思い出させてあげる
死角からフロアへ戻るまでの数歩が、ひどく長く感じられた。
暖簾の向こうでは、和風喫茶らしい柔らかなざわめきが続いている。客の笑い声、食器の触れ合う音、注文を読み上げる声。文化祭として見れば賑やかで、成功している部類に入るのだろう。けれど僕の胸の内には、そんな平和な評価とは程遠い熱が残っていた。
白須賀に棚際まで追い詰められた時の距離感が、まだ身体のどこかへ残っている。
天雨に「無理なら私の方へ来て」と言われた時の、あまりに静かな圧も消えていない。
文化祭の教室は人で溢れているのに、僕の周囲だけは常に逃げ場のない密室みたいだった。
それでも接客は続く。
止まらない。文化祭という行事は、個人の感情なんて待ってくれない。客が来れば案内し、注文を受け、厨房へ伝票を回し、料理ができれば運ぶ。そういう当たり前の動作を繰り返している間も、視界の端には必ず白須賀か天雨のどちらかがいた。
白須賀は相変わらず、完璧な看板娘だった。
客に笑いかける時の角度も、言葉の選び方も、トレイを持つ仕草ひとつまで画になっている。国民的トップアイドルが文化祭の和風喫茶へ紛れ込んだ、そんな異物感すら彼女は魅力へ変えてしまう。だからこそ、店内の客は誰もが少なからず彼女へ視線を向ける。向けて、見惚れて、少しだけ得をしたような顔になる。
だが、その白須賀は、僕が他の卓へ行くたびに必ず一度は目で追っていた。
笑顔のまま。接客の声色のまま。なのにその視線だけが、あまりにも私的だ。
天雨は反対に、会計台の内側で静かに全体を支えていた。
注文票の整理、釣り銭の補充、混雑時の客の流し方、厨房との連携。誰かが手を抜けばすぐ崩れる部分を、彼女は寸分の乱れもなく整えている。表へ出す感情はほとんどない。ないのに、僕が白須賀と並ぶ時や、他の女子と数秒長く話す時だけ、視線の温度が変わるのが分かってしまう。
忙しい店内を回る間、僕は自分が接客をしているのか、それとも二人の視界の中で常に査定されているのか、時々分からなくなった。
そんな中で、一番分かりやすく空気を掻き回していたのは吉良明日香だった。
彼女はただ純粋に文化祭を楽しんでいる顔をして、追加の甘味を頼み、店内の小物を褒め、白須賀が近くを通れば素直に「本物ってすごいね」と感心する。その屈託のなさが、逆に厄介だった。
彼女に悪気はない。
ないからこそ、白須賀も天雨も正面からは切れない。けれど切れないまま積もる感情の方が、今の二人にはよほど危険だった。
明日香たちの卓へ抹茶セットを運んだ時もそうだった。
僕が盆を置くと、明日香は楽しそうに身を乗り出す。
「ほんと、似合うね。沢渡くん、こういう和風の店員」
その一言に、胸の奥が少しだけ嫌な音を立てる。
分かっていた。こういう何気ない好意的な言葉が、今の状況では一番まずい。
静は隣で湯呑みに手を添えながら、その空気を察したらしい。天真爛漫な明日香の方へ視線も向けず、ただ静かな声で言った。
「明日香、少しは周り見た方がいい」
「え?」
「あなたが楽しそうに話すほど、余計な人たちが面倒になるから」
言い方は淡々としているのに、妙に核心を突いていた。
明日香はそこでようやく周囲を見回し、何かを察したのか、小さく「わ」と漏らした。
その時にはもう遅い。
ちょうど通路の向こう側で、白須賀が別の客へお茶を注いでいた。笑顔は崩れていない。崩れていないくせに、その目だけがこちらを見ていた。
会計台の方では、天雨が伝票を受け取る手を一瞬だけ止めている。
玲音だけが、その全部を面白がるでもなく、冷静に見ていた。
帽子のつばを少しだけ持ち上げ、僕へ視線を向ける。その目は、芸能界で何度もこういう“表と裏のズレ”を見てきた人間のそれだった。
「大変そうね」
小さな声だった。
僕しか拾えない程度の、しかし妙に明確な言葉。
「見てれば分かるわ。あれ、どっちも普通の取り合いじゃない」
否定しようがなかった。
玲音はそこで、白須賀の方を横目で一度だけ見た。長い付き合いがある人間にしか分からない諦め混じりの理解が、その視線にはあった。
「沙也加、仕事中の顔してる時の方が危ないことあるのよね」
それは忠告というより、確認に近かった。
そしてその確認通りのことが、すぐ次に起きた。
※ ※ ※
昼の混雑が少し引いた頃、白須賀は「交代で休憩入ろっか」とごく自然に言った。
クラス全体の進行としては正しい提案だった。厨房も会計も接客も、ぶっ続けでは持たない。だから数人ずつ裏へ下がって、飲み物を飲んだり、軽く座ったりする時間を取ることになっていた。
問題は、その“休憩メンバー”に僕の名前が入ったことだ。
しかも白須賀が当然のように一緒だった。
さらに悪いことに、休憩場所へ指定されたのは隣の準備室だった。文化祭の備品や段ボールを置くために使っている小部屋で、客の視線は届きにくい。人目が切れる。その事実だけで、嫌な予感しかしなかった。
準備室へ入ると、思っていた以上に狭かった。
段ボールと備品棚があるせいで動ける範囲が限られている。窓はあるが、廊下側ではなく裏手の校庭に向いていて、昼の喧騒もここまではあまり入ってこない。扉ひとつ隔てただけなのに、教室とは別の場所みたいだった。
僕が扉の近くへ立ったまま、軽く息を吐いたその瞬間だった。
白須賀がこちらへ歩いてくる。
歩いてくる、その一歩一歩にためらいがない。どこまで近づけば僕が逃げにくいか、もう完全に分かっている足取りだった。
「……白須賀さん」
「なに?」
「休憩だろ」
「うん。だからちょっと、休ませて」
その言い方の時点で、もう話が普通の休憩ではないと分かる。
白須賀は僕のすぐ前で止まり、数秒だけ何も言わずに見上げてきた。長い睫毛、整った輪郭、和装エプロン姿のままでも隠しきれない華。近づかれるほど、この子がどれだけ綺麗かが逆に分かってしまうのが厄介だった。
「沢渡くん」
「なに」
「今日、ずっと我慢してるんだよ」
またその話か、と思ったのに、今回は今までと少し違った。
白須賀の声が、前よりもずっと低かった。明るく拗ねるみたいな軽さがなく、ただ静かに、重く落ちてくる。
「明日香ちゃんたちが来てから、もっと無理」
そう言いながら、白須賀の手が僕の腰へ伸びる。エプロン越しに触れるだけのはずなのに、その動きがやけに色っぽい。
「芸能界の子たちって、距離の詰め方に躊躇ないでしょ」
「別に、普通に客として来ただけだ」
「うん。でも、沢渡くんが普通に返すから嫌」
そこで白須賀はさらに一歩詰めた。
僕の背中が備品棚へ当たる。木の板の硬さが制服越しに伝わる。目の前には白須賀がいる。完全に挟まれた。
「だって、明日香ちゃんが楽しそうにしてるとき、沢渡くん、ちょっと柔らかい顔する」
そこまで見ていたのかと思うと、薄く背筋が冷える。
「玲音には気を遣うし、静ちゃんには変に警戒しないし」
全部見ている。
客席を回りながら、その全部を拾って、自分の中へ溜めていたのだと分かる。
「やめてくれよ」
「やめない」
即答だった。
白須賀は僕の腰へ置いていた手を、そのままゆっくり上へ滑らせる。喉元の少し下、シャツの合わせ目のあたりで止まり、そこで指先が、わざと少しだけ力を込めた。
息が浅くなる。
白須賀はそれを見て、小さく目を細める。
「ほら、やっぱりここ弱い」
囁きは甘い。甘いのに、完全に脅しだった。
「文化祭中だから大きなことしないようにしてたけど」
その声のまま、白須賀はもう片方の手も上げる。今度は僕の肩へ置かれた。押さえつけるほどではない。けれど、ここから動こうとしたらきっと止められる位置だった。
「沢渡くんが他の子にばっかり優しくするなら、私も加減やめるよ」
その言葉が、棚の硬さよりずっと強く僕の背を追い詰める。
「今だって、このままもっと近くして困らせてもいいんだよ」
白須賀の顔が近づく。
唇が触れそうなところまでは来ない。来ない代わりに、鼻先がかすかに触れそうな距離で止まる。その絶妙な近さが、かえって危ない。
「……校内だぞ」
「だから我慢してるって言ってるの」
またそれだ。
白須賀は本当に、今のこの距離感を“我慢している方”だと思っている。
「終わったあと、明日香ちゃんたちとまた話すつもり?」
「文化祭なんだから、少しはあるかもしれないだろ」
「あるんだ」
そこだけ、声が落ちた。
次の瞬間、白須賀は僕の胸元を掴むようにきゅっと寄せた。強くはない。だが、距離を詰めて呼吸を狂わせるには十分な力だった。
「やっぱり嫌」
その一言がひどく生っぽい。
「文化祭終わったあとも、他の子と楽しそうにするの見たら、許さない」
許さない、という言葉の意味が軽くないことを、僕はもう知っている。
「だから、今のうちに言っておく」
押さえられた胸元のあたりで、鼓動が自分でも分かるくらい速くなる。
「今日、このあと他の子に捕まっても、あんまり楽しそうにしないで」
理不尽だった。理不尽なのに、白須賀は本気でそう言っている。
「じゃないと」
そこで白須賀は、胸元から手を離さないまま、耳元へ近い距離まで顔を寄せた。
「みんなが見てる前でも、ずっと隣から離れない」
脅しだった。
しかも、文化祭という“人が多い場所”をそのまま人質に取る形の。
「注文取る時も、お茶出す時も、休憩の時も、全部」
耳へ落ちる声が甘いせいで、中身の危うさが余計に際立つ。
「沢渡くんが誰を見ればいいか、ずっと隣で教えてあげる」
その時、準備室の扉がノックされた。
空気が一瞬止まる。
白須賀はすぐには離れない。数秒だけ、そのまま僕を見たあと、ようやく胸元から手を離す。その指先が最後にシャツの乱れを撫でて整えるのが、やけに腹立たしかった。
「……はい」
白須賀が普段通りの声で返事をすると、扉が開いた。
立っていたのは天雨だった。
会計用のファイルを抱えたまま、準備室の中をひと目見て、その目が一瞬だけ細くなる。白須賀との距離も、僕の背中が棚へ触れていることも、白須賀の手がさっきまでどこにあったかも、たぶん全部見えている。
「休憩、終わり」
淡々とした声だった。
白須賀は何事もなかったみたいに振り返る。
「今戻るよ」
その笑顔が逆に怖い。
天雨は何も言わずにこちらを見た。その沈黙の中に、白須賀がやったことへの苛立ちと、同じことを自分もできるという静かな自負が混ざっているのが分かる。
そして、その予感は外れなかった。
※ ※ ※
午後の来客がさらに増えると、教室の中はほとんど途切れなく客が入るようになった。
一般客に混じって、他クラスの生徒や下級生も増えてくる。和風喫茶は予想以上に評判が良く、白須賀目当てで来る人間も、純粋に雰囲気を楽しみに来る人間もいる。
忙しさの中で、僕は一度会計台へ呼ばれた。
在庫確認と追加伝票の整理。それだけなら本当にただの作業だ。だが、会計台の奥へ入った瞬間、天雨がさりげなくこちらの進路を塞ぐ位置に立った。
狭い。
帳簿、釣り銭箱、トレー、筆記具。必要なものが並ぶ裏側は、二人が並べば十分狭い。その狭さの中で、天雨はファイルを僕へ渡しながら、わざと手を離さなかった。
「これ、確認して」
「……うん、美鈴さん」
「白須賀さんに何言われたの?」
いきなり核心だった。
僕が反応に困ると、天雨は静かに続ける。
「さっきの準備室」
見ていたのではない。ただ、出てきた後の空気と、乱れたシャツの感じと、白須賀の目を見れば十分だったのだろう。
「別に、大したことじゃ」
「うそ」
今度は天雨が即答する番だった。
彼女はファイルを机へ置くと、そのまま僕の肩先へ静かに触れた。軽い。軽いのに、そのまま逃げ道を封じるみたいに位置を取る。
「あなた、分かりやすい」
声が低い。
「白須賀さんに近づかれたあとの顔、少しだけ変わるもの」
その観察眼が嫌になる。
しかも天雨は、それを嫌味っぽく使わない。ただ当然みたいに事実として突きつける。その冷たさの方がよほど効く。
「……で、美鈴さんは何しに呼んだの」
「確認」
「何を」
「私が遅れていないか」
その言い方に、喉がわずかに乾く。
天雨は肩先に置いた手をそのまま少し滑らせ、今度は胸元の布地を整えるように軽く触れた。大きな動きではない。けれど、この狭さではそれだけで十分だ。
「白須賀さんは、すぐ目に見える形で欲しがる」
淡々とした分析だった。
「でも、私は違う」
知っている。
知っているからこそ、その先が怖かった。
天雨はそのまま、僕との距離をさらに少しだけ縮めた。会計台の内側だから、客席からは見えにくい。見えにくい場所を、天雨はちゃんと選んでいる。
「私なら、あなたが客に笑ってても、他の子と話してても、そのあとここへ戻して思い出させられる」
その一言に、背筋が冷たくなる。
「誰の言葉の方が、最後に残るか」
静かなのに、十分すぎるほどの脅しだった。
そこで天雨は、胸元を整えるふりのまま、僕を少しだけ自分の方へ寄せた。大きな動きではない。けれど、この狭さではそれだけで十分だ。
「だから、あまり安心しないで」
顔が近い。
白須賀みたいに勢いで来ない分だけ、天雨の近さはじわじわと逃げ道を奪う。
「私は、静かに邪魔する方が得意だから」
その時、会計台の外で客を呼ぶ声がした。クラスメイトの誰かだ。
天雨は一拍だけ僕を見たあと、何事もなかったみたいにファイルを手渡して離れる。その戻り方の自然さが、かえってぞっとする。
文化祭はまだ終わらない。
忙しさも、客も、感情も、まだこれからだ。
白須賀は分かりやすく奪いに来る。
天雨は見えない場所で囲い込む。
そのどちらも本気だと分かってしまうから、僕はもう、ただの行事として今日を過ごせる気がしなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




