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軽い気持ちで国民的アイドルと友達になったら、周りの美少女達から激重感情をぶつけられる件――え!? トップアイドルの君まで!?  作者: 沢田美


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終わり

 文化祭が終わるまで、白須賀は最後まで完璧な看板娘だった。


 来客の波が一番厚かった午後の時間帯も、その後のピーク明けの緩やかな残り時間も、白須賀は笑顔を崩さずに客を捌き続けた。トレイを運ぶ仕草、客へ向ける角度、声のトーン。どれひとつ取っても緩みはなく、ただ綺麗で、ただ華やかで、ただ文化祭という行事の中で"白須賀沙也加"であり続けた。


 けれど、その完璧さが逆に僕には重かった。


 準備室で見せたあの顔と、この綺麗な看板娘の顔が、同じ人間の中に同居している。その事実をもう僕は知っている。知っているのに、他の客はただ眩しそうに彼女を眺めている。その温度差が、ずっと胸の奥でちりちりと熱を持っていた。


 閉場の時刻が来て、客の最後の一組が暖簾をくぐって出ていくと、クラスの空気がようやく緩んだ。拍手と、疲労の声と、達成感混じりの雑談が一斉にあふれ出す。厨房担当だったクラスメイトがエプロンを外しながら伸びをしている。会計台では天雨が釣銭箱を閉じて、最後の合計を確認していた。


 ここからは、撤収作業だった。


 机を戻し、暖簾を外し、装飾を剥がし、借りた備品を元の場所へ返す。段ボールに詰めるものと、廊下のゴミ袋にまとめるもの。そういう地味で煩雑な作業が、文化祭の締めくくりとして必ず残される。疲れ切った生徒ほど、この撤収で最後に気力を削られるのが通例だった。


 クラス委員の指示で、役割が振り分けられていく。暖簾と大道具の撤収、厨房の片付け、会計の締め、備品の返却。僕の名前が呼ばれたのは、備品返却の組だった。


 渡された紙には、返却先として準備室と、その隣の小用具室の名前が書かれていた。段ボールひとつ分の備品を、それぞれ元あった場所へ戻す作業。一人で十分こなせる量だ。クラス委員もそう判断したのだろう。


 そして、その紙を受け取った時に、視界の端で白須賀がこちらを見ていた。


 ほんの一秒だった。笑顔のまま、他のクラスメイトと喋っているふりをしたまま、彼女の視線が僕の手元の紙をすっと確認した。確認した、という表現がちょうどいい。作業の割り振りを、把握した目だった。


 嫌な予感が背筋を通った。けれど、その予感に抗う言葉も行動も、今の僕にはなかった。段ボールを抱えて、教室を出る。廊下は相変わらず文化祭の熱気の残滓で満ちていて、他クラスの生徒が装飾を抱えて行き来している。自分のクラスの騒がしさが、一歩外へ出ただけで少し遠くなった。


 準備室へ向かう。


 備品のひとつ、小さな木箱を元の棚へ戻した。もう一往復しなければならない量だったから、段ボールを一度床に置いて、残りを先に運ぶか迷っていたその時だった。


 背後で、扉が閉まる音がした。


 振り返る前に、鍵の回る金属の音が、狭い準備室の中でやけに鋭く響いた。


 僕の心臓が、一拍だけ詰まった。


 振り返ると、扉を背にして白須賀が立っていた。


 白須賀はエプロンをもう外していて、文化祭中に羽織っていた和装の雰囲気は少しだけ薄れていた。けれど、髪はまだ文化祭仕様のまま軽く結ってあって、後れ毛が頬に一筋落ちている。鍵を持った手をゆっくりと下ろして、鍵はそのまま制服のスカートのポケットへ滑り込んだ。その動作が、ひどく静かで、ひどく意図的だった。


 白須賀は何も言わなかった。


 何も言わないまま、ただ、こちらへ歩いてくる。


 一歩、二歩。準備室の床を踏む音が、普段の昼間の音より遥かに大きく聞こえた。備品棚が壁際に迫っていて、僕が逃げられる方向は最初から限られていた。たぶん白須賀はそれも計算して入ってきた。昼の休憩で一度使ったこの部屋の造りを、彼女はもう完全に把握している。


 僕は無意識に一歩下がった。背中が棚に当たる。昼と同じだ。昼と、全く同じ位置まで詰められていた。


 白須賀の顔が、目の前にあった。


 白須賀の瞳は、文化祭中に客へ向けていた時のアイドルの瞳じゃなかった。笑顔もなかった。焦りもなかった。ただ、ひどく静かに、ひどく真っ直ぐに、僕だけを見ている瞳だった。この一日じゅう押し込めてきた感情の蓋が、鍵を閉めた瞬間から完全に外れているのが分かった。


 白須賀の手が、僕の肩を押した。


 強くはない。けれど、迷いのない力だった。背中の棚と床の境目に身体が沿う。白須賀は両手で僕の肩を押さえたまま、そのままゆっくりと体重をかけてくる。床に並べてあった段ボールのひとつに背中が当たって、僕はそのまま床へ座らされる形になった。段ボールが潰れる鈍い音が、狭い部屋の空気を余計に密度のあるものに変えた。


 座らされた僕の上に、白須賀が膝をつく。


 押し倒された、という表現が一番近かった。完全に仰向けにされたわけではなかったけれど、逃げ場のない姿勢だった。床に背をつけたまま、僕の視界いっぱいに白須賀の顔がある。後れ毛がはらりと揺れて、僕の頬にかかる。甘い香りが鼻先いっぱいに落ちてきた。文化祭のあいだじゅう彼女から漂っていた香りが、今この距離になって初めて、僕を追い詰めるための匂いだったと分かった。


「……白須賀」


 僕は辛うじて、その名前だけを口にした。


 けれど言葉はそこまでだった。


 白須賀の唇が、僕の唇に押し当てられた。


 普段のキスじゃなかった。挨拶みたいな触れ方でも、味を占めた人間の悪戯みたいな軽さでもなかった。重ねた、というより塞いだ、という方が近い。僕が何かを言おうとしている、その口の動きをまるごと封じるためのキスだった。唇が押し当てられた瞬間に、白須賀の指が僕の顎へ添えられて、逃げ道を塞いでくる。角度を変えて、もう一度深く唇を合わせてくる。


 呼吸が乱れた。


 白須賀の舌先が、僕の唇をゆっくりなぞった。誘うように、もう一度塞ぐように、白須賀の吐息が僕の口の中へ入り込んでくる。拒否するための言葉は全部、キスの奥で飲み込まれた。何度か角度を変えて、そのたびに白須賀の指が僕の顎を押さえる位置を少しずつずらしていく。拒絶を許さない角度が、最初から全部組み立てられていた。甘い。ただ甘いだけじゃない。甘さの奥に、はっきりと独占の味がする。僕が今日一日のあいだに他の誰かへ向けた視線や言葉を、全部この一回のキスで上書きしようとしているのが分かってしまう。


 数秒だったのか、十数秒だったのか、時間の感覚は完全にねじれた。


 ようやく白須賀の唇が離れた時、僕の呼吸は明らかに浅くなっていた。


 白須賀の唇は濡れていた。唾液が細く糸を引いて、僕の唇との間をわずかに繋いでから切れた。白須賀はそれを指先で拭うこともせず、ただじっと僕を見下ろしていた。呼吸だけが、彼女の方も少し乱れていて、胸元が小さく上下している。文化祭のあいだの完璧な看板娘の顔は、この準備室にはもうひとかけらも残っていなかった。


 白須賀の視線が、僕の目を貫く。


 アイドルとしてステージから客席を見るときの目ではなかった。クラスメイトと笑い合うときの目でもなかった。今この瞬間、僕を、ただ一人の自分のものを見下ろしている目だった。欲しい、ではなかった。もう自分のものだ、という視線だった。


 白須賀の指が、僕のシャツの襟元にかかった。


 ゆっくりと、シャツの合わせを辿るように下りていく。喉のすぐ下、胸元のあたり。文化祭中に白須賀が押さえつけた場所と、ちょうど同じ位置だ。白須賀はそこで一度だけ止まって、それから僕の表情を確認するように視線を動かした。何かを待っているようでも、何かを確かめているようでもあった。


 そして、白須賀自身のブラウスの釦へ指を移した。


 一番上の釦が、ゆっくりと外れた。


 金属音のない、ただ布が緩む音。狭い準備室の中では、その音がやけに耳に残った。白須賀はこちらを見たまま、二番目の釦を外した。続いて三番目。


 白いブラウスの合わせが、少しずつ開いていく。


 露わになったのは、下着の上辺だった。淡い色の、レースの縁取りが付いた薄い生地。その下に押さえ込まれた白須賀の胸のふくらみが、ブラウスの合わせの陰から息づいている。呼吸のたびにわずかに上下する。文化祭の一日を通して着ていた制服の下に、こんなに生々しいものが隠れていたのだと知らされた瞬間だった。


 白須賀の肌は、白かった。


 白くて、照明の蛍光灯を受けて、鎖骨の影がやけに綺麗に落ちていた。首筋から鎖骨までの線、そこから胸の膨らみへ流れるまでの稜線が、すべて生々しく目の前にあった。僕は視線を外すことも、受け止めることも、どちらも上手くできなかった。


 白須賀の呼吸が、ほんの少しだけ震えていた。


 綺麗な笑顔ひとつで何万人もの客席を呑み込める人間が、今だけはその呼吸を隠しきれていない。胸元が上下するたびに、下着のレースと、その下の柔らかさの境目が、照明の加減で微かにかたちを変える。蛍光灯の冷たい光の下だからこそ、余計にその白さが際立って見えた。


 白須賀の指が、四番目の釦へかかった。


 かかったまま、止まった。


 止まったのは、白須賀の意志だった。僕が止めたんじゃない。僕はこの瞬間、身体のどこにも止めるだけの力が残っていなかった。蛍光灯の白い光と、段ボールの背と、白須賀の呼吸だけが、この狭い世界の全部だった。止めたのは、白須賀自身だ。


 白須賀は、ブラウスの四番目の釦に指をかけたまま、長く息を吐いた。


 そして、ほんの少しだけ、目を伏せた。


 その目の伏せ方が、今日一日の中で一番幼く見えた。準備室の蛍光灯の光が、伏せた睫毛の下に小さな影を作った。文化祭で客へ向けていた笑顔も、接客中の完璧な声も、この瞬間の伏せた睫毛の前では全部虚構みたいに思えた。白須賀沙也加という国民的トップアイドルの正体が、今ここで、乱れた呼吸と伏せた睫毛だけに収斂していた。


 白須賀は、しばらくそのまま動かなかった。


 指がブラウスの釦にかかったまま、動かない。胸元はわずかにはだけたまま、動かない。僕を見下ろしているというより、自分の中の何かを計っているような静けさだった。欲しい、と身体全部で言いながら、同時に、ここで越えてはいけない線がどこにあるかを必死に測っている。白須賀の中で、ふたつの感情がきれいに拮抗して、ほんの一本の糸の上でようやく止まっている。そういう静けさだった。


 やがて白須賀は、ゆっくりとブラウスの合わせを直した。


 四番目の釦をかけ、三番目を留め、二番目を閉じ、一番上まで戻していく。ひとつひとつの動作が、さっき外していった時よりも遥かに丁寧だった。指先が震えているのが、僕からでも分かった。震えを隠すために丁寧な動作になっているのだと、そう気付いた時には、胸の奥の方が少しだけ痛かった。


 釦を全部戻し終えても、白須賀はまだ僕の上から退かなかった。


 退かないまま、僕の肩口の少し上、シャツの乱れた襟元の辺りへ、自分の額をそっと押し当てた。キスのような積極性はもう残っていなくて、ただ寄りかかるだけの動作だった。白須賀の髪が頬に落ちて、甘い香りがまた近くなった。呼吸がようやく少し落ち着いてきたのが、額越しの振動で伝わってきた。


 準備室の外では、文化祭の撤収の物音が続いていた。


 廊下の遠くでクラスメイトが段ボールを運ぶ音、誰かの笑い声、装飾を外すガムテープを剥がす音。どれも、扉一枚を挟んで届いてきていた。鍵のかかった準備室の中だけが、世界から切り離されて、文化祭の喧騒から切り取られていた。


 白須賀は長いこと、僕の肩口に額を押し当てたままだった。


 そのあいだ、白須賀は一度も泣かなかったし、一度も言葉を発さなかった。


 ただ、白須賀の指が、僕のシャツの裾を弱く握っていた。さっきまで僕を押さえつけていた指が、今は縋るように布を掴んでいる。強くない。強くないのに、離す気はない。そういう握り方だった。


 その握り方が、たぶん、今日の白須賀の感情の全部だった。


 押し倒しておいて、ブラウスを三つまで外しておいて、それでも最後の一線の手前で止まって、離れるのではなく縋るように布を掴む。それが白須賀沙也加だった。面倒くさくて、重くて、危うくて、それでも僕を本気で離す気のない、ただの一人の女の子だった。


 僕は片手を、白須賀の背中へそっと添えた。


 添えるだけだった。強く抱き返すことも、押し戻すこともしなかった。ただ、ここにいる、とだけ伝わればいい位置に手を置いた。


 それが伝わったのか、白須賀の握っていた裾の指が、ほんのわずかに緩んだ。


 緩んだけれど、離れはしなかった。


 やがて、準備室の扉の向こうから、誰かが小走りに走ってくる音がした。廊下のどこか遠くで、クラス委員らしき声が「備品返却まだ終わってない組、こっち持ってきてくれー」と叫んでいた。


 白須賀は、その声でようやく顔を上げた。


 上げた白須賀の目は、さっきまでの獰猛さを全部どこかへ仕舞った後だった。代わりに、少しだけ気まずそうな色が滲んでいた。国民的トップアイドルの顔でもなく、準備室で鍵を閉めてきた時の捕食者の顔でもない、今日はじめて見る表情だった。


 白須賀は僕の上からゆっくりと退いて、床に座り直した。


 制服のスカートのポケットから鍵を取り出して、扉のところまで歩いていく。鍵を回す音、扉をわずかに開ける音。廊下の喧騒が、隙間から一気に流れ込んできた。文化祭の最後の音。片付けと、疲労と、達成感の混ざった、いつもの学校の音だった。


 白須賀は扉を開けたまま、一度だけ僕を振り返った。


 その目はもう、普通の白須賀の目だった。けれど、その奥に、今日ここで起きたことは絶対に忘れないという色が、はっきりと残っていた。忘れないし、忘れさせない。そういう目だった。


 白須賀は、静かに言った。


「……続きは、またね」


 その一言だけを残して、白須賀は廊下へ出ていった。


 準備室の中に残された僕は、しばらく床から立ち上がることができなかった。


 蛍光灯の白い光が、段ボールの積まれた壁を照らしている。潰れた段ボールの形が、さっきまでそこに押し倒されていた僕の重みを正確に記録していた。白須賀の香りが、まだ部屋の空気に残っていた。ブラウスの合わせから覗いた下着の色も、震えていた指先も、伏せた睫毛も、最後に掴まれた裾の感触も、全部鮮明に残っていた。


 文化祭は、これで終わりだった。


 行事としては、無事に成功裏に幕を閉じるのだろう。クラスの売り上げも、客の評判も、きっと悪くない。みんなが笑って片付けをして、明日からまた日常が始まる。そういう通常の学校行事の締め方を、多分この校舎の他の場所では全員がしている。


 ただ、僕にとっての文化祭の終わり方は、もう別物だった。


 国民的トップアイドルで、重くて、面倒くさくて、僕のことを本気で離す気のない彼女が、今日、自分で鍵を閉めて、自分で最後の一線の手前で止まった。その事実の方が、どんな売り上げや評判よりも重く、胸の奥に焼きついて離れなかった。


 僕はようやく立ち上がって、潰れた段ボールを棚の端へ寄せた。残っていた備品をゆっくりと棚へ戻していく。手の動きはいつも通りに戻ろうとしていたけれど、指先がまだ少し震えていた。


 扉を開けて、廊下へ出る。


 秋の夕方の光が、廊下の窓から差し込んでいた。文化祭が終わるいつもの時間の、いつもの光だった。けれど、その光の色が、今日だけはやけに濃く見えた。


 遠くで、クラスメイトが僕を呼ぶ声がした。


 僕は息をひとつ吐いて、その声の方へ歩き出した。


 ――続きは、またね。


 白須賀の最後の一言だけが、廊下の光の中でも、耳の奥にしっかりと残り続けていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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