分からせるよ?
吉良明日香、西条静、神崎玲音。
その三人が同時に文化祭の教室へ入ってきた瞬間、和風喫茶の空気はほんのわずかに、けれど確実に質を変えた。
一般客が来ること自体は想定の範囲内だ。近隣の学生や保護者、卒業生まで出入りする文化祭で、顔見知りがふらりと現れることもあるだろう。けれど、僕にとってこの三人は“ただの来客”では済まない。そしてそれを、白須賀も天雨も一目で理解してしまった。
厄介だったのは、三人とも場に馴染むのが上手いことだった。
明日香は明るさで空気を持っていく。初めて来た文化祭にはしゃぐ学生らしい顔で、周囲の視線まで味方につける。静は逆に静けさで目立つ。騒がしい教室の中でひとりだけ温度の違う落ち着きを持っているせいで、かえってよく目立つ。そして玲音は、帽子とマスクで隠しているのに、立っているだけで“普通じゃない”と分かってしまうタイプだった。
芸能界側の空気を纏った人間が、こんな狭い教室へ揃って入ってくる。
それだけで十分に異常だ。
だが、客から見れば、ただ少し華やかな来訪者でしかない。だからこそ表立って何かが起きるわけでもなく、その代わりにこちら側の温度だけがじわじわ上がっていく。
僕は案内役として、三人を奥の席へ通した。
畳柄のマットを敷いた半個室風の区画で、周囲からは少し視線が切れる。普段ならありがたい席だ。けれど今の僕にとっては、逆に面倒ごとを濃くするだけの配置だった。
明日香は座るなり、店内をきらきらした目で見回した。
文化祭らしい手作り感の残る装飾にも、本物の和風喫茶を真似た細かい小物にも、いちいち素直に反応してくれる。その明るさは、何も知らないクラスメイトたちからすればありがたい客でしかないだろう。
静はそんな明日香の横で静かに座り、視線だけを店内へ巡らせていた。見ている場所は少しも騒がしくないのに、何をどう見ているのか、こちらには妙に伝わる。玲音は最後に腰を下ろし、帽子のつばを少しだけ上げて教室の中を眺めたあと、ようやく僕を見た。
その視線の意味を考えないでいられるほど、僕は鈍くない。
「いらっしゃいませ」
接客の台詞として、できるだけ平坦に言う。
明日香がにっと笑った。
「なんか変な感じ。沢渡くんがこういう格好でお店やってるの」
その一言だけで、周囲の何人かがこちらを見る。
僕は思わず背筋を固くした。
明日香に悪気がないのは分かっている。けれど、彼女の明るさは時々、悪気がないまま状況を最悪に持っていく。
静がその横で、小さく息をついた。
「最初に名前で呼ぶの、やめた方がいいと思う」
「え、なんで?」
「見られてるから」
淡々としているのに、その指摘は的確だった。
たしかに、教室の端ではすでに白須賀がこちらを見ている。客へ向ける笑顔は崩さないまま、目の奥だけで明らかにこちらを捉えていた。会計台の向こうでは天雨も伝票を整理する手を止めずに、しかし確実にこの席の会話を拾っている。
玲音はそんな空気をひと目見ただけで把握したらしく、帽子の影からわずかに口元を緩めた。
「相変わらず、面倒なことになってるわね」
小さな声だった。
僕にしか聞こえない程度の低さだったが、その一言だけで胃が痛くなる。
玲音は白須賀の事情のことも知っている。同業者としての距離感がある分、表面上の完璧さと、その裏にある危うさの両方を理解している数少ない人間だ。だからこそ、その言葉には妙な重みがあった。
明日香はそんな二人の空気に気づいているのかいないのか、メニュー表を手に取って楽しそうに顔を上げた。
「おすすめどれ?」
助かった、と少しだけ思った。
話題が逸れる。それだけで今は十分だった。
僕が説明を始めると、明日香はメニューを指先でなぞりながら真剣に迷い始める。静は静で、飾りすぎない抹茶セットを選びそうな顔をしながら、結局明日香と違うものを選ぶことでバランスを取る。玲音は一番高いセットを当然みたいに頼んで、追加で甘味までつけた。
注文票を書き終えて顔を上げた時、すぐ横に白須賀が立っていた。
まるで最初からそこにいたみたいな自然さだった。
「こちら、私が担当するね」
客へ向ける笑顔だ。
笑顔のまま、白須賀は僕の手から注文票を取る。その瞬間だけ、指先がやけに長く絡む。白須賀の横顔は誰から見ても完璧なのに、その指先だけが露骨だった。
明日香がその華やかさに一瞬だけ目を丸くした。
「……白須賀さん?」
「はい。今日は文化祭の店員さんです」
白須賀は明るく答える。
国民的トップアイドルが、自分の正体を知る相手に対してもまったく崩れない。その完成度に、明日香は素直に感心したようだった。玲音だけが、帽子の奥からじっと白須賀を見ている。
その視線の質を、白須賀もたぶん分かっている。
だからこそ彼女は、玲音の前でこそ一層完璧な“表”を崩さない。
けれど、その完璧さの裏で、僕の手首を一度だけ軽く掴んだ。
誰にも見えない角度で。
「あとで」
囁きは甘く、そして冷たかった。
注文票を持って離れていく後ろ姿は、誰から見ても理想的な看板娘なのに、僕だけがその裏の温度を知っている。
最悪だった。
※ ※ ※
文化祭の忙しさは、立て込むほどに人間関係を濃くする。
注文が重なれば厨房とフロアは近くなる。伝票の受け渡しが増えれば会計との往復も増える。どこか一か所に留まる暇がなくなるからこそ、誰と誰がどれだけ顔を合わせ、どれだけ自然に触れ合うかが、逆に妙にはっきりしてしまう。
そして今日の僕は、白須賀と天雨のどちらからも逃げられない動線の中にいた。
白須賀はフロアを回りながら、客席で何かあるたびに僕を呼ぶ。注文確認、追加のお茶、団体客の案内。どれも本当に必要な用件だ。必要な用件なのに、そのたびに彼女は僕のすぐ近くへ来る。狭い通路で身体を寄せ、トレイを受け取る時に指を滑らせ、すれ違いざまに腰へ手を添える。
客の前では完璧な接客だ。
だからこそ、その裏で僕にだけ残す熱が余計に生々しい。
天雨は会計台の向こう側で、それとは別のやり方で僕を引き寄せてくる。伝票の確認、釣り銭の補充、厨房との連携。必要な口実はいくらでもある。しかも天雨は、呼ぶ時の声があまりにも自然だ。だからこそ、僕だけがその“自然さ”の内側にある執着を知っていることが、ひどく息苦しかった。
その均衡を崩したのは、明日香だった。
甘味の追加を頼んだあと、彼女は伝票を持ってきた僕を見て、何でもない風に笑った。
「沢渡くん、終わったあとちょっと回れる?」
周囲に聞こえる程度の、普通の誘い方だった。
けれど、その一言だけで、空気が変わる。
白須賀が、客席の少し離れたところでぴたりと動きを止めた。
天雨の手元のペン先も、会計表の上で一瞬だけ止まる。
僕はそれを見ないふりもできず、曖昧に言葉を濁した。
「終わりの時間次第かな」
「そっか。じゃあ終わったら連絡して」
明日香は明るいままだ。何ひとつ裏のない笑顔でそう言う。その明るさが余計にまずい。
静が横からため息をついた。
「そういうの、今言うの?」
「え? だって今会えたし」
「今この空気で?」
その会話は周囲から見れば、仲のいい知人同士の軽いやり取りだ。だが、今の僕の周囲に限って言えば、それは完全に火種だった。
玲音はカップを持ったまま、こちらを横目で見ている。その視線の質が、ただ見物しているだけではないことくらい分かる。
案の定、その席から離れた直後に、白須賀が僕の腕を取った。
強くはない。けれど、有無を言わせず厨房横の死角へ引っ張るには十分だった。
壁と棚の間の狭いスペース。表からは暖簾の影で見えにくい位置だ。文化祭の喧騒はすぐ向こうにあるのに、ここだけ妙に近くて、逃げ場がない。
「ねえ」
白須賀の声は、思っていた以上に低かった。
「今の何?」
「何って……普通に話しただけだろ」
「普通、なんだ」
白須賀は笑わない。
笑わないまま、僕の腕を掴む手に少しだけ力を込める。
「私、文化祭中はちゃんと我慢してるよね」
その問いは、ここのところ何度も聞いた気がする。
けれど今日の白須賀は、今までで一番危うかった。
「お客さんの前で変な顔しないようにしてるし、沢渡くんに触るのも我慢してるし、ちゃんと店員さんしてる」
言いながら、白須賀は一歩近づく。
狭い通路だから、それだけで僕の背中は棚へ触れた。
「なのに、目の前で他の女の子と約束しないで」
その一言に、怒りと嫉妬と、どうしようもない執着が全部混ざっていた。
「白須賀さん」
「黙って」
反射的に返しかけた言葉を、その一言で止められる。
「文化祭だからって、私が優しくしてるの、勘違いしないで」
そこで白須賀はさらに近づく。
鼻先が触れそうなほど近い。綺麗な顔が、怒っているせいでいつもより少しだけ鋭く見える。けれどその怒りが、ただ怖いだけじゃなくて妙に色っぽいのが最悪だった。
「今ここで、沢渡くんが誰の言うことちゃんと聞くべきか、思い出させてもいいんだよ」
脅しだった。
甘い声で、文化祭の喧騒を背にしたまま告げられる脅し。
「お客さん来てるんだぞ」
「知ってる」
また即答だった。
「だから、このくらいで済ませてるの」
その言葉の意味を考えるより早く、白須賀は僕の襟元を掴んだ。引き寄せるには十分、乱すには絶妙な強さ。喉元が詰まって息が浅くなる。
「ねえ、沢渡くん」
囁きが近すぎる。
「これ以上、私以外の女の子に優しくしたら、接客中でも引っ張ってくるから」
目が本気だった。
冗談でも、軽口でもない。この前の保健室と同じ種類の危うさが、そのまま文化祭の教室へ持ち込まれている。
「裏の倉庫でも、準備室でも、どこでもいい」
襟を掴んだ手が、今度はゆっくりと胸元へ下りる。
「その都度、ちゃんと分からせる」
僕の肩がわずかに揺れたのを、白須賀は見逃さなかった。
「……ほら、やっぱり」
うれしそうですらある声だった。
「沢渡くん、こういうのちゃんと効くんだ」
完全に分かってやっている。
距離も、言葉も、触る位置も、全部。
その瞬間、暖簾の向こうから別の気配が差した。
天雨だった。
死角の入口に立ったまま、何も言わない。何も言わないくせに、白須賀の手が僕の胸元にあることも、僕の背中が棚へ押しつけられていることも、一瞬で全部見抜いていた。
白須賀はその視線に気づいたが、すぐには離れない。
むしろ、僕の襟元を掴んだまま、わざとらしく天雨の方を見る。
「なに?」
柔らかい声だ。
でもその実、完全に挑発だった。
天雨は数秒だけ黙っていた。
それから、ごく静かな声で言う。
「注文が詰まってる」
「じゃあ沢渡くん返してあげる」
白須賀はようやく僕から半歩だけ離れた。離れたくせに、最後に襟を指先で軽く叩く。その行為自体が、さっきまで自分がそこを支配していた証拠みたいだった。
「でも、あとでね」
その言葉を、天雨にも聞こえるように残して、白須賀は表へ戻っていく。
死角に残されたのは僕と天雨だけだった。
天雨はしばらく何も言わなかった。黙ったまま、僕の乱れた襟元を見て、それから視線を上げる。
「……相変わらずね」
独り言みたいな声だった。
返事ができない僕の前まで来ると、天雨は何の前置きもなく、僕の襟へ手を伸ばした。少し触れるだけ。ただそれだけの動作だ。なのに、白須賀の手が触れていた同じ場所を今度は天雨が支配するみたいで、呼吸が整わない。
「沢渡くん」
「……なに、美鈴さん」
「次、あの子に引っ張られても、そのまま押されないで」
低い声だった。
「無理なら」
そこで、天雨の指先が喉元へわずかに触れる。
「私の方に来て」
その言い方が、白須賀とは違う意味で危ない。
逃げろと言っているのではない。自分の方へ逃げ込めと言っているのだ。
「私なら、もっと静かに黙らせられるから」
その一言が、ひどく冷たく甘かった。
文化祭の喧騒は、すぐ向こうにある。
なのに、その狭い死角だけ、別の時間みたいに息苦しかった。
そして僕は、その真ん中で、取り合われることを止められないまま立ち尽くしていた。
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