文化祭
白須賀に「上書き」されたまま迎えた次の週、学校は何事もなかったみたいな顔で文化祭の準備期間へ入った。
林間学校が終わっても、僕の周囲だけは少しも元に戻っていない。むしろ戻る気配すらないまま、日常の上へ新しい行事が重なってきた、という方が正しかった。
朝のホームルーム。担任が黒板へ「文化祭準備期間」と大きく書いた瞬間、教室の空気は一気に軽くなった。後ろの席ではもう何をやるかという話で盛り上がっているし、前の方では去年の出し物がどうだったとか、今年はクラスTシャツを作るのかとか、そんな浮ついた声がいくつも飛び交っていた。
誰もが文化祭という言葉に反応している。
けれど、僕の中で最初に浮かんだのは期待よりも、面倒だな、だった。
この状況で文化祭なんてものが始まれば、ろくなことにならない。準備で放課後が増える。役割分担で一緒にいる時間が増える。目立つイベントがあれば、白須賀は当然注目を集める。天雨はその横で静かに圧を強めるだろうし、柊先輩は生徒会側で確実に関わってくる。
そして何より、“誰といるか”が見えやすい行事ほど、今の彼女たちは危ない。
「今年の文化祭は、例年通り一般公開あり。各クラス、出し物は今週中に決めること。委員は今日のHRで選出するからな」
担任の声を聞きながら、僕は窓の外へ目を向けた。
秋の空は高く、風も少し涼しくなってきている。文化祭の季節と言われれば、たしかにそんな空だった。
だが、感傷に浸る余裕はすぐ消える。
「沢渡くん」
隣から、やわらかい声がした。
見なくても分かる。白須賀だ。
「文化祭、楽しみだね」
「まだ何やるかも決まってないだろ」
「でも、こういう行事って、距離が縮まりやすいじゃん」
さらっと言う。
教室のざわめきの中でなら、それはただの軽口に紛れてしまう。けれど、机の下で僕の手首へ軽く触れてくる指先が、その言葉をまるで軽くしてくれない。
「準備で一緒に残ったり、買い出し行ったり、当日もずっと同じクラスでしょ?」
「……そうだな」
「うれしいな」
白須賀は前を向いたまま、ほんの少しだけ笑う。
クラスメイトから見れば、ごく普通の、隣の席の会話にしか見えないだろう。だが僕には、その“うれしい”の中身が前よりずっと重くなっているのが分かった。林間学校から帰って以降、白須賀は待つと言いながら、待つだけで済ませる気を完全に捨てている。
その時、後ろの席から視線を感じた。
振り向かなくても誰かは分かる。
天雨だ。
何も言わないくせに、こういう瞬間を全部見ている。そして見た上で、自分の中で何かを静かに積み上げていく。白須賀と違って分かりやすく前へ出てこない分だけ、その沈黙の方がよほど怖い時がある。
ホームルームが進むにつれ、出し物の案が黒板へ増えていった。
喫茶店、縁日、お化け屋敷、劇、映像展示。ありがちな案が並ぶ中で、当然みたいに注目が集まったのは白須賀の存在だった。
「白須賀さんいるし、ステージ系強くない?」
「ライブとかやったら絶対やばいって」
「いや、でもそれ一強すぎるだろ」
そんな声がいくつも上がる。白須賀はそれに対して、困ったように笑いながらも否定しきらない。否定しきらない、というより、否定する必要がないことをよく分かっている顔だった。
実際、彼女が本気でステージへ立てば、クラス企画なんて枠を簡単に飛び越える。
東京ドーム単独ライブを成功させた国民的トップアイドルだ。文化祭の教室ステージに出るには、本来あまりにも規模が合わない。けれど、その“本物”が普通の高校生みたいにクラスの一員としてそこにいること自体が、もう十分に異常だった。
「私はみんなと一緒に作る方がいいかな」
やがて白須賀がそう言った。
教室の空気が少しだけ変わる。
「せっかくの文化祭だし、誰か一人が目立つより、クラス全員でやるやつがいいかも」
完璧だった。
場の空気を壊さない、けれど好感度は確実に上げる返し方だ。さすがトップアイドル、としか言いようがない。僕ですら感心するくらいだった。
けれど、隣にいる僕には分かる。
これは譲歩なんかじゃない。
“クラス全員でやる”という建前を使って、より自然に僕と同じ時間を増やそうとしているだけだ。
案の定、その後で白須賀は黒板を見つめながら、小さく呟いた。
「喫茶店とかいいかもね」
「なんで」
「だって、役割で一緒になりやすいじゃん」
やっぱりそういう理由だった。
僕が返事に詰まっていると、今度は後方から声が飛ぶ。
「私は、劇でもいいと思う」
天雨だった。
教室中の視線がそちらへ向く。天雨はその視線にも動じないまま、ただ淡々と続ける。
「役ごとに準備が分かれるし、裏方も表もちゃんと必要になる。行事としては一番まとまりやすいでしょ」
理屈としては正しい。
正しいから厄介だ。
白須賀が“同じ時間を増やす”方向で提案したのに対して、天雨は“配置を管理しやすい”方を出してきた。どちらもクラスのためみたいな顔をしているくせに、その実、自分の立ち回りに一番都合のいい形を選んでいる。
そして、黒板を挟んで飛び交うその二つの案の真ん中に、僕がいる。
嫌な予感しかしなかった。
※ ※ ※
結局、クラスの出し物は和風喫茶に決まった。
劇は準備が大変すぎるという意見が多く、ステージ案は白須賀がいることで逆に話が大きくなりすぎると判断された。無難で、それでいてクラス全員が動ける。そういう意味では一番妥当な選択だったのだろう。
けれど、妥当で済まない部分がすぐに出てきた。
役割分担だ。
衣装、装飾、接客、会計、買い出し。黒板へ書き出されていく担当表を見ながら、僕はひどく嫌な気分になっていた。これだけ役割があるなら、逆に誰とでも組める。つまり、誰と一緒になるかで空気が大きく変わる。
「接客は女子中心の方がよくない?」
「いや男子も何人かいた方が回るだろ」
「会計は几帳面な人がいいよね」
クラスの話し合いは思いのほかスムーズに進んだ。
その中で、白須賀は当然のように接客へ名前が入った。反対する理由がない。むしろ白須賀を前へ出さないという選択肢の方が不自然だった。華が違う。そういう意味で、彼女は文化祭みたいな場において反則に近い。
一方で、天雨は会計と進行管理を兼任することになった。これも想像通りだった。目立ちすぎず、しかし全体を見渡せる位置。必要な時にはすぐ口を出せて、誰がどこで何をしているかも把握しやすい。
そして僕の名前は、最初、装飾の欄に入れられかけた。
正直、それでよかった。前へ出るより裏で動く方が気楽だし、誰かに付きまとわれる時間も多少は減る。
そう思っていたのに。
「沢渡くん、接客向いてそうじゃない?」
誰かがそう言った瞬間、空気が変わった。
「わかる。見た目そんな派手じゃないのに、妙に感じいいし」
「女子受けしそう」
勝手なことを言われる。
そこへ、白須賀が笑顔で追い打ちをかけた。
「たしかに。沢渡くん、意外と丁寧だもんね」
意外と、の部分が余計だった。
さらに、天雨まで静かに口を開く。
「接客に一人は落ち着いた人がいた方がいいと思う」
やめてくれ。
心の中でそう思った時には遅く、担任はもう黒板の担当表を書き換えていた。
結果、僕は接客に回された。
最悪だった。
当然みたいな顔で、白須賀と同じ欄に名前が並ぶ。そして会計側の天雨とは、クラスの動線上、ほぼ常に顔を合わせる配置になる。
逃げ道がない。
「楽しみだね」
役割表が決まった直後、白須賀が僕にだけ聞こえる声で囁く。
「沢渡くんと同じ担当」
その声は、教室の明るさに混ざるには少し甘すぎた。
僕が黙っていると、後ろから天雨の声が落ちる。
「準備もあるから、接客担当は放課後少し残って」
事務的だった。
事務的なくせに、こちらへ向ける目だけがあまりにも私的だった。
文化祭の準備期間は、始まったばかりだというのに、すでに胃が痛い。
※ ※ ※
その日の放課後、準備のために残った教室は、昼間より少しだけ違って見えた。
机が寄せられ、床には模造紙や布見本が広げられ、窓の外はもう夕方の色をしている。行事前特有のざわめきがあって、本来なら少し浮つくくらいが普通なんだろう。けれど、僕にとってはそれどころではなかった。
白須賀は接客担当として衣装の相談をしている。クラスメイトたちは、彼女がそこにいるだけで明るくなるみたいに笑っている。本人も、誰から見ても理想的な人気者の顔で受け答えしていた。
その一方で、天雨は教室の中央に立ち、必要な備品と人数を確認していた。紙を配り、予算を書き出し、誰が何を持ってくるかを整理する。その姿はとても静かで、とても有能で、だからこそ余計に目を引く。
ひとつの教室に、種類の違う“中心”が二つある。
そして僕は、その両方から同時に引っ張られていた。
「沢渡くん、こっち来て」
白須賀に呼ばれて振り向けば、布見本を広げた机のところへ手招きされる。寄っていくと、彼女はごく自然な顔で布を持ち上げた。
「これ、どう思う?」
「和風喫茶なら、落ち着いた色の方がいいんじゃないか」
「じゃあ、これかな」
そう言いながら、白須賀は布を持つ手を少しだけずらし、僕の指へ触れてくる。偶然では済まない長さだった。
直後、今度は天雨の声がする。
「沢渡くん、買い出しリスト確認して」
振り向けば、天雨は教卓のところで紙を持っていた。声の調子はあくまで事務的なのに、その呼び方だけで、今の状況を全部見ていたのだと分かる。
僕がそちらへ行くと、天雨は紙を差し出した。その瞬間、指先が僕の手へ一瞬だけ触れる。
短い。
短いのに、妙に生々しい。
「接客担当の備品、追加が出てる」
「……わかった、美鈴さん」
そのすぐ斜め前では、白須賀が静かな顔でこちらを見ている。
空気が薄い。
準備のざわめきに紛れているはずなのに、僕の周りだけ呼吸がしにくかった。
文化祭。
それは本来、青春の延長みたいな行事のはずだ。
けれど今の僕にとっては違う。放課後が増え、役割で結びつきが増え、誰が誰の隣にいるかが見えやすくなる行事。つまり、今の彼女たちにとっては、自分の距離をもっと深く刻みつけるための舞台になり得る。
準備初日でこれだ。
なら、本番までにどこまで重くなるのか、考えたくもなかった。
それでも、考えないでいられるほど甘い状況でもない。
窓の外では、夕焼けが校舎のガラスに反射していた。日常の中へ文化祭の気配が少しずつ染み込んでいくみたいに、僕の周囲にもまた、新しい面倒ごとの始まりが静かに広がっていた。
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