加はまたクラスメイトの輪に戻っていった。
ホームルームが始まる直前、机の下でこっそり沙也加の指が僕の手首に触れた。
「昨夜のメッセージ、嬉しかった」
「声が小さい。聞こえないふりするぞ」
「もう聞こえてるでしょ」
確かに聞こえていた。聞こえていながら、聞こえていないふりをするという選択肢は、今の僕には存在しなかった。それが付き合うということだと、この二ヶ月弱で学んだ。
担任が入ってきて、沙也加の指が離れた。
離れ際に、もう一度だけ手首に触れて、それから離した。未練を込めた離し方だった。
※ ※ ※
昼休み、購買でパンを買って教室へ戻ろうとした廊下で、沙也加に捕まった。
廊下の角を曲がった瞬間に、人影が立っていた。帽子もマスクも何も着けていない、素の沙也加が、廊下の壁際に立って腕を組んでいた。この角は人通りが少ない。沙也加はそれを計算して待っていた。
「待ってたの?」
「待ってた」
「何分くらい」
「五分くらい。でも、待つのは嫌いじゃないから」
購買に向かう僕の行動パターンを把握したうえで、このタイミングで待ち伏せをしていた。それが当たり前のように言えるこの人と、毎日隣の席に座っている。
沙也加は腕を組んだまま、僕の方へ一歩だけ近づいた。廊下の壁際だから、距離が詰まると逃げ場がなくなる構造になっている。自覚してやっているのが、沙也加の目の動きで分かった。
「昨夜の新曲、どう思った? ちゃんと聞いた?」
「聞いた。昨日届いたって送っただろ」
「それだけじゃ足りない。もっと詳しく」
「詳しく言える語彙がない」
「語彙がなくてもいい。感じたことを言って」
沙也加が、壁に背を預けて、上目遣いで僕を見た。学校の廊下でその顔を向けてくるのは、あまりにも無防備というか、戦略的すぎるというか、どちらかを判断する前に胸の奥が反応してしまう。この人のずるさは、無自覚ではない。
「歌い終わった後に、一秒だけ目を伏せた」
「うん」
「あの一秒が、全部だと思った」
沙也加は、少しだけ目を見開いた。
それから、壁から背を離して、一歩だけ踏み出してきた。廊下の壁際で、僕と沙也加の距離が、二十センチくらいになった。パンの袋を持った手が行き場をなくした。
「よく分かったね」
「分かる」
「なんで」
「毎日隣で見てるから」
沙也加は、少しだけ俯いた。俯いた顔の耳が、廊下の照明の下で赤くなっているのが見えた。あれだけのパフォーマンスをテレビで何十万人に見せた人間が、廊下で二十センチの距離から言われた一言で耳を赤くしていた。
「それ、ずるい」
「何がずるいんだ」
「そういうこと言うの、ずるい」
その言葉の意味は、言葉通りではなかった。毎日隣で見ているから分かる、という一言の中に含まれている全部が、ずるいということだった。三千万人が見ているパフォーマンスの、誰も気づかない一秒を、隣の席の男が当たり前のように受け取っている、その事実がずるい、ということだった。
「あの一秒」
沙也加が、顔を上げた。
「裕二に届いてるかなって、確かめてた」
廊下の外から、昼休みのざわめきが聞こえてきた。どこかのクラスから笑い声が漏れてきた。そういう普通の学校の昼休みの音が、壁一枚隔てた向こうで続いている。こちら側では、国民的トップアイドルが廊下の壁際で、三千万人のフォロワーではなく、隣の席の一人に届いたかを確かめていた、と告白していた。
「届いてた」
それだけ言った。
沙也加は、もう何も言わなかった。ただ、廊下の壁際で、スポットライトの代わりに蛍光灯に照らされながら、微かに笑っていた。三千万人が知っているあの笑顔じゃなくて、もっと小さくて、もっと素の笑顔だった。
「お昼、一緒に食べよ」
「屋上行くか」
「うん。でも、少し遠回りして」
「遠回り?」
「今すぐ離れたくないから」
廊下の角、購買のパンを持ったまま、沙也加の隣で足が止まった。遠回りをするという話だったのに、沙也加はまだ動く気配がなかった。壁際で、肩だけをこちらへ寄せてきた。コートではなく制服のブレザー越しに、沙也加の肩の熱が伝わってくる。
廊下の角で、二人分の気配が、蛍光灯の下に静かに溶けていた。
※ ※ ※
屋上には、冬の陽射しが斜めに差し込んでいた。
夏の陽射しと違って、低い角度から来る冬の光は、伸びた影を長く地面に落とす。手すりの影が、屋上の床に細い縞模様を作っていた。風は少し強かった。沙也加がコートを着ていない分、冷たさがもろに当たるはずだったのに、沙也加は平然としていた。
「寒くないのか」
「寒いけど、裕二の隣だから」
「それは理論的ではない」
「好きな人の隣が暖かいのは、科学的事実だから」
どこで覚えてきたのかわからない理論を、自信満々に言い切れるのが沙也加だった。否定する気力が湧かなかったので、放置した。
二人で手すりの近くに並んで腰を下ろして、それぞれのパンを開けた。沙也加が持ってきたのは、購買のものではなく、袋に入ったサンドイッチだった。見た目が綺麗すぎて、購買で売っているものではないことが一目で分かる。
「どこで買ったんだ、それ」
「事務所の人が朝、差し入れしてくれたやつ。でも一人で食べるのもったいないなって思って、裕二と半分こしたかった」
「それは普通に嬉しいな」
「でしょ。はい」
沙也加は、サンドイッチのひとつを、当然のように僕に差し出してきた。その手が、少しだけ冷たかった。やっぱり寒いのに、認めたくないらしかった。
沙也加の手を、そのまま包んだ。
サンドイッチを受け取りながら、包むような形になった。沙也加は一瞬、動きを止めた。それから、包まれた手を引き抜かずに、そのままにしていた。
「……暖かい」
「だろ」
「ずるい」
「またずるいか」
「裕二は、だいたいずるい」
沙也加は、手を包まれたまま、もう一方の手でサンドイッチを開けた。食べながら、遠くに見える冬の空を眺めていた。その横顔が、昨夜の特番の中で見たどの表情よりも、素に近かった。
風が、屋上を一度だけ強く吹き抜けた。
沙也加の髪が乱れて、頬にかかった。沙也加は空いた手で髪を直そうとして、包まれている手を引き抜こうとした。引き抜こうとして、止まった。
「……髪、直せない」
「直してあげようか」
「……お願いしてもいい?」
珍しく、遠慮がちな聞き方だった。
手を一度離して、沙也加の頬にかかった髪を、指でそっとどかした。沙也加は、されるままにしていた。目を伏せて、されるままにしているその顔が、昨夜のパフォーマンスの後の一秒と、同じ種類の静けさを持っていた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
沙也加は、また僕の手を取った。今度は自分から取りに来た。指と指を絡めるようにして、手のひら同士が合わさった。
「ね、裕二。来年のツアー、全部で三十公演以上になりそうで」
「三十以上か」
「うん。全国回るの、楽しみなんだけど、裕二に会えない日が増えるのが嫌で」
沙也加の声に、素直な感情が混じっていた。楽しみだけど嫌だ、という矛盾を、整理せずにそのまま吐き出してくる。この人のそういう部分が、三千万人のフォロワーには見えていない部分だった。
「ツアー中も、毎日連絡するよ」
「毎日じゃ足りないかもしれない」
「何回がいいんだ」
「裕二が送ってきてくれた分だけ、私も返す。だから、裕二が何回送ってきてくれるかによる」
それは事実上、制限なし、ということだった。
「一日五件くらいは送れると思う」
「じゃあ私も五件返す。プラス、自分から送りたい時は別にカウントするから、実際はもっと多くなるかもしれない」
「多くなるのが既定路線なのか」
「だって、会えない間も、裕二のことが頭から離れないから」
遠くの校庭から、体育の笛の音が届いてきた。風がまた一度、屋上を吹いていった。沙也加の指が、絡めた手にもう少しだけ力を込めた。
三十公演以上の全国ツアー。会えない夜が何十日も続いて、一日五件のメッセージと、沙也加からの「別カウント」が積み重なっていく。その先の千秋楽で、出口で待っていてと言われている。
重いのは、分かっていた。
分かっていて、その重さを今から引き受けようとしている自分がいた。逃げたいとは、少しも思わなかった。
「ね、裕二」
「うん」
「私のこと、好き?」
昼休みの屋上で、冬の陽射しを斜めに受けながら、沙也加は確認してきた。三千万人のフォロワーを持つ人間が、隣の席の男に、好きかどうかを確認してくる。
「好きだ」
「どのくらい?」
「重さで言えば、沙也加と同じくらいか、少し軽いかもしれないけど」
「少し軽いのは許さない」
「そうか」
「私と同じくらい重くて」
「努力する」
「努力じゃなくて、そうなって」
命令形だった。
沙也加は、絡めた手を引き寄せて、僕の肩に頭を預けてきた。屋上の床に二人の影が伸びて、頭を預けた沙也加の影が、僕の影に完全に重なった。さっきより影の濃度が増していた。この人と並んでいると、影までくっついてくる。
「裕二が、私と同じくらい重くなってくれたら、世界で一番幸せになれると思う」
「世界一は言い過ぎだろ」
「言い過ぎじゃない。三千万人のフォロワーがいても、裕二一人の方が重いから」
その一言の意味を、隣で噛み砕いた。
三千万人よりも、一人の方が重い。それは数字の話ではなかった。種類の話だった。三千万人が向けてくる視線と、一人が向けてくる視線は、全然違う場所から来ている。沙也加はその違いを、ちゃんと言葉にしていた。
肩の上で、沙也加の体温が伝わってきた。
チャイムまで、あと少しだけ時間があった。
冬の屋上で、二人の影が重なったまま、その時間が静かに過ぎていった。
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