私我慢してるんだよ
文化祭準備三日目の放課後、教室の空気は前日までよりさらに濃くなっていた。
出し物の骨組みが決まり、必要な備品も揃い始めると、次に始まるのは細部の調整だ。どこへ何を飾るか。誰がどの時間にフロアへ出るか。衣装の雰囲気はどうするか。そういう一つ一つの“詰め”の作業は、文化祭を形にするために必要で、同時に誰と誰がどれだけ同じ時間を共有するかを決める作業でもある。
だから今の僕の周囲にとっては、どの話し合いも全部が取り合いの延長だった。
教室の前方では、白須賀が接客担当の女子たちと衣装案を見ていた。和風喫茶らしく浴衣風のアレンジにするか、簡易の和装エプロンにするか、色はどうするか。本人はクラスの輪の中心で明るく笑っているのに、その視線だけは時々こちらへ戻ってくる。
後方では、天雨が会計表とシフト表を突き合わせていた。計算、配置、導線の確認。やっていることはひどく実務的で、だからこそ誰も文句を言えない。けれど、その整理された表の中に、僕を白須賀から切り離すための意図が細かく織り込まれていることを、今の僕はもう理解できる。
そして教室の中央で、僕は看板に貼るメニュー札のラミネートを手伝っていた。
こういう裏方に近い細かい作業なら、少しは平和だろうと思ったのが甘かった。
「沢渡くん、ちょっと」
白須賀に呼ばれて顔を上げると、彼女は教室後方のロッカー前に立っていた。手には布見本と画用紙を持っていて、誰が見ても“相談したいことがあるだけ”に見える。だからこそ断りにくい。
僕がそちらへ向かうと、白須賀はすぐに布を広げた。
「メニュー札の下に敷くなら、どっちがいいと思う?」
深いえんじ色と、少し明るめの朱色。和風喫茶ならどちらでもおかしくはない。僕がそれを見比べようとした瞬間、白須賀はごく自然な動作で一歩近づいた。
距離が、近い。
肩が触れる寸前まで詰められる。ロッカー前という場所のせいで、僕が半歩引くとすぐ背中が扉へ触れそうになる。
「……こっちじゃないか」
僕がえんじ色を指さすと、白須賀は「そっか」と頷いた。
頷いたあとで、その布を持つ手を少しだけ下げる。視線が上がる。そこにあるのは、クラスのみんなへ向ける明るいアイドルの顔ではなかった。
「ねえ、沢渡くん」
やわらかい声だった。
けれど、そのやわらかさが逆に危うい。
「私、最近ちゃんと我慢してるよね」
いきなり核心から来た。
しかも返答に困る聞き方で。
「……してる方なんじゃないか」
「方、なんだ」
白須賀は小さく笑う。
「もっと褒めてくれてもいいのに」
その声音の裏にあるものが軽くないと分かるから、僕はすぐ言葉を返せない。
白須賀は布をたたみながら、さらに続けた。
「だって、沢渡くん。文化祭入ってから、ずっと取られてる感じするもん」
その一言が、妙に生々しく胸へ落ちる。
「美鈴ちゃんには前半のシフトで取られるし、副会長さんは買い出しに連れていくし、他の女子も普通に話しかけてくるし」
布をたたむ手は丁寧なままなのに、声だけが少しずつ低くなる。
「そのたびに、私、ちゃんと笑ってるんだよ」
そう言いながら、白須賀はたたんだ布を脇へ置いた。
空いた手が、そのまま僕のネクタイへ伸びる。
強く引くわけじゃない。整えるみたいな、ただそれだけの触れ方。なのに、ロッカー前に詰められたこの距離でやられると、逃げ道ごと塞がれていく感覚がある。
「でも、そろそろ限界かも」
その言葉の直後、白須賀はもう一歩近づいた。
背中がロッカーへ触れた。
硬い金属の感触が制服越しに伝わる。前には白須賀。完全に挟まれた形になる。
「白須賀さん、ここ教室だぞ」
「知ってる」
即答だった。
「だから、これくらいで我慢してるの」
これくらい、という言い方に嫌な予感しかしない。
白須賀は僕のネクタイから手を離す代わりに、今度は胸元へ指先を置いた。ボタンの並びをなぞるように、ゆっくりと。触れ方自体はやわらかいのに、僕の呼吸の乱れを楽しむみたいに止まらない。
「文化祭ってさ、人いっぱい来るでしょ」
「……来るだろうね」
「そしたら、沢渡くんが誰に笑うか、誰と話すか、すごくよく見えちゃうよね」
それは想像したくない未来だった。
だが、白須賀はその未来をもう見ている顔をしていた。
「私ね、当日、沢渡くんが知らない子に愛想よくしてるの見たら、多分平気じゃいられない」
白須賀はそこで少しだけ身を屈め、僕の耳元に近い位置まで顔を寄せた。
甘い香りが濃くなる。
「だから今のうちに、ちゃんと覚えさせておこうかなって思ってる」
ぞくり、と背筋が粟立つ。
「何を」
聞いてしまったのが失敗だったかもしれない。
白須賀はその問いを待っていたみたいに、静かに笑った。
「沢渡くんの体が、誰に一番素直になるか」
その言葉と同時に、胸元へ置かれていた手が、今度は脇腹へ滑る。制服越しでも分かるくらい、ためらいのない手つきだった。
思わず肩が跳ねる。
白須賀はそれを見逃さなかった。
「ほら」
囁きが甘い。
「ちゃんと反応する」
完全に分かってやっている。
触られて困る場所、距離、言葉。その全部を選んで、こちらの動揺を引きずり出している。
「やめろって」
「やめない」
また即答だった。
「だって、こうでもしないと沢渡くん、私のこと後回しにするじゃん」
そこで白須賀は、僕の肩へ片手を置く。押さえつけるほどじゃない。けれど、逃げようとしたら止められるだけの位置だった。
「ねえ」
整いすぎた顔が近い。
白須賀は、怒っているというより、ひどく真剣だった。
「文化祭の準備中も、当日も、私のことちゃんと見て」
声が少し落ちる。
「じゃないと、もっと困らせる」
その脅しは静かだった。
静かなまま、十分に現実味があった。保健室で押し倒された時のことが、嫌でも頭をよぎる。あの時の白須賀は、本当に躊躇がなかった。
「具体的には」
僕の声が自分でも少し掠れているのが分かった。
白須賀は一瞬だけ目を細める。
「本番中でも、裏に連れてくかも」
冗談みたいな言い方だった。
でも、目がまったく冗談じゃない。
「接客中でも、沢渡くんが誰を見ればいいか思い出せなくなったら、その場で思い出させるかも」
やる気だ。
それもかなり本気で。
「文化祭、みんな浮かれてるからさ。少しくらい顔赤くしてても、そんなに目立たないかもしれないし」
白須賀はそこまで言って、最後に僕の胸元を軽く押した。
強くない。強くないのに、ロッカーに当たった背中へ逃げ場のなさだけが残る。
「だから、沢渡くんが悪いんだよ」
きれいな顔で、ひどい理屈を言う。
「私をここまで我慢させるから」
その瞬間、ロッカー前へ別の影が差した。
白須賀の肩越しに見えたのは、天雨だった。
彼女は数歩離れた位置に立ったまま、何も言わない。何も言わないくせに、こちらの距離感と、白須賀の手の位置と、僕の背中がロッカーへ触れていることまで、一瞬で全部見抜いた顔をしている。
白須賀もそれに気づいた。
だが、すぐには離れない。
むしろ、わざとらしく僕へ近い姿勢のまま、ゆっくり天雨へ視線を向ける。
「なに?」
問いかけの形をしているのに、その実、まるで挑発だった。
天雨はその視線を受け止めたまま、静かに言う。
「担当の確認をしたいだけ」
「今?」
「今」
空気が、また細くなる。
白須賀はようやく僕から半歩だけ離れた。離れたのに、ネクタイの端へ指先をかけたままなのが嫌らしい。
「沢渡くん、呼ばれてるみたい」
声がやけに甘い。
「でも、あとで続きね」
続き、という言葉の意味が重すぎて、すぐには動けなかった。
天雨はそれを黙って見ていた。目の前で白須賀に距離を詰められたことに対して、感情をむき出しにはしない。しないまま、後からもっと深く返してくるタイプだと、僕はもう知っている。
案の定、天雨は僕がそちらへ歩き出したあと、教卓のところまで行く間にひとことだけ落とした。
「随分楽しそうだったわね」
抑揚のない声だった。
「楽しそうに見えたなら誤解だよ」
「誤解かどうかは、沢渡くんの顔見れば分かる」
そこでようやく、天雨は僕を見る。
静かな目だ。
静かで、冷たくて、その奥にひどく濃いものが沈んでいる。
「白須賀さん、もう隠す気ないのね」
その言葉に返事はできなかった。
できない僕へ、天雨はさらに近づく。教卓と窓の間、クラスメイトたちの視線から半分隠れる位置まで。逃げ場がなくなる距離ではない。けれど、意識させるには十分すぎる。
「文化祭の準備中に、そういうことするなら」
天雨の声は低い。
「私も遠慮する理由がなくなる」
その予告は、白須賀の脅しとは別の意味で怖かった。
白須賀は勢いで押してくる。熱で絡め取る。けれど天雨は違う。静かなまま、ちゃんと後ろを塞いでくる。
文化祭準備はまだ始まったばかりなのに、その空気はもうかなり危ないところまで来ていた。
そして僕は、その真ん中で、またしても誰の手も振りほどけないまま立っている。
ロッカーの冷たさも、白須賀の指先の熱も、天雨の静かな圧も、全部が妙に鮮明に残っていた。
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