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軽い気持ちで国民的アイドルと友達になったら、周りの美少女達から激重感情をぶつけられる件――え!? トップアイドルの君まで!?  作者: 沢田美


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最後まで私を見て

 冬の夜は、あっという間に深くなる。


 広場の街灯一本が、二人分の影を石畳に落としていた。沙也加の影が、僕の影に少し重なっていた。重なった部分だけ、影の濃度が増している。そういう細かいことが、妙に目に入るようになったのは、この人と付き合い始めてからだった。


 沙也加は、腕を絡めたまま動かなかった。


 動かないどころか、少しずつ、肩を僕の腕に預けてくる体重が増えていた。帽子のつばが僕の肩に当たって、コートの袖越しに沙也加の体温が伝わってくる。街灯の光が、沙也加の帽子のつばをぼんやりと照らしていた。


「眠い?」


「眠くない。ただ、こうしてたい」


 それだけだった。理由も説明もなく、ただこうしていたい、と言える人だった。今更驚くことでも何でもないのに、その直接さが、この人の核心だと、何度でも思わされる。


 遠くで、商業施設の閉店を知らせる音楽が流れてきた。柔らかいオルゴールの音が、冬の夜気に溶けていく。時刻は、もう八時を回っていた。事務所の迎えが来る時間まで、あと三十分もなかった。


 それを沙也加も知っているはずなのに、動く気配がなかった。


 沙也加が、ふっと息を吐いた。白い吐息が、夜の空気に広がって消えた。


「ね、裕二。私のファン、今何人くらいいると思う?」


「正確には知らないけど、相当な数だろ」


「公式の数字で言ったら、SNSのフォロワーだけで三千万超えてる」


 三千万、という数字が、夜の広場の空気の中に落ちた。落ちて、その重量をじわじわと発揮してくる。三千万。東京の人口を超える数の人間が、白須賀沙也加という人間を見ている。そのうちの一人が今、僕の腕に頭を預けて、閉店音楽を聞いていた。


「それだけの人が、私のことを見てる。歌を聞いてる。笑顔を見てる。でもね」


 沙也加は、帽子のつばを少しだけ持ち上げて、空を見た。


「その三千万人の誰一人も、裕二みたいには見てもらえない」


 その言葉が、じんわりと胸の奥に沁みてきた。


 沙也加が言っているのは、ファンとの距離感の話ではなかった。三千万人が見ている白須賀沙也加と、今ここで腕を絡めている沙也加は、同じ人間でありながら、全然違う場所にいる。三千万人が見ているのは、ステージの上の完璧な光だ。僕が見ているのは、その光が消えた後の、街灯一本の明かりの中でだらしなく肩を預けてくる、この顔だ。


「重いな、それ」


「だから言ったじゃん。私、重い女だって」


「それは知ってる」


「嫌?」


「嫌じゃない」


 沙也加は、鼻で小さく笑った。


 そのまま、また肩に頭を預けてきた。さっきより少しだけ深く、もたれてくる体重が増した。コートに顔を埋めるような格好になって、沙也加の声がくぐもった。


「裕二さ、私のライブ、ちゃんと全部観に来てくれる?」


「全部は難しいかもしれないけど、できる限りは」


「できる限りじゃなくて、全部来てほしい」


「それは無理な要求だ」


「むー」


 唸り声が聞こえた。子どもみたいな声だった。三千万人のフォロワーを持つ国民的トップアイドルが、冬の夜の広場で、彼氏の腕に顔を埋めながら唸っていた。その落差を、今更ながら笑えない自分が、この半年以上でできあがっていた。


「でも、来年の全国ツアー、初日と千秋楽は来て」


「それは約束する」


「本当に?」


「本当に」


 沙也加は、頭を預けたまま、少しだけ動いた。僕の腕を絡めていた沙也加の腕の力が、ぎゅっと強まった。ぬいぐるみでも抱きしめるような、力任せの抱き方だった。コートの生地が引っ張られて、冬の冷気が首元から入ってくる。それでも、振りほどく気にはなれなかった。


「千秋楽のあとさ」


「うん」


「絶対、最初に裕二の顔が見たいから、出口で待っててね」


 ライブの千秋楽。何万人もの観客の歓声を全身で受け止めて、最後の曲を歌い終えて、幕が下りた後に、最初に見たい顔として、僕の顔を指定してくる。その言葉の重量が、どれほどのものか、分かっているのかいないのか、沙也加の声は穏やかだった。穏やかすぎて、かえって重かった。


「分かった」


「約束ね」


「約束だ」


 沙也加は、満足した気配を漂わせながら、今度は頭を持ち上げた。


 僕の顔を、下から覗き込んでくる。街灯の光が、沙也加の目に当たって、水面みたいに揺れていた。付き合い始めてから何度もこの目を見てきたのに、見るたびに少しだけ違う重さがある。今夜の目は、いつもの独占欲や執着とは少しだけ違って、もっと深い場所から来ているものが混ざっていた。


「裕二」


「なに」


「キスしていい?」


「今日、もう一回したいのか」


「したい。いつでもしたいし、何回でもしたい」


 堂々としていた。欲しいものを欲しいと言える人間の、迷いのない声だった。三千万人の前では笑顔を計算できる人間が、今この瞬間だけは、何も計算していない顔をしていた。


 僕が黙っていると、沙也加はもう待つ気がなかったらしく、少しだけ背伸びをして、唇を重ねてきた。


 さっきより深かった。さっきは触れるところから始まったのに、今回は最初から深い。沙也加の手が、コートの前を掴んで、引き寄せてくる。冬の夜気の中で、触れ合った部分だけが熱を持っていた。唇が離れる瞬間に、沙也加の吐息が白く広がった。


 頬が赤かった。


 寒さのせいか、それとも別の理由か、あるいは両方か。


「満足したか?」


「全然」


「それは困る」


「じゃあもう一回」


「もう一回はだめだ」


「なんで」


「時間がない」


 沙也加は、抗議するような顔をした。それから、スマホを取り出して時刻を確認して、眉をひそめた。事務所の迎えまで、もう十分となかった。


「あと少しだけ」


「あと少し、がないんだ」


「裕二がケチだから」


「ケチじゃない。常識的だ」


「つまんない」


 唇を尖らせながら、沙也加は僕の腕から自分の腕を引き抜いた。引き抜く時に、少しだけ名残惜しそうな引き方だった。コートの袖を、最後に一度だけ指先で掴んで、それから離した。


 帽子を被り直して、マフラーを口元まで上げる。変装モードに戻った沙也加が、冬の夜の広場に立っている。


 その姿が、明日のゴールデンタイムの特番に映る白須賀沙也加と、同じ人間だということを、今夜もまた現実として受け止めることになった。


「裕二、今夜の特番、絶対リアルタイムで見てよ」


「見るって言った」


「言ったけど、念押し」


「念押ししなくても見る」


「見てる最中、感想をリアルタイムで送ってきてくれたら嬉しいな」


「それはリアルタイムで送るのは難しい」


「最後のシーンだけでもいい。クライマックスのシーン、私、頑張ったから」


 沙也加の声に、少しだけ本音が混じった。ステージに立つ時と、カメラの前に立つ時と、この人はいつも本気を持っていく。その本気を、誰よりも近くで知っている人間に、見ていてほしいと言っている。それだけのことだった。それだけのことなのに、その重さを軽く受け取れなかった。


「見る。クライマックスのシーン、ちゃんと見て、ちゃんと感想を送る」


 沙也加は、マフラーの上から、口元が動いているのが分かった。笑っているのだと、目の形で分かった。


「じゃ、また明日」


「また明日」


 沙也加は、広場から出ていった。


 商業施設の方向へ歩く背中を、僕は見送った。街灯の光の輪を抜けたところで、沙也加の姿が夜の暗さに溶けかけて、それでも歩き方だけは消えなかった。あの歩き方は、どんな変装でも隠しきれない。何万人の前に立って磨き上げてきたものが、冬の夜の路地を歩く時にも出てくる。そういう人だった。


 背中が見えなくなって、しばらく、その場に立っていた。


 広場には、また一人になった。街灯一本の光と、遠くの商業施設の音楽と、白い自分の吐息だけが、冬の夜に残っていた。


 スマホを取り出して、時刻を確認した。


 今夜の特番まで、あと三時間もなかった。


 クライマックスのシーンを頑張った、と言っていた沙也加の声が、耳の奥に残っていた。三千万人が見るテレビ画面の中で、白須賀沙也加として全力を出しきった沙也加が、画面の向こうにいる。その沙也加と、さっきまでここで腕を絡めていた沙也加が、同じ人間だ。


 重い、と思う。


 重いけれど、その重さを手放したいとは少しも思わなかった。


 家への帰り道、銀杏並木の枯れ枝が冬の夜空を分断するように伸びていた。その枝の隙間から、星がいくつか見えた。冬の星は鋭い光をしていた。来年の春、全国ツアーが始まれば、沙也加の日常はさらに大きくなる。何万人もの観客の前に立つ夜が、今より何倍も増える。それでも沙也加は、千秋楽の後に、最初に僕の顔が見たいと言っていた。


 その言葉の意味を、歩きながらゆっくりと噛み砕いた。


 どれだけ大きな舞台に立っても、帰ってくる場所として、僕を指定しているということだ。それが、白須賀沙也加という人間の、いちばん正直な部分だった。


 家に着いて、コートを脱いで、部屋のベッドに腰を下ろした。


 スマホに、沙也加からメッセージが届いていた。


『無事に帰れた?』


 帰れた、と返すと、すぐに既読がついた。


『よかった。今夜の特番、楽しみにしてて』


 もう一件続いて届いた。


『あと、さっきのキス、まだ足りてないから、また今度続きお願いします』


 遠慮というものが、この人には存在しない。


 苦笑いしながら画面を閉じて、テレビのリモコンを手に取った。特番まで、あと二時間と少し。その時間のあいだ、沙也加は収録済みの映像の中で、今夜も何万人もの前に白須賀沙也加として立っている。


 重くて、面倒くさくて、逃がしてくれない。


 それでもやっぱり、軽いのは嫌いだった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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