決断と告白
翌日、学校は秋晴れだった。
冷たい空気の中に、よく晴れた日の陽射しが混じっていて、校舎の窓を通すと温度差がそのまま光の質感になって差し込んでくる。通学路の銀杏は昨日より一段濃く色づいていて、足元に落ちた葉が踏むたびに乾いた音を立てた。
昨夜送ったメッセージには、短い返事が返ってきていた。
『うん』
『待ってる』
『待ってたの、ずっと』
最後の一行が、今までの一週間の全部を集約していた。
その相手から続けて、場所の候補がいくつか提案された。僕は、少し迷ってから、ひとつの場所を指定して返した。夏の終わりに、一緒に花火を見上げたあの小山。あの場所以外に、今日のこの話をする場所として、ふさわしい場所はない気がした。
相手からの返事は、一言だけだった。
『分かった』
それで、待ち合わせが決まった。
放課後。
空の色が、どこまでも高く、どこまでも澄んでいた。
※ ※ ※
朝の教室に着くと、窓際の僕の席の隣は、今日も空いていた。白須賀はまだ復帰していない。机の上には昨日までと同じく、誰かが置いていった花のように見える落ち葉が一枚だけ、ぽつんと乗っていた。たぶんクラスメイトの誰かが、白須賀の席を綺麗に保ちたくて置いたものだろう。
その光景を見た瞬間、胸の奥で何かが小さく揺れた。
この席の主が、文化祭以降ずっと学校に不在であること。けれど彼女の気配だけは、机の上の落ち葉の形で毎日この教室に残っていること。クラスメイトがそれを毎日無意識に維持していること。それは、ひとりの人間の存在感の、ある種の証拠みたいだった。
ただ、その光景の前で立ち尽くすのはもうやめる、と僕は心の中で決めた。
机の上に鞄を置いて、自分の席に座った。
※ ※ ※
一時間目、二時間目、三時間目と、授業は普通に進んでいった。
数学の教師が黒板に書いた式を、僕はいつもよりきちんとノートに写した。国語の教師が指名した生徒が詩を音読する声を、いつもよりきちんと聞いた。それは授業に集中しているというより、放課後に備えて自分の心拍を整えておくための作業に近かった。何かに手を動かしていないと、胸の中の熱が余計なところで揺れてしまいそうだった。
昼休み、屋上へ上がった。
扉を押し開けると、秋の空が高く広がっていた。風はあったけれど、そこまで強くない。手すりの近くに、天雨美鈴が立っていた。
天雨は、僕が上がってくる足音で振り返った。
「沢渡くん」
「……美鈴さん」
天雨は手すりに背を預けたまま、静かな目で僕を見ていた。呼ばれたのはこちらなのに、なぜか先に場所を取っていたのは天雨の方だった。今日もたぶん、偶然ではなかった。
「今日、何かあった?」
「……なんで?」
「顔が違う」
それだけ言って、天雨は視線を空へ戻した。
黒髪が秋の風にわずかに揺れた。天雨は何も聞かなかった。何かあったかを、具体的には聞かなかった。ただ、違う、という事実だけを置いて、それ以上踏み込まない。そういう距離感を、天雨はいつも正確に取ってくる。
僕は少し離れた手すりに手をかけて、天雨と同じように空を見た。白い雲が、ゆっくりと東へ流れていた。
しばらく、二人とも黙っていた。
「美鈴さん」
「うん」
「今日の放課後、会わなきゃいけない人がいる」
「そう」
「会って、ちゃんと話してくる」
天雨は、すぐには返事をしなかった。
少しだけ沈黙があった。その沈黙の長さが、いつもの天雨の呼吸のリズムとは違っていた。僕が何をしようとしているのか、天雨はそこで何かを感じ取ったのだと思う。感じ取ったまま、それでも何も聞き返さなかった。
天雨はようやく、短く息を吐いた。
「……そう」
「帰り、一人?」
「うん」
「ちゃんと、帰ってきて」
それが、何を意味する言葉なのかは、お互いに言葉にしなかった。
「うん」
僕はそう答えて、天雨の横顔を見た。
天雨は空を見たままだった。その横顔は、いつものように整っていて、いつものように静かだった。けれど、その静かさの奥に、この一週間の中で一番はっきりとした不安の色が、わずかに浮かんでいた。
僕は、その不安を見なかったふりをしなかった。
見たうえで、それでも放課後に向かう足を止めないと決めていた。天雨は、それを分かっている。分かっているから、何も聞かない。屋上の風が、僕たちの沈黙の上を、ただ静かに通り過ぎていった。
※ ※ ※
放課後。
教室を出る時、いつもより鞄が重く感じた。持ち物は変わらないのに、鞄の中に何か余計な重さが足されているみたいだった。たぶん、それは気のせいではなかった。
昇降口を抜けて、校門を出る。
待ち合わせ場所の小山までは、電車を一本乗り継いでから、少し歩く必要があった。夏の終わりに偶然行き着いた、小さな丘。街全体が見下ろせる、あの場所。あの日、相手が仕事を早く切り上げて僕を探しに来てくれたあの場所に、今日は僕の方から向かう。それが、自分なりに決めた、答えの形だった。
電車の窓の外を、秋の景色が流れていった。
車両の中は空いていた。平日の中途半端な時間だからか、乗客は数えるほどしかいない。窓際の席に座って、膝の上に鞄を置いた。流れていく景色の中で、この一週間のことを順番に思い返していた。
文化祭の最後、準備室で鍵を閉めた相手の手。自分で止めた指先の震え。伏せた睫毛。僕のシャツの裾を弱く握っていた、縋るような指。
その翌日から続いた、短い連絡。毎日届く、踏み込まないための文面。
そして、昨日、川沿いの公園で玲音が言った言葉。壊れない場所を、自分の外に作ったんだと思う。その場所が、沢渡なんじゃないの。
相手は、ずっと待っていた。僕の言葉を。僕が動き出すのを。あの花火の下で僕が言った、「いつか好きだと言えるようになっていたい」という言葉の、その「いつか」を。
待たせすぎた、と思った。
電車が目的の駅に着いて、ホームに降りると、夕方の風が少し強かった。
駅前から小山までの道は、季節の分だけ色が違っていた。夏に歩いた時は、祭りの提灯や屋台の列が並んでいた道だった。今は、秋の夕陽に染まった住宅街の道だった。人通りはほとんどなかった。ときどき、学校帰りの子どもが駆け抜けていくくらいだった。
小山の登り口に着いた時、空はすでに夕焼け色を深めていた。
登り口で、僕は一度だけ足を止めた。
ここから先へ行けば、もう戻れない。戻れない、というのは物理的な話ではなくて、自分の中で決めたことを取り消せなくなる、という意味だった。半年以上のあいだ、ずっと曖昧のままで維持してきた世界が、僕が今から口に出す言葉で、決定的に別の形に変わる。
戻らないと決めた。
僕は登り口の階段に足をかけた。
※ ※ ※
小山の頂上に辿り着くと、そこに相手はまだいなかった。
中央の一本の木と、そのまわりを囲う木のフェンス。夏の終わりに見たのと同じ光景が、ただ色だけを秋のものに変えて、静かにそこにあった。街を見下ろす景色も、夏のあの夜と同じだった。違うのは、花火の代わりに、夕陽の赤が街の屋根を一様に染めていることだった。
僕は、フェンス際まで歩いて、街を見下ろした。
夕陽を受けた街が、赤く波打っているみたいに見えた。
息を深く吸って、吐いた。
胸の中の鼓動が、いつもより少しだけ速かった。けれどその速さは、不安や混乱の速さではなかった。もう少し違う種類の、自分で選んだ道を自分の足で歩いている時の、前を向いた鼓動だった。
背後で、小山の階段を登ってくる足音がした。
少し遅れて、頂上の手前で足音が一度止まった。呼吸を整えるような、短い沈黙。それから、また足音が近づいてきた。
「……お待たせ」
声がした。
僕は、振り返った。
相手は、少し息を弾ませていた。
学校の制服ではなく、私服だった。シンプルな薄手のニットと、淡い色のロングスカート。頭には、顔が半分隠れるくらいの大きめの帽子。芸能人として外を歩く時の、目立たないための服装だった。けれど、立ち姿だけは隠しきれていなかった。どれだけ地味な格好をしても、姿勢と重心の置き方で、その人だとすぐに分かる人だった。
「急に呼び出してごめん」
「ううん」
相手は、帽子のつばを少しだけ上げて、僕の方を見た。
「呼び出されるの、待ってたから」
その一言に、この一週間全部が詰まっていた。
相手は、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。フェンスのそばで、少しだけ距離を空けて立ち止まった。夏の夜にここで抱きしめた時よりも、遠い距離だった。近づくことを、相手の方でも意識的に抑えている距離だった。
「……夏以来だね、この場所」
相手は、街の方を見ながら言った。
「うん」
「あの時も、私、仕事が早く終わって来たんだよ。覚えてる?」
「覚えてる」
僕は、相手の横顔を見た。
帽子の影に隠れていても、表情が穏やかなのは分かった。穏やかすぎるほどに、穏やかな横顔だった。この一週間、ずっと踏み込まずに短い連絡だけを続けてきた人の顔だった。僕の返事を、待ち続けてきた人の顔だった。
「沢渡くん」
相手が、先に口を開いた。
「今日、呼んでくれたのはさ」
「うん」
「文化祭の、あの日のこと?」
核心を、先に聞かれた。
僕はそれを避けなかった。
「……ある。ある、けど、それだけじゃない」
「そっか」
相手は、短く頷いた。
「あの日ね、私、本当は止まるつもりなかったの」
相手の声は、低く、そして静かだった。
「でも、止まった。どうしてか、自分でも分からなかった。あとでずっと考えてた。たぶん、沢渡くんの目を見たから。沢渡くんが、怖がってたわけじゃないんだよ。困ってたわけでもない。もっと違う顔だった。なんていうか――悲しそうな顔してた」
僕は、何も言えなかった。
「あれを見て、あ、この人は今、私の全部を受け止めてない、って思った。受け止めてないんじゃなくて、受け止めきる準備が、まだ整ってないんだって。それを無理にこじ開けたら、私、たぶん全部壊しちゃうなって」
相手は、街の方を向いたまま続けた。
「だから止めた。止めて、家に帰って、一週間、短い連絡だけ送った。沢渡くんが自分の準備を整えるのを、待ってようと思って」
「……待たせた」
「うん。待った」
相手は、ふっと笑った。
「でも、それは私が選んだ待ち方だから、謝らなくていいよ」
風が、一度だけ頂上を吹き抜けた。
相手の帽子のつばが揺れて、その下の睫毛の影が少し動いた。
僕は、深く息を吸った。
ここから先の言葉は、昨夜のうちにもう胸の中で形を作り終えていた。あとは、それを声に出すだけだった。それだけのはずなのに、口を開くのに少しだけ時間がかかった。
「この半年、ずっと色んな人から色んな感情を向けてもらってきた」
僕は、街の方を見ながら言った。
「その全部を受け止めるって決めたのは、夏の終わりのあの花火の下だった。ここで、君の前で、決めた」
相手が、ほんの少しだけ身じろぎをしたのが、横目で分かった。
「でも、受け止めるのと、答えるのは別の話だった。全員に対して受け止める顔はできても、全員に対して答えることはできない。誰かに答えるってことは、必ず、他の誰かに答えないっていう意味だったんだ。その役割を、僕はずっと避けてきた」
夕陽が、街の屋根の色を、少しずつ赤から紫に変えていった。
「自分の中に答えがないわけじゃなかった。もう、決まってた。かなり前から。たぶん、自分で自覚するよりも先に、僕の中の一番奥では、ずっと決まってた」
僕は、自分の言葉を確かめながら、ゆっくり続けた。
「でも、それを口に出す勇気が、ずっとなかった。口に出した瞬間に、他の人に対して傷つける役割を、自分が引き受けなきゃいけなくなるから。その責任を、ずっと避けてた」
「分かるよ」
相手が、小さく言った。
「沢渡くんは、優しいから」
「優しいんじゃない。ただ、逃げてただけだ」
自分で言った。自分の口から、はっきりそう言った。この一週間ずっと、自分の中で認めきれなかったことを、初めて声に出して、自分のこととして認めた。
「逃げてた自分を、全部認める。認めて、ちゃんと動く」
相手は、顔をこちらへ向けた。
帽子のつばの下から、その目が僕を見ていた。目が、少し潤んでいた。潤んでいるのに、真っ直ぐだった。
「……うん」
「今日、ここに来たのは」
僕は、一度呼吸を整えた。
「君に、ちゃんと言葉を渡すために来た」
街の夕陽が、相手の輪郭を淡く縁取っていた。
その姿を見ながら、僕は続けた。
「夏の花火の下で、僕は君に「いつか好きだと言えるようになっていたい」って言った。その「いつか」を、ずっと延ばしてきた。延ばしてる間、君はずっと待ってくれてた。東京ドームのあとから、文化祭のあとまで、ずっと。待たせたまま、僕は色んな人に中途半端な顔を見せ続けてた。そのことを、本当にごめん」
相手は、何も言わなかった。
ただ、僕の言葉を、目で受け取っていた。
「それでも、君はずっと僕の側にいてくれた。重くて、面倒くさくて、独占欲が強くて、少し危うくて――その全部が、たぶん、君が本気で僕のことを離したくないって、そう思ってくれてる証拠だった。文化祭の最後に止まった指の震えも、一週間短い連絡だけを続けてくれた静けさも、全部、僕のための優しさだった。君は自分を抑えてまで、僕の側に居続けてくれた」
夕陽が、山の稜線に沈みかけていた。
空の色が、赤から濃い紫に、そして藍色へと静かに変わっていく境目の時間だった。
「君は、ステージで見てきた人間の中で、たぶん、一番強い人だと思う。完璧で、綺麗で、届かないと思ってた。でも、僕の前ではその完璧を自分で崩してくれる人だった。崩した時の君は、強いだけじゃなくて、脆くて、不器用で、本当の意味で綺麗だった。たぶん、僕はそれに気づいた時にはもう、君のことが好きだった。自覚したのは、ずっとあとだったけど」
相手の呼吸が、わずかに乱れたのが分かった。
帽子のつばの下で、目が揺れていた。
「だから」
僕は、言葉を区切った。
自分の胸の鼓動を、そのまま次の一言に乗せるために、一度だけ深く息を吸った。
「その全部をひっくるめて、君が好きだ」
そして、その人の名前を呼んだ。
「白須賀さん」
夕陽が、沈んだ。
空の最後の赤みが、小山の頂上に残っていた。その赤みの中で、白須賀沙也加は、帽子のつばの下で、静かに目を見開いていた。
頬に、涙の筋が一本、ゆっくりと伝っていた。
泣いているのに、口元は笑っていた。涙と笑顔が同じ顔に同時にある、その表情を、僕はこの半年以上の付き合いの中で、初めて見た。
「……沢渡くん」
白須賀の声は、震えていた。
「それ、録音しといてって、何度も言ったのに」
それが、白須賀沙也加らしい第一声だった。
涙を流しながら、国民的トップアイドルは、僕を見て、泣いたまま笑っていた。
山の上を、秋の最後の夕陽が染めていた。
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