私を残してあげる
家に帰ったあとも、首元に残った熱はなかなか引かなかった。
鏡の前に立つたび、制服の襟の内側へ意識が向く。林間学校で刻まれた記憶が、ただの思い出なんかでは済んでいないことを、その熱が何度も思い出させてきた。冷やせば薄れるはずなのに、薄れたところで意味が消えるわけではない。むしろ、一度残されたものは、消えかけるたびに余計鮮明になっていくみたいだった。
夕食の席でも、僕はどこか落ち着かなかった。
向かいに座る姉の優花は、相変わらず明るくて遠慮がない。僕と違って、思ったことをそのまま口へ出すタイプだ。箸を動かしながら学校の話やテレビの話をしていたくせに、ある瞬間、ふっとこちらの首元へ目を止めた。
「それ、どうしたの」
短い一言だった。
反射的に襟元を押さえた僕を見て、優花は妙に楽しそうに目を細める。
「へえ。隠すんだ」
何でもない風に言っているのに、勘だけは鋭い。優花は白須賀や天雨のことを、友人として名前くらいは知っている。深く事情を知っているわけではないはずなのに、こういう時だけ妙なところまで届いてしまう。
僕が曖昧に誤魔化すと、優花はそれ以上は追及しなかった。ただ、その代わりに最後まで面白がるような目でこちらを見ていた。その視線が地味にきつかった。
夜、ベッドへ入っても、眠りは浅かった。
白須賀の指先の感触も、天雨の静かな熱も、結城の手の強さも、どれもまだ身体のどこかに残っていた。林間学校は終わったはずなのに、日常へ戻れば戻るほど、あの二日間で剥き出しになったものだけが濃くなっていく。
僕はまだ決められない。
決めたいと思っていないわけじゃない。ただ、誰か一人へ簡単に答えを渡すには、みんなの気持ちがあまりにも重すぎた。軽い優しさで受け取れるようなものでは、もうとっくになくなっている。
そんなことを考え続けたせいで、翌朝の目覚めは最悪だった。
寝不足のまま登校した僕を待っていたのは、何ひとつ軽くなっていない現実だった。
教室へ入れば、白須賀が当然のように隣にいて、柔らかく笑いながらも一度たりとも僕の首元から視線を外さない。後ろには天雨がいて、何も言わないくせに、僕と白須賀の間に生まれる空気をすべて見ている。林間学校の余韻が薄まるどころか、みんなその続きを当然みたいに持ち込んできていた。
授業中も、休み時間も、落ち着く暇がない。
白須賀はクラスメイトたちに向けるアイドルの顔のまま、机の陰では僕の袖口へ触れてくる。わざとじゃないみたいな顔で、わざとだとしか思えない長さで。天雨はそんな白須賀を見たあと、教科書を借りるという名目で僕の机まで来て、必要以上に近い距離でプリントを置いていく。どちらも露骨すぎるわけではない。露骨すぎないからこそ、日常の中へ馴染んでしまって、余計に逃げ場がない。
※ ※ ※
放課後、教室を出たところで、僕は一度だけ壁に手をついた。
大したふらつきではなかった。けれど、自分でも分かる程度には身体が鈍い。林間学校から戻ってきてからというもの、眠りは浅いままだったし、教室にいるだけで気が休まる時間もほとんどなかった。白須賀の熱を帯びた視線、天雨の沈黙の圧、周囲に悟られないよう距離を詰めてくる気配。その全部を受け止めたまま一日を過ごせば、さすがに神経も擦り切れる。
そして、その一瞬の異変を見逃さなかったのが柊先輩だった。
特別棟へ続く廊下の角から現れた先輩は、手にしていたファイルを脇へ寄せると、迷いなく僕の前まで来た。いつも通り整った立ち姿のまま、視線だけがひどく冷静にこちらを見ている。何も言い訳していないのに、誤魔化しが利かないとすぐに分かった。
先輩は僕の顔色と、壁についた手と、わずかに乱れた呼吸を順番に見てから、短く言った。
「保健室へ行くよ」
強い口調ではない。けれど、断らせないだけの静かな圧があった。
そのまま半歩前を歩く柊先輩についていく形で、僕は保健室へ向かった。養護教諭は不在だったらしく、机の上には会議中と書かれた小さな札が置かれている。先輩はそれを一瞥しただけで扉を開けた。
保健室は静かだった。
窓際のカーテンは半分だけ開いていて、夕方の光が白いシーツを淡く染めている。消毒液の匂いと、昼間の喧騒が抜けたあとの乾いた空気。誰もいない保健室は、校舎の中でも少しだけ現実から切り離された場所みたいだった。
柊先輩は持っていたファイルを机へ置くと、そのまま簡易ベッドの方を顎で示した。
「横になりなさい」
言われるままベッドの端へ腰を下ろし、そのまま背を預ける。白いシーツが思った以上にひんやりしていて、火照った頭には少しだけ心地よかった。
先輩はベッド脇へ立ったまま、しばらく何も言わなかった。ただ見ている。その視線が、教室にいた誰よりも厄介だった。白須賀の甘い熱とは違う。天雨の静かな圧とも違う。柊先輩は、こちらが隠そうとしているものを一枚ずつ剥がしていくみたいに見てくる。
「寝不足」
やがて落ちてきたのは問いではなく確認だった。
「……たぶん」
「たぶん、じゃない」
低い声だった。
「あなた、自分がどれだけ消耗してるか分かっていないでしょう」
否定しようとしたが、その気力もなかった。先輩は小さく息をつくと、ベッド脇へ片手をついて少しだけ身をかがめる。距離が近くなる。整った顔立ちが近づいても、この人は白須賀たちみたいに露骨な熱を見せない。見せないくせに、その静けさごとこちらへ迫ってくる。
「首、見せて」
拒む間もなく、先輩の指先が制服の襟へかかる。ごく自然な手つきで布をずらされ、そこに残っている薄い痕へ視線が落ちた。その一瞬だけ、先輩の目がわずかに細くなる。
「……やっぱり」
小さな独り言のあと、親指が首筋のすぐ下をゆっくり撫でた。残る熱を確かめるみたいに、静かに。色っぽさを見せつける触れ方ではないはずなのに、冷静な分だけかえって息が詰まる。
「天雨さんも白須賀さんも、本当に遠慮というものを知らないのね」
その言い方があまりに正確で、返す言葉がなかった。
先輩は襟元から手を離し、代わりに顎へ軽く指を添える。逃がさないためではなく、こちらをきちんと見させるための触れ方だった。
「あなたがまだ決めきれないのは分かる。でも、その迷いに甘えていたら、たぶんそのうち本当に押し切られる」
僕は黙ったまま、その視線を受けるしかなかった。
「少し冷やすものを持ってくる」
そう言って、柊先輩は立ち上がった。準備室か職員室か、そのあたりに当たりをつけたのだろう。扉を開ける前、先輩は一度だけ振り返る。
「動かないで」
それだけ残して、保健室を出ていった。
扉が閉まり、室内に静けさだけが戻る。
シーツに身体を沈めたまま、僕はようやく浅く息を吐いた。保健室の天井は白くて、夕方の光は少しずつ色を薄くしている。何も考えたくないのに、考えないでいるには頭の中が騒がしすぎた。
そんな時だった。
扉が、今度はもっと静かに開いた。
気配の方が先だった。顔を向けるまでもなく分かる。甘い香りと、空気の華やかさだけで、誰が来たのか理解できてしまう。
白須賀だった。
夕方の保健室という白い空間の中でも、彼女だけが不自然なくらい目を引いた。制服姿のまま、何でもない顔でそこに立っているのに、隠しきれない華やかさがある。東京ドームを成功させた国民的トップアイドル。その肩書きを、こんな静かな部屋にまで当然みたいに持ち込んでしまう存在感。
けれど今の白須賀は、教室で見せる完璧な笑顔をしていなかった。
笑っていない。笑っていないのに、整いすぎた顔立ちは相変わらず綺麗で、その綺麗さの奥で感情だけがひどく危うく揺れている。
「副会長さん、いないんだ」
静かな声だった。
僕が返事をする前に、白須賀は扉を閉め、そのまま迷いなくベッドのそばまで来た。足音にためらいがない。もう、自分が何をしたいのか決めてきている足取りだった。
「……白須賀さん」
「なに?」
「どうしてここに」
「沢渡くんが副会長さんに連れていかれるの見たから」
その答えがあまりにも当然みたいに返ってくる。
白須賀はベッド脇へ立つと、見下ろすようにこちらを見た。その視線が、教室で向けられるものよりずっと重い。
「副会長さんと二人きりなんだ、って思ったら、来たくなっちゃった」
言い方はやわらかい。やわらかいくせに、内容はまったくやわらかくない。
「沢渡くん、昨日からずっと私を困らせるね」
「困らせてるつもりはない」
「でも困るよ」
白須賀はそう言って、ベッドへ片膝をついた。シーツがわずかに沈む。その動きに押されるように、僕の身体も自然と背中側へ沈んでいく。
近い。
彼女の髪が肩から滑り落ちて、頬の近くへ影を落とす。トップアイドルの顔が、見上げる距離まで近づく。誰から見ても完璧な子なのに、今その瞳の中にあるのは、綺麗なだけでは済まないものだった。
「副会長さんに触らせてた」
「触らせてたって」
「そういう顔で見てた」
白須賀はそこで、そっと僕の顎を指先で持ち上げた。逃げようとすれば逃げられる。なのに、その視線に捕まると、身体の方が動かなくなる。
「私以外の人の前で、ああいう顔しないでよ」
言い終えるより早く、白須賀の唇が落ちてきた。
強かった。
昨日された痕をつけるようなキスではない。反論も、言い訳も、全部止めるための口づけだった。いきなり塞がれて、一瞬頭が真っ白になる。押し返そうと上げた手首は、白須賀に軽く取られてシーツへ沈められた。
白いシーツが掌の下で皺になる。
唇が離れたと思った次の瞬間には、もう一度重なる。今度はもっと深く、黙らせるために。怒っている。嫉妬している。なのに、ただ荒いだけじゃなく、こちらが抗う余地まで奪うように巧みに強い。
ようやく離れた時には、呼吸が乱れていた。
白須賀も同じだった。けれど彼女は、乱れた呼吸のまま僕を見下ろし、押さえていた手首を離さない。
「もし副会長さんがいても、これくらいするよ」
声が少し震えていた。怒りと、嫉妬と、どうしようもない執着で。
「沢渡くんが誰をちゃんと見ればいいのか忘れそうになるなら、そのたびに思い出させる」
それは甘い声のままの脅しだった。
白須賀はさらに身を低くして、今度は僕の首元へ唇を寄せる。襟を指先でずらされ、喉元のすぐ下へ熱が落ちた。吸いつくような感触。残すためだと分かる触れ方に、背筋がぞくりと粟立つ。
「……白須賀さん」
「静かにして」
低く囁かれる。
「今は私だけ見て」
その言葉が終わった直後、扉の開く音がした。
空気が一瞬で凍る。
白須賀はすぐには離れなかった。数秒遅れて顔を上げ、その視線の先を僕も追う。
戻ってきた柊先輩が、扉のところに立っていた。
手には冷却シートと小さな氷嚢がある。表情は大きく変わっていない。変わっていないのに、その静かな目だけが、今この保健室にあるものを一瞬で見抜いていた。
白須賀はゆっくりとベッドから身体を起こす。けれど、僕から完全に離れるには一拍遅かった。唇の熱も、首元の新しい感触も、まだ生々しく残っている。
柊先輩は扉を閉めると、ひどく落ち着いた足取りでこちらへ歩いてきた。
「あなた達、本当に遠慮というものを知らないのね」
低く、よく通る声だった。
大声ではない。ないのに、その一言だけで保健室の空気がぴたりと張る。
白須賀は数秒だけ黙ったが、僕から完全には離れなかった。片膝をついたまま、上から影を落とし続けている。ここで引けば終わると分かっていて、それでもすぐには引かない。その迷いのなさが、逆に怖かった。
柊先輩はゆっくり歩いてきて、ベッドのすぐ脇で立ち止まる。
「白須賀さん」
静かな呼びかけだった。
「それ以上やると、本当に洒落にならない」
白須賀はようやく僕の手首から力を抜いた。
けれど、その目はまだ熱を失っていない。僕の唇と首元を見て、それから副会長を見る。その一連の視線だけで、彼女の中の嫉妬と対抗心がまったく鎮まっていないことが分かった。
「……副会長さんまで、近いんですね」
白須賀の声は、少しだけ掠れていた。
柊先輩は表情を崩さない。
「近づかなきゃ分からないこともあるから」
そして次の瞬間、柊先輩は僕の顎へ軽く指先を添えた。
びくりと身体が揺れる。
けれど先輩はそのまま、唇が触れる寸前の距離で止まった。止まったまま、目だけでこちらを射抜く。白須賀の気配がぴんと張るのが分かった。
「このくらいの距離まで、もう誰も普通に踏み込んでくる」
低く落ちる声が、妙に鮮明に耳へ残る。
「次は、自分で止めなさい。あなたが決めきれないことと、境界線を引かないことは別よ」
それだけ言うと、柊先輩はすぐに離れた。
触れなかった。触れなかったのに、その距離だけで十分すぎるほど意味があった。
白須賀はそれを見て、さらに目を細める。さっきまでの衝動に、柊先輩への対抗心まで加わったのが分かる。怒っている。嫉妬している。なのに、ただ取り乱すわけではなく、その全部を飲み込んだまま、綺麗な顔で立っている。
柊先輩はそんな白須賀を見て、小さく息をついた。
「白須賀さん、今日はここまで」
副会長らしい、静かで退路を残さない声だった。
「あなたは少し頭を冷やしなさい」
白須賀はすぐには動かなかった。けれどやがて、僕の方へ一度だけ視線を落とし、そのままベッドから完全に離れる。唇も首元も熱いままだ。その熱を見せつけるみたいに、白須賀は最後にきれいに笑った。
「沢渡くん」
呼ばれて、視線が上がる。
「副会長さんに止められたから今日はこれでやめる」
その声はやわらかかった。
やわらかいのに、続く言葉はまったくやわらかくない。
「でも、次はもっとちゃんと、誰のこと見ればいいか分からせるね」
そう言い残して、白須賀は保健室を出ていった。
扉が閉まったあとも、空気はすぐには戻らなかった。
白いシーツの上に残る皺も、押さえられていた手首の感触も、唇に残る強引な熱も、何ひとつ薄れていない。首元には新しい熱が増えている。たぶん、また見える。見えるように付けられたのだと分かる。
柊先輩はしばらく何も言わずに立っていた。
やがて氷嚢を手に取ると、僕の首元へそっと当てる。冷たさに肩が揺れる。
「あなた、少しは懲りた?」
その問いに、僕は苦笑するしかなかった。
懲りたというより、ようやく現実を直視した気分だった。
林間学校のあとで、彼女たちの感情は重くなった。そう思っていた。でも、今のはもう“重い”という言葉だけでは足りない。
嫉妬したら、押し倒す。
反論をさせないためにキスをする。
自分を見失わせないために、痕を残す。
そして、それを白須賀は躊躇なくやってのけた。
柊先輩は僕の首元へ冷たさを押し当てたまま、静かに言う。
「いい加減、分かったでしょう」
白い保健室の天井が視界の端で滲む。
「あなたがまだ答えを出せないでいる間に、あの子たちは待つだけでは済ませない」
その通りだった。
天雨も、白須賀も、きっとこの先さらに踏み込んでくる。誰のものか分からせるために、言葉だけではなく、体温や痕や衝動ごと押しつける形で。
僕はまだ決めきれていない。
それなのに、その迷いごと奪い合うみたいに、彼女たちはもう完全に本気だった。
※ ※ ※
保健室を出たあと、夕方の廊下は妙に静かだった。
さっきまであれほど濃かった空気から急に解放されたはずなのに、胸の奥はむしろ息苦しさを増していた。首元へ残る冷たさの下で、別の熱が脈打っている。あまりにも分かりやすくて、逆に笑えてくるくらいだった。
柊先輩と別れたあと、僕は人気の少ない廊下を一人で歩いた。
窓の向こうでは、夕日が校舎の壁を赤く染めている。日常の景色だ。何も変わらない、普通の放課後のはずなのに、自分だけがその普通から遠くへ押し出されている気がした。
スマホが震えたのは、その時だった。
画面には白須賀の名前が出ている。
開く前から、内容は何となく分かっていた。
『副会長さんに止められたから、今日はあれで終わりにしたよ』
『でも、沢渡くんが忘れないようにしたかっただけ』
『まだ熱、残ってるでしょ?』
読んだ瞬間、無意識に首元へ手が伸びる。
当然みたいに見透かしてくる。その感じが、ぞっとするほど甘くて、ひどく重かった。
ほとんど間を置かずに、もう一件通知が重なる。
今度は天雨だった。
『副会長に連れていかれたと聞いたわ』
『大丈夫?』
短い文面だ。けれど、その簡潔さの中にあるものは薄くない。
さらに続けて、もう一通。
『白須賀さんが先に見つけたのね』
それだけで、僕の足が止まる。
見ていないはずのことを、ほとんど見ていたみたいに言い当ててくる。白須賀の行動も、副会長の存在も、天雨の中ではすでに“そうなる”ものとして整理されているのだと分かる。
そして最後に、短く追い打ちが来た。
『次は、私が先に行く』
夕方の廊下で、僕はしばらく動けなかった。
林間学校で加速した感情は、もう元には戻らない。誰も遠慮しない。嫉妬したら塞ぎに来るし、焦れたら痕を残すし、押し切れないと思えば静かな顔のまま先回りしてくる。
スマホの画面が少しずつ暗くなっていく。
その黒くなった画面に映る自分の顔は、ひどく疲れていた。
それでもまだ、答えは出せない。
出せないまま、その猶予ごと奪い合われる。
校舎の窓に映る夕焼けを見ながら、僕はようやく理解した。
これから先、日常に戻ったふりをしたまま、彼女たちの感情はもっと深く、もっと乱暴に、もっと逃げ場のない形で僕の生活へ食い込んでくる。
林間学校は終わった。
でも、本当に危ういのは、たぶんここからだった。
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