見えてきた目標
沙也加と付き合い始めて、一ヶ月以上が過ぎようとしていた時、僕はいつも通り学校に登校していた。文化祭も終わり、季節もすっかり秋から冬になっていた。
通学路の銀杏はとうに葉を落としていて、剥き出しになった枝が冬の青空に向かって伸びていた。白い息が口元に広がる朝の空気は、夏の終わりや秋口の頃とは比べ物にならないくらい冷たかった。それでも、教室に着いて沙也加の横顔を見た瞬間だけは、胸の内側から熱が湧いてくる感覚があった。
国民的トップアイドルと付き合っている、という事実は、日常の中に紛れているようで、ふとした瞬間に突然その重さで現れる。スマホに届く沙也加からのメッセージが、バラエティ番組のテロップで流れる「白須賀沙也加」の文字と同じ人物から送られてきたものだ、と実感した瞬間がそうだった。朝のホームルームで隣に座っている女の子が、今夜のゴールデンタイムの特番にメインキャストで出る、という事実がそうだった。
付き合い始めてからの沙也加は、学校では完璧に内緒を守り続けていた。
誰に対しても愛想よく、誰に対しても等しく明るく、白須賀沙也加としていつも通りだった。ただ、僕にだけは違った。朝、僕が席に着く瞬間だけ、一秒か二秒、アイドルの笑顔ではない顔になる。その一秒の中に、昨夜送ってきた長い長いメッセージの温度が、全部詰まっていた。
問題は、その一秒が、日を追うごとに少しずつ長くなっていることだった。
沙也加は、自分で言っていた通り、付き合い始めてからもっと面倒くさくなっていた。
※ ※ ※
その日の放課後、沙也加から連絡が入ったのは、下校のチャイムが鳴る十分前だった。
『今日、仕事が早く終わった。どこかで会えない?』
続けて、もう一件。
『会いたい』
それだけだった。飾りがなかった。言い訳も前置きも何もなく、ただ会いたいと書いてあった。この四文字の直接さが、沙也加という人間のいちばん正直な部分だと、最近よく思う。
待ち合わせ場所は、学校から少し離れた商業施設の一角に決まった。芸能人がよく使う、目立ちにくいフロアのカフェだった。
沙也加はすでに来ていた。
帽子を深く被って、大きめのコートを着て、マフラーを口元まで引き上げていた。完璧な変装のはずなのに、僕には一瞬で分かった。椅子への腰の下ろし方と、コーヒーカップの持ち方が、沙也加だと言っていた。この半年以上、毎日隣で見てきた仕草だった。
僕が席に着くと、沙也加はマフラーを少しだけ下ろして、笑った。アイドルの笑顔ではなく、僕にだけ向ける顔だった。
「来てくれてありがとう」
「急だったけどな」
「ごめん。でも、どうしても会いたくて」
謝りながら全然悪びれていない顔で言うから、こちらは何も言えなくなる。沙也加はそれを知っていてやっている。付き合い始めてから、そのことがよく分かるようになった。
ドリンクが届いて、しばらく他愛のない話をした。今日の収録の話、共演した俳優の癖の話、スタジオの弁当が珍しく美味しかった話。沙也加の話す芸能界の日常は、聞くたびに僕の日常とかけ離れていて、それでいて沙也加が話すと不思議と遠く感じない。この人が生きている世界の話だから、と思うと、どんな話でも自然に耳に入ってきた。
話の途中で、沙也加の手がテーブルの上に伸びてきた。
僕の手の甲に、沙也加の指先が重なった。触れるだけの、力の入っていない触れ方だった。けれど、離す気がないことは、その指先の温度で分かった。
「今日ね、収録が押してた時、早く終わらないかなってずっと思ってた」
「仕事に集中しろよ」
「裕二のことを考えながらでも、ちゃんと仕事できるから大丈夫」
堂々と言うな、と思いながら、手を引く気にはなれなかった。
沙也加の指が、僕の手の甲をゆっくりとなぞった。確かめるような、それでいてどこか甘えているような動き方だった。カフェの照明が低めに落とされていて、周囲に人の気配はあるけれど、この席だけ少し切り離されたような空気がある。
「ね、裕二」
「なに」
「今日の特番、見てくれる?」
「見るよ」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
「リアルタイムで?」
「リアルタイムで」
沙也加は、それを聞いて満足そうに目を細めた。テレビに映る自分を、特定の誰かにリアルタイムで見ていてほしい――その感情は、国民的トップアイドルとしてではなく、ただの女の子としての感情だった。何万人ものファンが同時に見ているはずのテレビ番組を、僕一人が見ていることを、沙也加はこんなに嬉しそうに確認してくる。
「感想、送ってね。放送終わったらすぐ」
「分かった」
「でも私、収録終わりでヘトヘトだから、返事は遅くなるかも」
「それはいい」
「でも裕二からのメッセージは絶対読むから。寝る前に読んで、嬉しくなって眠れなくなるかもしれないけど」
その言い方が可愛いと思う自分が、まだ少し恥ずかしかった。
※ ※ ※
カフェを出たのは、外がすっかり暗くなった頃だった。
冬の日暮れは早くて、五時を過ぎるともう夜の色が空を占領している。商業施設の明かりが、暗くなった外の空気の中で輪郭を持って浮かんでいた。沙也加は帽子のつばを深く下ろして、マフラーを口元まで引き上げた。それでも、隣を歩くその存在感は消えなかった。どれだけ変装しても、沙也加には歩き方の美しさが残る。意識していない時ほど、その美しさが際立った。
施設の外の、人通りの少ない路地へ出ると、沙也加は自然な動作で僕の腕に自分の腕を絡めてきた。コートの袖越しに、沙也加の体温が伝わってきた。
「寒い」
「コート着てるだろ」
「着てても寒いの。裕二の隣だと暖かい」
理屈になっていなかったけれど、指摘しなかった。
路地を少し進んだ先に、人目のない小さな広場があった。街灯が一本だけ立っていて、その光が冬の夜気の中で丸く滲んでいる。ベンチが二つ、誰もいなかった。
そのまま広場の方へ引き込まれる形になって、気づくと二人でベンチの前に立っていた。沙也加は腕を絡めたまま、僕の顔を下から覗き込んでくる。
「ねえ」
「なに」
「今日の収録でね、ラブシーンがあったの」
「……そうなのか」
「うん。でもね、共演者の人と近い距離になるたびに、なんか変な感じがして」
沙也加は、絡めていた腕にもう少し力を込めた。
「裕二じゃないから、って思った。変かな」
「変じゃない」
「ほんとに?」
「ほんとに」
沙也加は少しだけ間を置いて、それから静かに言った。
「じゃあ、上書きしていい?」
冬の夜の広場で、街灯の光だけが二人の間を照らしていた。沙也加の目が、街灯の光を受けて、水面みたいに揺れていた。
僕が答える前に、沙也加の手が僕のコートの胸元をそっと掴んだ。引き寄せる、というほどの力ではなかった。ただ、掴んだ。離さないという意思だけを、その指先で伝えてきた。
唇が、重なった。
冬の空気が、二人の吐息を白く変えていく。沙也加の唇は、外の冷たさを吸っていたはずなのに、触れた瞬間から熱かった。最初は触れるだけの柔らかさで、それから少しずつ深くなった。コートの胸元を掴んでいた沙也加の指が、今度は背中に回ってくる。引き寄せる力が、さっきよりずっと確かだった。
やがて唇が離れた時、沙也加の吐息が白く空気に溶けた。
頬が、冬の夜の中でも赤かった。
「上書き、できた」
「できたのか」
「うん。でもね」
沙也加は、僕の胸元に額を押し当てたまま言った。
「一回じゃ足りないかも」
「それは重い」
「知ってる。でも、こういうの慣れてきたでしょ」
否定しようとして、できなかった。慣れてきたかどうかはともかく、こうなることをどこかで予期していた自分がいたのは確かだった。
沙也加は額を押し当てたまま動かなかった。コート越しに沙也加の体温が伝わってくる。マフラーの端が僕の手に触れて、沙也加の使っている柔軟剤の匂いがかすかに届いた。
「裕二」
「うん」
「仕事、大変な日とかあるじゃん。ファンの人たちに見られて、取材を受けて、ライブで何万人もの前に立って、毎日白須賀沙也加でいないといけない日とか」
「うん」
「そういう日でも、裕二のことを考えてると、ちゃんとやれる気がする。不思議なんだけど」
沙也加の声が、少しだけかすれていた。疲れているから、ではなく、本当のことを言っている時の沙也加の声の出し方だった。
「花火の下で言ったでしょ。壊れない場所が欲しかった、みたいなこと」
「言った」
「裕二が、それになってくれてる。今も」
広場の街灯が、冬の夜気の中で揺れた。
沙也加は額を僕の胸から離して、顔を上げた。涙は出ていなかった。ただ、その目が、夏の終わりの小山の上で見せた目と同じ種類の光を、静かに宿していた。欲しい、ではなかった。もう手に入れた、という目だった。
「ねえ、裕二。私、これからどんどん大きくなるから」
「どんどん?」
「うん。来年の春、全国ツアーが決まりそうなの。まだ発表前だけど」
それは、初めて聞く話だった。全国ツアー。今の白須賀沙也加の規模で全国を回るということは、半年近くの間、怒濤のスケジュールになるということだ。学校との両立も、相当ハードになる。
「それは……すごいな」
「すごいでしょ。でもね、そうなっても、裕二はちゃんと隣の席にいてくれるんでしょ」
「いるよ」
「ツアー終わりで疲れ果てて学校来ても、ちゃんと話しかけてくれるんでしょ」
「話しかけるよ」
「約束ね」
「約束ね、て重いな」
「これくらいの重さが私には普通なの」
沙也加は、満足そうに笑った。
その笑顔が、ステージで何万人に向ける笑顔と、全然違うことを、今の僕は知っている。今の笑顔は、ステージで作る白須賀沙也加のものではなく、僕の前だけで出てくる、もっと素の部分の笑顔だった。
沙也加は、もう一度だけ僕の腕に腕を絡めた。
「帰りたくない」
「帰れ」
「もう少しだけ」
「事務所の人に怒られるだろ」
「裕二に会いたくて早上がりしてきたって言えばいい」
「言うな」
「なんで? かっこいいじゃん」
かっこいいじゃん、ではない。事務所に僕の存在が知られることがどういう結果を招くかを、この人は分かっていて言っている。分かっていて、それでもこういう顔で言うのが、白須賀沙也加という人間だった。
仕方なく、もう少しだけ広場にいることにした。
冬の夜空は、透明度が高くて、星がよく見えた。沙也加は僕の腕に絡めた自分の腕をより密着させながら、街灯の光の外側に広がる夜空を見上げていた。その横顔が、静かで、満ち足りていた。
来年の春、全国ツアーが始まれば、沙也加の日常はさらに慌ただしくなる。学校に来られない日が増えて、隣の席が空く日が増えて、連絡が短くなる夜が増える。それでも沙也加は白須賀沙也加であり続けながら、同時に、僕の隣に戻ってくる。その両方を、この人は引き受けていく。
国民的トップアイドルと付き合っているということは、その全部を受け止め続けるということだ。重くて、面倒くさくて、逃がしてくれなくて、それでいて、こういう冬の夜の街灯の下で、星を見上げながら腕に絡みついてくる人間と、一緒にいるということだ。
「裕二」
「うん」
「好き」
「……うん」
「返してくれないの?」
「好きだよ」
沙也加は、それを聞いて、ぎゅっと腕に力を込めた。
冬の夜気が、二人の吐息を白く変えながら、広場の上を流れていった。
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