軽いのはごめんだ
翌朝、目が覚めた瞬間から、何かが違うと感じた。
それが何なのかを考えるより先に、スマホの画面が光った。沙也加からのメッセージだった。
『おはよ。今日、隣に座っていい?』
隣の席は、もともと沙也加の席だった。聞く必要のない質問だった。けれど、わざわざ確認してくるあたりが、いかにも沙也加らしかった。僕は短く返した。
『当然だろ』
既読がついて、すぐに返事が来た。
『えへへ』
それだけだった。文字三つの返事が、なぜかひどく胸にくすぐったかった。
朝の支度をしながら、昨日のことを頭の中で順番に確認した。明日香、静、結城、玲音。全員と会って、全員に話した。全員が、それぞれのやり方で受け取ってくれた。誰一人、感情を爆発させなかった。その強さが、今朝も胸の奥に静かな重みとして残っていた。
重みは、消えないだろうと思った。消えなくていいとも思った。この重みを持ち続けることが、選んだということの、正直な形だった。
玄関を出ると、秋の朝の空気が顔に当たった。冷たくて、澄んでいた。銀杏の並木が、昨日よりさらに一段深く色づいていた。踏んだ葉が、乾いた音を立てた。
いつもの通学路を、いつもの時間に歩いていた。何も変わっていないのに、景色の見え方だけが、昨日までと少し違っていた。
※ ※ ※
教室の扉を開けると、沙也加はもう席にいた。
朝の光を受けた艶のある髪が、いつもと同じように肩の上で揺れていた。クラスメイト数人と話していて、笑顔も声も、完璧に白須賀沙也加のままだった。国民的トップアイドルが、学校の教室に自然に溶け込んでいる、あの不思議な光景が戻ってきていた。
僕が自分の席へ歩いていくと、沙也加はクラスメイトと話している最中に、ほんの一瞬だけこちらを見た。アイドルの笑顔のまま、誰にも気づかれないタイミングで、目線だけを一秒間僕へ向けて、それからすぐに戻した。
たった一秒だった。けれど、その一秒に昨日の小山の夕陽が詰まっていた。
席に腰を下ろすと、机の下で沙也加の指先が僕の袖をそっと引いた。引いて、一秒だけ触れて、離れた。それだけだった。それだけなのに、教室の温度がほんの少しだけ上がった気がした。
ホームルームが始まって、担任が教壇に立った。沙也加は前を向いたままだったけれど、机の下で足先が僕の足先のそばに寄ってきた。触れるか触れないかの距離で、そのまま止まった。
我慢しているのか、我慢を装っているのか、どちらか分からない距離感だった。たぶん、両方だった。
※ ※ ※
昼休みに屋上へ上がると、天雨が先に来ていた。
手すりの前に立って、空を見ていた。振り返らなかったけれど、僕の足音で来たことは分かっているはずだった。並んで立つと、天雨は少しだけ間を置いてから口を開いた。
「今日の白須賀さん、朝から機嫌がいいね」
「そうだな」
「目線、一回飛んできたの見てた」
僕は何も言えなかった。天雨は続けた。
「一秒だけ。でも、あれは私には向けない目だった」
その観察の細かさが、天雨美鈴という人間の、いつもの怖さだった。一秒の目線の温度の違いを、正確に読んでいた。
天雨は、それ以上その話を深めなかった。空を見たまま、静かに呼吸していた。沙也加への嫉妬も、僕への不満も、声に出さなかった。ただ、言葉にしないことで、全部を示していた。
しばらくして、屋上の扉が開いた。
沙也加だった。
教室ではアイドルの笑顔のままだった沙也加が、屋上に上がってきた瞬間だけ、その笑顔を一枚脱いだ。代わりに、もっと素に近い顔が出てきた。天雨を見て、少しだけ表情が引き締まったけれど、それも一瞬だった。
「美鈴ちゃん、いたんだ」
「いたよ。邪魔だった?」
「邪魔はしないよ。ただ、今日はここ、私の場所にしてもいい?」
天雨は、沙也加を見た。沙也加も、天雨を見た。どちらも笑っていなかった。笑っていないのに、怒鳴り合うわけでもなかった。ただ、互いの存在を、正面から確認し合っているような時間が、数秒だけ流れた。
天雨はやがて、文庫本を手に取った。
「今日はいいわ。でも、毎日そうはさせないから」
それだけ言って、天雨は扉の方へ歩いていった。扉を開けて、出ていく直前に、一度だけ振り返った。
「沢渡くん。ちゃんと食べてね」
それは僕への言葉だった。沙也加への牽制でも、嫌みでもなかった。ただ、いつも通りの、天雨なりの言葉だった。それが逆に、沙也加の横でやけに存在感を持った。
天雨が出ていくと、屋上には僕と沙也加だけになった。
沙也加は、天雨が出ていった扉を少しのあいだ眺めてから、こちらへ向き直った。
「美鈴ちゃん、強いね」
「うん」
「私、あの子のこと、苦手じゃないんだよね。むしろ、好きかもしれない。だから余計に、怖い」
沙也加はそう言って、僕の隣に腰を下ろした。肩が触れる距離だった。教室ではずっと保っていた、アイドルとしての距離感が、ここでようやく解かれていた。
「裕二」
「うん」
「昨日、全員に話してくれたこと。ちゃんと伝わってる?」
「伝わってるよ」
「私、それが嬉しかったの。私のためじゃなくて、みんなに対して誠実でいようとしてくれたことが。……好きな人が、そういう人で、よかったって思った」
沙也加の声は、穏やかだった。教室で見せる明るい声でも、準備室で見せた危うい声でもなく、もっと柔らかい、素の声だった。
秋の昼の風が、屋上を吹き抜けた。沙也加の髪が、その風に乗って揺れた。
※ ※ ※
放課後、柊先輩に廊下で呼び止められた。
書類を抱えたままで、いつもの副会長の顔をしていた。けれど、廊下の端の人気のない場所まで移動してから、書類をわずかに抱え直した。そういう細かい動作の変化が、柊先輩の場合、感情の動きを示していた。
「沢渡くん、少しだけいい?」
「はい」
「昨日、色々な人に話してきたのね」
「はい」
「玲音さんから少しだけ聞いた。あなたが全員に、ちゃんと直接会って話したって」
柊先輩は、廊下の窓の外を一度だけ見た。秋の午後の光が、校庭の木々を斜めに照らしていた。
「あなたが、ちゃんと誠実に動いてくれたことは、私もよかったと思ってる」
「……ありがとうございます」
「でも、一つだけ言わせて。私、昨日あなたに言ったことを、後悔してないの。白須賀さんを大切にしなさい、って言ったこと。それは今でも同じ気持ちよ」
柊先輩の声は、副会長のそれだった。整っていて、感情の起伏が外に出ていない。けれど、その整い方の奥に、何かを折りたたんで仕舞い込んでいる気配があった。
「それと、もう一つ」
「はい」
「私のことも、あまり遠ざけないでほしいの。友人として、というか、先輩として、というか。上手い言い方が見つからないけれど」
そこで柊先輩は、珍しく言葉を探すような間を置いた。
「あなたの近くにいたいという気持ちが、昨日で消えたわけじゃないから。消えないまま、でも邪魔しない、という形でいるつもりだから。それだけ、知っておいてほしかった」
それを言い終えると、柊先輩はまた書類を抱え直して、副会長の顔に戻った。
「じゃ、私は生徒会の仕事があるから」
踵を返して歩き始めた柊先輩の背中を見ながら、僕はしばらくそこに立っていた。消えない、という言葉を、柊先輩なりの言い方で聞かされた、ということを、ゆっくりと胸の中で確かめていた。
※ ※ ※
その夜、スマホに明日香からメッセージが届いた。
短い文面だった。昨日のカフェで話した内容への続きでも、グチでも、怒りでもなかった。
『今日の仕事、うまくいったよ。報告したくなった』
それだけだった。なぜ僕に報告するのか、という話だったけれど、明日香がそうしたかったのだろうと思うと、それ以上のことを考えるのをやめた。
『よかった』
と返すと、すぐに返事が来た。
『でしょ! また報告していい?』
『別にいいけど』
『やった。じゃあまた』
それで会話が終わった。
軽い文面だった。昨日の重さが嘘みたいに軽かった。でも、その軽さが、明日香の強さだと思った。重いものを全部内側に収めた上で、それでも軽く動ける人間の強さだった。
続けて、静からも短いメッセージが届いた。
『今日、新しい本を読み始めた。あなたに勧めたい一冊があるから、今度会う時に渡す』
それだけだった。
今度会う時、という言葉が、静なりの続きの示し方だと分かった。消えない、とは言わなかった。ただ、今度会う時、とだけ書いた。その短さが、静の感情の丁寧さだった。
結城からは、夜遅くに一言だけ来た。
『沢渡くん、今日もちゃんとご飯食べた?』
天雨が言いそうな内容を、結城が送ってきた。思わず少しだけ笑ってしまった。
『食べた』
『よし。じゃあよかった。おやすみ』
結城らしい締め方だった。
スマホを閉じて、ベッドに横になった。天井を見上げながら、今日一日のことを順番に思い返した。沙也加の一秒の目線。天雨の「ちゃんと食べてね」。柊先輩の「遠ざけないでほしい」。明日香の仕事の報告。静の「今度会う時」。結城の「ちゃんとご飯食べた?」
全員が、それぞれのやり方で、まだそこにいた。
消えてはいなかった。消えるつもりもないことが、今日一日で改めてはっきりした。それが、しんどいかと言えば、正直に言えばしんどい部分もあった。でも、それ以上に、重さを抱えながら前を向いている人たちのそばにいることの、静かな温かさがあった。
そこへ、沙也加からメッセージが届いた。
『今日の昼、美鈴ちゃんと鉢合わせたの、見てたよ。私からも言っておくね。裕二のことは渡さないから』
『渡さないというか、最初から私のものだから』
二連続で届いた文面を読んで、苦笑いが浮かんだ。付き合い始めて数日も経たないうちから、このテンションだった。これが向こう何年も続くのかと思うと、気が遠くなる気もした。でも、嫌ではなかった。
『知ってる』
と返すと、すぐに沙也加から返事が来た。
『えへへ。おやすみ、裕二』
『おやすみ、沙也加』
画面を閉じた。
部屋の中は静かだった。窓の外で、秋の夜風が木の葉を揺らしていた。重くて、面倒くさくて、逃がしてくれない日常が、今日から本格的に始まっていた。
それで構わない、と改めて思った。
軽いのは、やっぱり、嫌いだ。
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