みんなへの説明
翌週、最初に会えたのは明日香だった。
待ち合わせ場所に指定されたのは、学校から少し離れたカフェだった。明日香が決めた場所で、芸能関係者がよく使うらしい、個室席のある落ち着いた店だった。木の内装に、照明が柔らかく落としてある。外の喧騒が嘘みたいに静かで、席と席の距離が離れているから、周囲の会話が届いてこない。人目を気にしなければいけない人間が、人目を気にしないために来る場所、という空気がある店だった。
僕が先に着いて奥の席に座っていると、五分ほどで明日香が現れた。キャップにマスク、大きめのパーカという変装姿だったけれど、帽子のつばから零れ出た金髪が、店の照明を受けてやけに明るく光っていた。それだけで、遠目からでも明日香だと分かる。本人はそのことに無頓着らしく、席に着くなりキャップとマスクを外して、はっきりとした笑顔を出してきた。
いつも通りの顔だった。
何も知らない子どものように明るくて、それでいて、その奥に絶対に軽くない感情を折りたたんで仕舞い込んでいる、あの顔。何度も近くで見てきた顔だった。
ドリンクを注文して、互いの分が届いた頃、明日香はストローに触れないまま、僕の顔をまっすぐ見た。表情は穏やかだったけれど、その目の奥に、答えをもう予感している光があった。
「沢渡くん。私、先に言っていい?」
僕が頷くより先に、明日香は続けた。
「白須賀さんでしょ」
静かな一言だった。笑いも、怒りも、含んでいなかった。ただ、確認として、平らに言った。明日香が、この一週間でどれだけ考えていたかが、その平らさから逆に伝わってきた。
僕は肯定した。白須賀に好きだと伝えたことを、付き合い始めたことを、自分の口で言葉にした。言葉にしながら、明日香の目を見ていた。明日香の目が、僕の話を一語一語、ゆっくりと受け取っていくのが分かった。
明日香は話を聞き終えてから、ストローに口をつけた。一口飲んで、カップをテーブルに置いて、少しだけ天井の方を見た。その首筋に、呼吸のたびに微かな動きがあった。感情を整えようとしている人間の、静かな動きだった。
やがて、明日香は顔を正面に戻した。
「海で言ったこと、覚えてる? 資格なんて、誰にも最初からないって言ったやつ」
夏の終わりのあの海が、一瞬だけ頭に浮かんだ。砂浜と、日焼け止めの匂いと、あの日の明日香の声。
「あの時ね、沢渡くんが自分に資格がないって言ってるの聞いて、ムカついたんだよね。優しさのふりして、全部から逃げてる感じがして」
明日香の目が、少しだけ陰った。
「でも今は違う。ちゃんと答え出してくれたじゃん。逃げないで、ちゃんと」
その言葉の一つ一つが、丁寧に、しかし確実に、僕の胸の奥へ落ちてきた。明日香は、声のかすれを一度だけ飲み込んでから、はっきりと言い切った。
「諦めないから。白須賀さんに一回負けたのは認める。でも、ゲームセットじゃないから」
それが、吉良明日香の出した答えだった。白須賀に邪魔する気はない、横から何かを仕掛けるつもりもない、でも好きだという感情は自分が決めたことだから自分が終わらせるまで終わらない――その全部を、明日香は涙なしで言い切った。引き受けた痛みを全部笑顔の中に畳んで、それでも前を向く人間の目があった。
帰り際、カフェの外で別れる直前に、明日香は振り返りながら一言だけ残した。
「沢渡くんが、ちゃんと幸せになってくれたら、私も嬉しいから」
その声が、少しだけかすれていた。明日香の背中が人混みに消えていくのを見送りながら、僕はその一言の重さを、ゆっくりと胸の中で受け止めていた。
※ ※ ※
静と会ったのは、その二日後だった。
静が指定した場所は、古書店に近い静かな喫茶店だった。古い木の内装に、照明を低く落とした店。静の選んだ場所だと言われれば確かに、と思わされる空気がある。僕が席に着くと、静はすでにコーヒーのカップを両手で包むようにして、窓の外を眺めていた。黒髪が耳の後ろにかかっていて、そのまま固まった絵みたいな佇まいで座っていた。
静は、僕が席に着くと同時に顔を向けた。いつも通りの、無表情に近い顔だった。その下に何が動いているのかを、今の僕はある程度分かるようになっていたけれど、今日だけは、読むのが難しかった。
静の聞き方は、天雨や明日香とは違った。僕が話し始める前に、静は先に言った。
「白須賀さんと、付き合い始めたのね」
確認ではなかった。既に知っていることを、言葉として整える作業だった。
僕が首を縦に振ると、静はコーヒーのカップを一度テーブルに置いた。その動作が、普段より少しだけ丁寧だった。感情を乱さないために動作を丁寧にする――それが、西条静という人間の、感情を制御する時のやり方なのだと思った。
「取られた」
たった三文字だった。怒りでも嘆きでもなく、ただ事実を正確に言葉にした三文字。その言葉を口にする間、静の目は一度もぶれなかった。
僕が謝ろうとすると、静は首を横に振った。
「謝らないで。これはあなたが謝るべきことじゃない。私が覚悟できていなかっただけ」
そのあとで、静は少しだけ間を置いた。黒い瞳の奥に、何かを燃やしている炎のようなものを宿らせながら、続けた。
「私の気持ちは本当のことだったの。あの夏の海で連絡先を渡した時も、鼓動を聞いた時も、全部本当だった。でも、消えるつもりはない。静かにあなたの近くにいる。それだけのことよ」
静の言葉には、感情の起伏がなかった。なかったのに、一語一語の重さが均等で、だからこそ全部がちゃんと届いた。
最後に、静は一言だけ付け足した。
「白須賀さんを大切にしなさい。もし大切にしなかったら、私が許さないから」
その言葉の中に、嫉妬よりも先に、白須賀という人間への純粋な思いやりが透けていた。静は、白須賀沙也加という人間が傷つくことを、自分の感情よりも先に拒んでいた。それが静の強さだった。
僕たちはそのあと、しばらく喫茶店の静かな空気の中に黙って座っていた。静は何も求めなかったし、僕も何も足さなかった。それで十分だった。
※ ※ ※
結城葵と会ったのは、静と別れた翌日だった。
場所は、街の外れの小さな公園だった。人通りが少なくて、目立たない。結城が選んだ場所だった。公園のベンチに、結城はすでに座っていた。今日の結城は、いつものイケイケな格好ではなく、ベージュのトップスにジーンズというシンプルな服装をしていた。金髪は結んでいて、化粧も薄かった。空を見上げながらベンチに座っている結城の横顔は、初めて再会した時のハイテンションな結城とは全然違っていた。もっと素に近い顔だった。中学の頃の、静かで、人と少し距離を置いていた頃の結城の面影が、薄く表に出てきているような顔だった。
僕が近づくと、結城は顔を下ろして、ゆっくりと立ち上がった。二人で並んでベンチに座った後、結城は空の方を見ながら先に口を開いた。
「メッセージ来た時から、分かってたよ。でも、直接会って話してくれる人ってなかなかいないから。そこは、ありがとって思ってる」
その言葉の丁寧さが、結城がこの日のためにどれだけ自分の気持ちを整えてきたかを、静かに示していた。
白須賀だ、と伝えると、結城は少しだけ目を見開いた。それから、空を仰いで笑った。笑い方が少し苦しそうだったけれど、ちゃんと笑っていた。
「あの白須賀さん。国民的トップアイドルの。……沢渡くんって、ほんとにおかしな生活してるよね」
苦笑いと本音が混ざった声だった。
少しの間を置いてから、結城は続けた。林間学校の時から、なんとなく感じていた、と。沢渡くんの中で一番大きいのはたぶん芸能界側の人なんだろうと、そういう空気があったから、と。
「好きだから、ちゃんと見てた。見てたから、分かってしまった」
その言葉のあとに、結城は中学の頃の話を始めた。あの頃の沢渡くんほど公平に人を見る人が他にいなかった、それが好きになった理由だと、静かに言った。人気者には人気者の顔をして、地味な子には地味な子として関わって、誰かに対して特別な顔をするわけじゃなかった――そういう人が、いつの間にかアイドルに囲まれた生活をしているのが、可笑しくて、でもそうなるよなと思う、と。
話し終えてから、結城は立ち上がった。向かい合うと、結城は僕より少し低い目線から、まっすぐ顔を見てきた。
「沢渡くんは、幸せ?」
今、幸せかを聞いてきた。その問いが、この日の中で一番、胸の奥に刺さった。なってる途中だと思う、と正直に答えると、結城はそれで満足したように頷いた。
「なら、いい」
別れ際、結城は振り返りながら言った。
「また連絡してよ。陰キャのくせに連絡不精になったら、許さないから」
「陰キャは余計だ」
「否定しないんだ」
そこだけは、いつもの明るい結城の声だった。目の端に光が浮かんでいたのを、僕は見えなかったふりをした。触れない方がいいと思った。結城が泣きたくない、と思っているのが、背筋の伸び方から伝わってきたから。
背中を真っ直ぐに保ちながら、金髪を揺らして公園を出ていく結城の後ろ姿を、消えるまで見送った。
※ ※ ※
玲音と会ったのは、翌週の週末だった。
玲音が指定した場所は、芸能関係者が使う会員制ラウンジに近い静かなカフェだった。玲音はすでに奥の席で待っていて、今日はキャップもマスクも着けず、軽い変装だけで座っていた。コーヒーを飲みながらスマホを見ていた玲音は、僕が席に着くと同時に画面を伏せた。
開口一番、玲音は短く聞いた。
「全員に話せた?」
天雨、柊先輩、明日香、静、結城――全員と会って、ちゃんと話してきたと伝えると、玲音は短く頷いた。
「みんな、どうだった?」
受け入れてはくれたけれど、誰一人諦めてはくれなかった、と答えると、玲音は小さく笑った。
「沢渡らしい」
そのあとで、玲音は少しだけ間を置いた。自分のコーヒーカップを眺めながら、カップの持ち手を指先で軽く触れて離す動作を、二度繰り返した。何かを言おうとして、言い方を選んでいる時の玲音の癖だった。
やがて、玲音は顔を上げて、まっすぐ僕を見た。
「お礼を言いに来たって書いてたね」
「うん。あの川沿いの公園で、玲音さんが来てくれなかったら、たぶん僕、今もまだ動けてなかった」
玲音は、視線を少しだけ外した。そっぽを向くほどではないけれど、正面から受け止めることを少しだけ避けた目の向け方だった。
「そんな大したことしてない」
「大したことしたよ」
玲音は、黙った。
その沈黙の中で、公園の日のことを思い出していた。キャップのつばを深く下ろして、川の方を向いたまま沙也加のことを話していた玲音の声。震えていなかった声。震えていなかったから、本気だと分かった声。
「あの日、玲音さんが泣くのを堪えてたの、分かってた。キャップのつばを下げてたけど、肩の動きで分かった」
玲音は、一瞬だけ息を詰めた。
しばらく、玲音は何も言わなかった。カップを手に取って、コーヒーを一口飲んだ。飲んでから、カップをゆっくりとテーブルに戻した。その動作が、普段の玲音よりずっと丁寧で、感情を制御している時の人間の動き方だった。
やがて、玲音は小さくため息をついた。
「ほんと、沢渡ってずるい」
そう言葉を吐いた玲音の「ずるい」は、もっと静かで、もっと深いところから来ていた。
そのあと、玲音は沙也加は本当に好きかと聞いてきた。重くて面倒くさいところも全部含めて好きだと答えると、玲音は少しだけ目を細めた。
「それ、沙也加に言ったの?」
「言ったら、泣いてた」
「……そっか」
玲音は窓の方を向いた。窓の外の秋の午後の景色を、少しのあいだ眺めていた。その横顔に、何かを決めている人間の静けさがあった。
玲音は立ち上がる前に、テーブルの上で両手を一度だけ組んで、それから解いた。
「私も、消えないから。そこだけは分かっておいて」
出口に向かいながら、玲音は一度だけ振り返った。その一瞬だけ、本当の顔をしていた。笑顔でも強がりでも諦めでもない、ただ正直な顔だった。自分が引き受けているものの全部を、隠さずに出したような顔だった。次の瞬間には、いつもの玲音の顔に戻って、カフェを出ていった。
※ ※ ※
家に帰ったのは、夕方を過ぎた頃だった。
部屋のベッドに腰を下ろして、スマホを手に持ったまま、しばらく何も触らずにいた。
天雨。柊先輩。明日香。静。結城。玲音。全員に、会って、話した。全員に、自分の言葉を受け取ってもらった。誰一人、感情を爆発させなかった。それぞれが、それぞれのやり方で、僕の言葉を自分の内側に収めた。
その強さが、胸の奥に静かに痛みを残した。
痛いのに、後悔の痛みではなかった。選んだことへの責任の重さが、形になった痛みだった。この痛みは、持ち続けなければいけないものだと思った。持ち続けることが、全員に対して誠実でいるための、これから先の僕の義務だった。
スマホが震えた。
沙也加からだった。今日全員に話してくれたことが本当かを確認してくる短い文面だった。本当だと返すと、しばらく既読がついたまま止まった。一分ほど待っていると、文面ではなく、電話がかかってきた。
出ると、沙也加の声が電話越しに聞こえた。少し震えていた。震えているのに、声の奥に確かな温かさがあった。
「ありがとう。全部」
たった一言だった。それで十分だった。
少しの間、お互い何も言わずに、電話を繋いだままでいた。沙也加の息遣いが、電話越しに届いていた。言葉を交わさなくても、繋がっていることだけで成立する時間があった。
やがて、沙也加は静かに言った。
「私、これからもっと面倒くさくなるよ。もっと重くなるよ。逃げない?」
「逃げない」
電話の向こうで、沙也加が深く息を吐く音がした。安堵の息だった。それから、明日学校で会おう、と言って、おやすみ、裕二、と電話を切った。
部屋の中が静かになった。
窓の外を見ると、夜の空に星が出ていた。秋の星は、夏の星より少しだけ鋭い光をしていた。この半年間のことを、頭の中で一度だけゆっくりと巻き戻した。隣の席に国民的トップアイドルが座った日から、今日までの全部。出会いと、混乱と、重い感情と、曖昧な日々と、逃げ続けた時間と、玲音の言葉で動き出した夜と、小山の夕陽の下で名前を呼んだ瞬間。全部があって、今日がある。
明日からは、また新しい日常が始まる。白須賀沙也加という、重くて面倒くさくて、逃がしてくれない彼女と並んで歩く日常が、これから続いていく。
それで十分だった。
軽いのは、やっぱり、嫌いだ。
スマホを枕元に置いて、ベッドに横になった。目を閉じると、沙也加の顔が浮かんだ。涙を流しながら笑っていた、小山の夕陽の下の顔が、瞼の裏でしばらく消えなかった。
消えないまま、眠りに落ちた。
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