恋人
白須賀は、しばらくその場から動かなかった。
帽子のつばの下で、涙が一筋、また一筋と、頬を伝っていく。それを拭うこともしないまま、白須賀はただ僕の顔を見ていた。国民的トップアイドルとして何万人もの客席を呑み込める人間が、今だけは、涙を流す以外の動作をすべて忘れているみたいだった。
秋の最後の夕陽が、山の稜線に沈みきる直前で止まっていた。
空の色が、赤から藍に、藍から夜の濃紺に、ゆっくりと変わり始めている。頂上の一本木が、その色の変化を枝の隙間に抱え込むようにして、静かに立っていた。
僕は、それ以上言葉を重ねなかった。
言葉はもう、全部渡した。渡したあとに何かを足すのは、たぶん、白須賀に失礼だった。白須賀は今、僕が渡した言葉を自分の中でゆっくりと浸み込ませている。その時間を、邪魔してはいけないと思った。
ようやく、白須賀の口元が動いた。
「……あのね」
声は、まだ震えていた。
「私ね、東京ドームのあとからずっと、この瞬間のことを何百回も想像してた」
帽子のつばの下で、潤んだ目が僕を見ていた。
「どんな場面で言ってくれるんだろうとか、どんな声なんだろうとか、私はなんて返すんだろうとか。練習してたの。ほんとに、何度も。笑わないで」
「笑わない」
「でもね、いざその瞬間が来たら、練習してた返事、全部飛んだ」
白須賀は、初めてそこで頬の涙を指で拭った。
拭ったのに、またすぐ新しい涙が溢れてきた。拭っても追いつかないから、白須賀はやがて拭うのをやめた。ただ、涙を流したまま、笑っていた。
「練習の成果、全然出せない」
「それで十分だよ」
「……ずるい」
白須賀は小さく笑った。
笑った拍子に、涙が一気に頬を伝った。
「沢渡くん、今日の沢渡くん、本当にずるい」
白須賀は、ゆっくりと一歩、こちらへ歩いてきた。
帽子のつばが、風で少しだけ揺れた。白須賀は帽子に手をかけて、それを外した。髪が風に解き放たれて、夕闇の中で柔らかく揺れた。
そして、白須賀は、もう一歩こちらへ近づいて、僕の前で立ち止まった。
文化祭の準備室のような、追い詰める距離ではなかった。夏の花火の下のような、奪いに来る距離でもなかった。ただ、正面から向かい合うためだけの、丁寧な距離だった。
「沢渡くん」
「うん」
「私も、好きだよ」
白須賀は、涙のまま、真っ直ぐに言った。
「ずっと前から好き。たぶん、沢渡くんが自分で気づくよりも、ずっと早くから好きだった。最初は、友達になってくれた男子、くらいの感覚だった。でも気づいたら、もう全部、沢渡くんのことしか考えられなくなってた」
夕闇の空が、背景にあった。
「東京ドームで歌ってた時、客席の中に沢渡くんを探してた。文化祭の日、準備室で止まれたのは、沢渡くんが好きだったから。好きだから、壊したくなかった。好きだったから、待てた」
白須賀の目は、まだ涙を流していた。
でも、声はもう震えていなかった。
「沢渡くんが今日ここに来てくれて、ちゃんと名前呼んでくれて、ちゃんと好きって言ってくれて」
白須賀は、そこで一度だけ息を詰めた。
「私、もう、他に何も要らない」
そして、白須賀はゆっくりと腕を伸ばして、僕の体に抱きついた。
夏の花火の下で抱きついてきたあの時とは、違う抱き方だった。あの時の抱きつき方は、もっと衝動的で、もっと勢いがあった。今日の抱き方は、ゆっくりで、柔らかくて、それでいて離す気のない確かな力があった。
白須賀の頭が、僕の肩の少し下のあたりに埋まった。
帽子を手に持ったままの白須賀の腕が、僕の背中に回された。ニットの袖越しに、白須賀の体温がじわりと伝わってきた。髪の甘い香りが、秋の夜の冷たい空気の中でかえって濃く届いてきた。
僕は、両腕を白須賀の背中に回した。
回した瞬間、白須賀の肩が、一度だけ大きく震えた。
文化祭の夜、自分で止まって、それでも僕の裾を離さずに縋るように掴んでいたあの指。一週間、踏み込まないための短い連絡だけを毎日送り続けていたあの静けさ。その全部が、この瞬間の白須賀の肩の震えに凝縮されていた。待つことをずっと白須賀自身が選んでいた時間が、今、僕の腕の中でようやく終わりを迎えていた。
「……沢渡くん」
白須賀は、僕の肩口に顔を埋めたまま、小さく言った。
「もう、離さない」
「うん」
「もう、ほんとに離さないからね」
「うん」
「呼んで」
「え?」
「下の名前、呼んで」
僕は、少し戸惑った。
白須賀の前では、ずっと「ちゃんとした関係になってから呼びたい」と言い続けてきた。その言葉を守ってきた。今、その条件が、ちょうど満たされた瞬間だった。
僕は、白須賀の髪に顔を寄せて、静かに言った。
「沙也加」
白須賀の体が、腕の中で小さく跳ねた。
「もう一回」
「沙也加」
「もう一回」
「沙也加」
白須賀は、僕の肩口で、声を上げて笑った。
笑いながら、泣いていた。声を上げて笑ったのに、次の瞬間には、もう泣き声の方が大きくなっていた。笑いと泣き声が混ざり合って、白須賀の肩が小さく揺れ続けた。国民的トップアイドルの白須賀沙也加が、今この瞬間、ただの女の子として、山の頂上で泣いて笑っていた。
空には、最初の星が見え始めていた。
街の下の方では、家の灯りが少しずつ点き始めている。
この半年以上のあいだ、僕と白須賀のあいだでずっと解けなかった結び目のようなものが、今日、ようやく解けた。解けた場所に、もっと静かで、もっと確かな糸が結び直された。そういう感覚だった。
※ ※ ※
小山を下りる頃には、空はすっかり夜になっていた。
下山の道は街灯が並んでいて、道の両側に薄い光が落ちている。その光の中を、僕と白須賀は並んで歩いた。白須賀は帽子を手に持ったまま、僕の腕に自分の腕を軽く絡めていた。
人通りはほとんどなかった。
ときどき、街灯の光の下で、白須賀は帽子を被り直す素振りを見せたけれど、結局被らなかった。誰にも見られないなら、今日だけはこのままでいい、と自分で決めたのだろう。髪が夜風に揺れるたびに、白須賀は少しだけ頬を緩めた。
駅までの道のりの途中、白須賀が口を開いた。
「ねえ、沢渡くん」
「うん」
「これからどうなるのかな、私たち」
「どうって?」
「付き合い始めたって言っても、私、普通の子と違うから。仕事も多いし、学校もずっと休んだりするし、週刊誌とか面倒なのも全部くっついてくる」
白須賀は、淡々と言っていた。アイドルとしての自分の立場を、ちゃんと自覚している人の声だった。
「それでも、いいの?」
「いいよ」
僕は、即答した。
「君がそうやって生きてきた人だから、僕は君を好きになった。それを切り離して付き合うって話は、最初から成立しない」
白須賀は、絡めていた腕に、少しだけ力を込めた。
「……ずるい」
「さっきから、ずるいしか言ってないな」
「だって、ずるいんだもん」
白須賀は、街灯の下で笑った。
「沢渡くん、ずっとこんな答えを隠してたの?」
「隠してたわけじゃない。自分でも気づいてなかった時期が長かった」
「いつから気づいてたの?」
「林間学校の前日」
「そんな最近?」
「気づいただけ。決めるまでには、もう少し時間がかかった」
白須賀は、少しだけ黙った。それから、小さく頷いた。
「そっか。……でも、ちゃんと来てくれたから、いいや」
駅に近づくにつれて、街の音が少しずつ戻ってきた。車の音、踏切の音、居酒屋から漏れる笑い声。そういう夜の生活音が、僕たちの歩くリズムの背景に、静かに敷かれていった。
駅の改札の前で、白須賀は一度立ち止まった。
「明日、学校行くね」
「復帰するのか?」
「うん。収録、無理言って一日空けてもらった。沢渡くんに会いたかったから」
「……明日から、堂々と隣の席に座るわけだ」
「うん。堂々と」
白須賀は、そこで少しだけ悪戯っぽい顔をした。
「あ、でも学校では内緒ね。付き合ってるってこと」
「そのつもりだった」
「分かってる。沢渡くん、めんどくさいこと苦手だもんね」
「君の面倒くささには敵わないけどね」
「それは褒め言葉」
白須賀は笑って、改札の前で帽子を被り直した。帽子のつばを深く下ろして、髪を中へ押し込む。文化祭以来見ていなかった、変装モードの白須賀沙也加が、そこに戻ってきた。
けれど、帽子のつばの下から覗く目だけは、さっきの小山の上で見せた目のままだった。
「じゃ、また明日」
「また明日」
白須賀は、改札を抜けていった。
振り返らなかった。振り返らずに、ただ、真っ直ぐに歩いていった。振り返らないのが、白須賀なりの気持ちの整え方だと分かった。振り返ったら、たぶん、白須賀は帽子を脱いで、もう一度抱きついてきた。それを我慢する代わりに、白須賀はまっすぐホームへ向かった。
僕も、自分の改札へ向かった。
※ ※ ※
家に帰る電車の中で、僕はスマホを開いた。
メッセージがいくつか溜まっていた。
一件は、玲音からだった。
『どうだった?』
僕は、少し考えてから、短く返した。
『終わった』
『ちゃんと、伝えた』
既読がすぐについた。
返事は、しばらくしてから届いた。
『そっか』
『よかった』
『……沢渡、バカだけど、今日は格好よかったんじゃない?』
玲音らしい締めくくりだった。
川沿いの公園で、キャップのつばを深く下ろして涙を隠していた玲音の姿が、一瞬だけ浮かんだ。玲音は、自分の恋の半分を手放してまで、僕に動けと言った人だった。その玲音に、今日の結果を最初に知らせるのが、たぶん一番の筋だった。
もう一件、天雨からの短い連絡が来ていた。
『ちゃんと、帰れた?』
昨日と同じ文面だった。
僕は、少しだけ迷った。迷ったあとで、短く返した。
『帰れた』
『明日、学校で話したいことがある』
天雨からの返事は、すぐに来た。
『分かった』
『待ってる』
それだけだった。
天雨は、きっと全部を察している。察したうえで、明日を待つと言った。僕は、明日、天雨にちゃんと話す。そしてそれが終わったら、柊先輩にも、静にも、明日香にも、結城にも、順番にちゃんと話す。一人ずつ、自分の口で、自分の言葉で、逃げずに話す。
それが、僕が引き受けると決めた、責任の形だった。
電車の窓の外を、夜の街が流れていく。
窓ガラスに映った自分の顔を見た。
半年前の自分からは、想像もつかなかった顔だった。陰キャで、目立つのが苦手で、隣の席に国民的トップアイドルが座った日から、ずっと流されるだけだった僕。流されながら、少しずつ、色々な人から色々な感情を受け取って、受け止めきれずに曖昧のまま立ち尽くしていた僕。
その僕が、今日、初めて自分の足で選んだ。
選んだ道の先には、これまで以上に面倒で、これまで以上に重くて、これまで以上に目立つ日常が待っているのだろう。国民的トップアイドルの彼女を持つということは、つまりそういうことだ。それでも、もう逃げない。
スマホが震えた。
画面を見ると、白須賀――いや、沙也加からだった。
『今日、ずっと忘れない』
『約束』
その一行の下に、もう一行だけ添えられていた。
『明日から、一生離さないからね』
僕は、その文面を眺めたまま、少しだけ笑った。
ラブコメとしては、きっと正解の結末ではあるのだろう。でも、相手が白須賀沙也加である以上、ここから先は普通のラブコメでは済まない。もっと重くて、もっと面倒で、もっと逃がしてくれない日常が待っている。
それでいい、と思った。
軽いのは、嫌いだ。
あの日、沙也加が笑って言った言葉が、今の自分の気持ちと、ちょうど同じ形になっていた。
窓の外を、街の灯りが流れていく。
電車は家の方角へ、夜の中を進んでいった。
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