責任の付け方
翌日の朝、僕は普段より少し早く学校へ向かった。
昇降口で靴を履き替えて、廊下を歩く。秋の朝の光が窓から床に長く伸びていて、一日の最初の時間特有の静けさが校内に落ちていた。いつもよりも早い時間帯だから、廊下を歩く生徒の数は少ない。そのぶん、自分の上履きの音がやけにはっきりと響いて聞こえた。
教室の扉を開ける前に、僕は一度だけ深く息を吸った。
今日から何かが決定的に変わる――という種類の日ではなかった。昨日の小山の上で、すでに全部変わっていた。今日はただ、その変わったものを、少しずつ周りに伝えていく最初の日だった。
扉を開けた。
教室には、まだクラスメイトはほとんど来ていなかった。窓際の僕の席。その隣の、白須賀の席。机の上には、昨日までと同じように、誰かが置いていった小さな落ち葉が一枚だけ乗っていた。
僕はその落ち葉を、そっと手に取った。
自分の席に鞄を置いて、腰を下ろす。しばらく、手の中の落ち葉を眺めていた。この一週間、白須賀の席を守り続けていたこの小さな葉っぱを、今日で役目から解いてもいいような気がした。
※ ※ ※
朝のホームルームが始まる少し前に、教室の扉が静かに開いた。
白須賀が入ってきた瞬間、教室の空気が一瞬だけ浮き上がった。
「白須賀さんだ!」
「おかえりー! 体調大丈夫だった?」
「めっちゃ会いたかったー!」
女子たちが一気に集まっていく。白須賀は普段通りの完璧な笑顔で、一人一人に丁寧に挨拶を返していた。その立ち居振る舞いは、文化祭以前と何も変わらなかった。国民的トップアイドル白須賀沙也加の、学校内での振る舞い方。それが完全に戻ってきていた。
けれど、僕の席の隣を通り過ぎる瞬間、白須賀の視線が一度だけ僕を掠めた。
たった一秒だった。
その一秒の中に、昨日の小山の夕陽と、涙と、抱きついてきた肩の震えと、「沙也加」と呼んだ時の小さな跳ね方が、全部詰まっていた。誰にも気づかれないように、白須賀はほんの一瞬だけ僕に目配せをして、それからまたアイドルの笑顔に戻って、女子たちの輪の中へ歩いていった。
上手い、と思った。
内緒にすると約束したのを、本当にきちんと守っている。誰にも悟らせないまま、でも僕にだけは気づかれる形で、あの一秒を投げてきた。こういうところが、白須賀なんだと思った。
席に着いた白須賀は、女子たちの話を笑顔で聞きながら、机の下でこっそり僕の袖を引っ張った。
「朝から重いな」
「軽いの嫌いでしょ?」
小声の応酬は、いつも通りだった。
いつも通りなのに、その声の温度が、昨日までとは違っていた。
※ ※ ※
昼休み、屋上に上がった。
扉を押し開けると、天雨美鈴が手すりの前に立っていた。
昨日と同じ場所で、昨日と同じ姿勢だった。けれど、背中の空気の張り方が、昨日より少し違っていた。待っている、という姿勢ではなかった。もう答えを知っている、という姿勢だった。
「美鈴さん」
「沢渡くん」
天雨は振り返らずに、ただ名前だけ返した。
僕は手すりに歩み寄って、天雨の隣に立った。秋の空が、昨日よりさらに一段深い青をしていた。
しばらく、二人とも黙っていた。
先に話し始めたのは、僕の方だった。
「昨日、話してきた」
「うん」
「白須賀に、好きだって伝えた」
天雨は、すぐには反応しなかった。
ただ、手すりに置いた指先が、ほんの少しだけ動いた。それが、天雨の中で起きた全部の感情の、外に出てきた唯一の兆候だった。
「そっか」
短い返事だった。
その「そっか」には、怒りも、悲しみも、驚きも、はっきりとは含まれていなかった。代わりに、静かな諦めと、静かな納得が、同じ量だけ混ざっていた。
「昨日、沢渡くんが屋上で言った時、もう分かってた」
「……分かってたのか」
「分かるよ。あの顔してたから」
天雨は、ようやくこちらへ顔を向けた。
その横顔は、いつものように整っていた。目の縁が少しだけ赤かったけれど、それ以外は、本当に、いつもと何も変わらない天雨美鈴の顔だった。
「私ね、沢渡くん」
「うん」
「最初に沢渡くんに助けてもらった時から、ずっと、この結末を、心の隅で覚悟してた」
天雨の声は、静かだった。
「白須賀さんがあなたの隣にいる時間の方が、私より長かった。あなたが最初に友達になった女の子が、あの人だった。私はあとから来た方。その事実は、覆らないものだって、最初から分かってた」
秋の風が、天雨の黒髪を柔らかく揺らした。
「でも、それでも、期待してた。期待しないでいる方が難しかった」
「……ごめん」
「謝らないで」
天雨は、首を横に振った。
「謝られるのが、一番悔しい」
その一言に、僕は言葉を失った。
「沢渡くんが選んだのが、本気で選んだ結果なら、それは尊重する。私はそれを受け入れる。受け入れた上で、一つだけ言っていい?」
「なに」
「私は、今日から諦めるつもりはない」
僕は、天雨の顔を見た。
天雨の目は、静かで、澄んでいた。涙は流れていなかった。流れていないことが、かえって強さを示していた。
「諦めないって、どういう意味?」
「文字通りの意味」
天雨は、僕の目を真っ直ぐに見た。
「白須賀さんと別れてほしいとかじゃない。横から奪うようなことも、しない。でも、私の中で沢渡くんを好きだった気持ちを、なかったことにはしない。それだけは、私が決めることだから」
「……分かった」
「沢渡くんが白須賀さんを大事にしてる限り、私は何もしない。でも、もし万が一、何かが壊れた時は」
天雨は、そこで少しだけ唇の端を上げた。
「私、ちゃんと、そこに立ってる」
それが、天雨美鈴の出した答えだった。
綺麗に身を引くわけではなかった。けれど、横から何かを仕掛けるわけでもなかった。ただ、静かに、自分の場所に居続ける。一番遠いところで、それでも見守り続ける。そういう形の愛情表現を、天雨は選んだ。
「ありがとう」
僕は、それだけ言った。
言葉は、それ以外に出てこなかった。
天雨は頷いて、もう一度空を見た。そのあと、少しだけ小さく笑った。
「でも、白須賀さんは強敵だよ。私、相当頑張らないと、たぶん一生追いつけない」
「……追いつくのが前提なんだな」
「当然でしょ」
天雨のその声に、ほんのわずかに、いつもの軽口の温度が戻ってきた。
秋の屋上の風が、二人の間を静かに抜けていった。
※ ※ ※
放課後、生徒会室の前で柊先輩を待った。
柊先輩は、生徒会の用事を終えてから出てきた。書類を抱えた姿のまま、僕の顔を見て、少しだけ首を傾げた。
「沢渡くん、どうしたの」
「少し、話があって」
「そう」
柊先輩は、書類を抱え直した。それから、廊下の先の空き教室を顎で示した。
「そこでいい?」
「はい」
空き教室に入ると、柊先輩は窓際の机に書類を置いて、こちらへ向き直った。窓からの夕陽が、柊先輩の横顔を柔らかく染めていた。紺色のセーラー服に、その光がよく映えていた。
「話って?」
「白須賀と、付き合い始めました」
柊先輩は、一瞬だけ目を見開いた。
それから、ゆっくりと息を吐いて、机の縁に手をついた。
「……そう」
柊先輩の反応は、天雨のそれと似ていた。けれど、少しだけ違っていた。天雨が「分かっていた」と言ったのに対して、柊先輩は、どこか、予感はあったけれど確信ではなかった、という顔をしていた。
「ちゃんと、報告に来たのね」
「はい。先輩には、ちゃんと自分の口で言いたかったので」
柊先輩は、少しだけ笑った。
その笑みは、天雨のそれよりも大人びていて、もっと複雑だった。
「沢渡くん、私ね」
柊先輩は、夕陽の差し込む窓の方を見ながら言った。
「あなたのことは、最初はただの世話の焼ける後輩として見てたの。それが、いつの間にか、ちょっと違う温度になってた。正直、自分でもそれに気づいた時、驚いたわよ」
僕は、黙って聞いていた。
「でもね、同時に、私は自分が一番手じゃないことも分かってた。白須賀さんがあなたの隣にいる時点で、私に勝ち目はないって。それでも、完全に引くこともできなくて、中途半端な距離で、あなたの面倒を焼き続けてた」
柊先輩は、自嘲するように少しだけ笑った。
「副会長としては、失格ね。公私混同しすぎ」
「先輩、そんなことは」
「いいのよ。自覚はあるから」
柊先輩は、首を横に振った。
それから、僕の方へ向き直って、まっすぐに目を合わせた。
「ちゃんと報告してくれてありがとう。これで、私も区切りがつけられる」
「……先輩」
「沢渡くん、一つだけ頼みがあるの」
「はい」
「白須賀さん、本気で大事にしてあげて。あの子、たぶん、沢渡くんが思ってるよりずっと、繊細な子だから」
柊先輩の声には、恋敵を気遣う声ではなかった。
もっと別の、立場のある人間として、白須賀沙也加というひとりのアイドルを心配している声だった。柊先輩は最初から、白須賀という人間の危うさにも気づいていた人だった。だから、その危うさを引き受けて一緒にいる役割を、ちゃんと僕が果たせるかを、最後に確認してきた。
「大事にします」
「うん。信じてる」
柊先輩は、穏やかに笑った。
その笑顔は、生徒会副会長としていつも教室で見せる顔と、ほとんど同じに見えた。違うのは、その奥で、何かを静かに折りたたんだような、そういう気配があることだけだった。
「あと、これは副会長としての業務連絡なんだけど」
「はい」
「白須賀さんと付き合ってること、学校で迂闊にバレないように気をつけなさい。今、彼女の注目度、尋常じゃないから。週刊誌に写真でも撮られたら、あの子の立場、かなり大変なことになる」
「分かってます」
「分かってるなら、いい」
柊先輩は、机の書類を抱え直した。
「じゃ、私は生徒会の仕事に戻るから」
「はい」
柊先輩は扉の前で、一度だけ振り返った。
「沢渡くん」
「はい」
「選んだ責任、ちゃんと引き受けなさいね」
それは、副会長としての締めくくりの言葉だった。
柊先輩は、そう言って、空き教室を出ていった。
夕陽の中で、僕はしばらく一人でそこに立っていた。
※ ※ ※
その夜、僕はスマホを開いて、いくつかのメッセージを打った。
吉良明日香、西条静、結城葵。この三人には、対面で会って話すのは、それぞれの予定もあって難しかった。明日香と静は芸能活動で、結城は来週から部活の遠征で、それぞれ忙しくなる時期だった。だから、まずは対面で話す時間を作ってほしい、とだけ連絡を送った。
明日香からは、すぐに返事が来た。
『沢渡くん、なにかあったの?』
『直接会って話したい』
『分かった。今週中に時間作る!』
明日香らしい、即断即決だった。
静からの返事は、少し遅れてから来た。
『分かったわ。こちらから場所と日時を指定する』
静らしい、冷静で短い返事だった。
結城からの返事は、一番時間がかかって届いた。
『沢渡くんがそう言うなら、会う』
『でも、私、もう気づいてるよ』
『林間学校の時の空気見てたら、なんとなく分かってた』
結城は、林間学校の林の中で僕の鼓動に耳を当てた時から、たぶん、この結末を予感していた。それでも、最後まで「最後に選んでくれるなら」と言った人だった。その結城に、ちゃんと会って話さなければいけない。会って、誠実に断りを入れなければいけなかった。
そして最後に、玲音にメッセージを送った。
『玲音さんには、改めて、ちゃんとお礼を言いたい』
『近いうちに、時間作ってもらえる?』
玲音からの返事は、短かった。
『いいよ』
『でも、あんまり重くしないでね。私、泣くの苦手だから』
玲音らしい返事だった。
僕はスマホを閉じて、ベッドの天井を見上げた。
これから数週間、僕は色々な場所で色々な会話をすることになる。相手を傷つける会話。相手に謝る会話。相手から返される言葉を、全部ちゃんと受け止める会話。それは痛いことだ。間違いなく、痛いことだ。それでも、痛みから逃げないと、昨日の小山の上で決めた。
天井の木目を見ながら、小さく息を吐いた。
胸の中の重さは、昨日と同じだけあった。けれど、昨日と違うのは、その重さが靄ではなく、はっきりとした形を持っていることだった。形を持った重さは、背負えば歩ける。靄とは違う。
スマホが一度震えた。
沙也加からだった。
『おやすみ』
『今日、一日、嬉しかった』
『朝の、袖引っ張ったやつ、ちゃんと気づいてくれてありがとう』
僕は、少しだけ笑って、短く返した。
『気づかないわけないだろ』
既読がすぐについて、返事も即座に来た。
『ふふ。それだけで、今夜は寝られる』
『おやすみ、裕二』
沙也加の下の名前呼びが、また一段、柔らかくなっていた。
僕は、スマホを枕元に置いて、目を閉じた。
半年以上かけて、ようやくひとつの答えに辿り着いた。辿り着いた先で、これから新しい日常が始まる。重くて、面倒で、目立つ日常。それが、沙也加を選ぶということの全部だ。それで構わない。軽いのは、嫌いだ。
秋の夜風が、窓の外で木の葉を揺らしていた。
いつもの夜だった。
いつもの夜なのに、僕の中だけは、昨日までとはもう決定的に違う夜になっていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




