壊れる想い
林間学校から戻った翌日、学校の空気は驚くほどいつも通りだった。
朝のホームルーム前。廊下には眠たそうな生徒たちが行き交い、教室には雑談と机を引く音が満ちている。昨日まで山の中にいて、火を囲んで、あれだけ濃い時間を過ごしていたのが嘘みたいに、日常は何事もなかった顔でそこに戻っていた。
けれど、僕の中身だけはまったく元に戻っていなかった。
座席へ向かう足取りの途中で、すでにいくつもの視線を感じる。教室の空気に紛れているのに、どれが誰のものか分かってしまうのが一番厄介だった。
そして、その厄介さの中心みたいに、白須賀はもう隣の席に座っていた。
学校へ復帰した国民的トップアイドルは、相変わらず教室の景色から少し浮いて見える。制服を着ているだけなのに、座っているだけなのに、ひとりだけ画質が違うみたいだった。東京ドーム単独ライブを大成功させた人間が、何事もなかったように朝の教室で教科書を机へしまっている。そのアンバランスさに、クラスの何人かはいまだ慣れきっていない。
「おはよ、沢渡くん」
白須賀は振り向いて、いつものように笑った。
クラスの誰が見ても、完璧なアイドルの笑顔。けれど、僕にだけは分かる。その笑顔の下で、林間学校の二日間で膨らんだ感情が少しも鎮まっていないことが。
「おはよう」
「眠そうだね」
「誰のせいだと思ってるんだ」
「どうだろうね」
白須賀はくすっと笑った。
それだけなら、ただの他愛ないやり取りだ。だが、彼女は机の影になる位置で、さりげなく僕の袖口へ触れる。爪を立てるほどではない、でもたしかにそこに触れていると分かる圧で。
「ねえ、今日のお昼、どこで食べる?」
「まだ決めてない」
「じゃあ、屋上ね」
「決定なのか」
「うん」
やわらかく言い切る声だった。
林間学校の前までなら、ここでもう少し曖昧に引いてくれる瞬間もあった。けれど今の白須賀には、それがほとんどない。待つとは言った。待つけれど、その待つ時間を全部自分の領分にするつもりなのだと、彼女は隠しもしない。
教室の後ろでは、天雨が静かにそのやり取りを見ていた。
席に荷物を置く手つきも、表情も、何も変わらない。変わらないくせに、視線だけがひどく冷静で、ひどく近い。結城は別の学校だからここにはいない。それでも、いないはずの重さまで何となく感じるのが嫌だった。
※ ※ ※
午前の授業は、黒板の文字が頭に入ってこないまま過ぎていった。
その一因は、休み時間のたびに起きる小さな事件のせいだった。
一時間目と二時間目の間、クラスの女子が林間学校の写真を見せてくれと言って僕の机へ集まってきた。雪見や瑠美の写った班写真、川辺の集合写真、キャンプファイヤーの広場。何でもない風景の記録のはずなのに、僕の隣の空気はじわじわ重くなる。
「沢渡くん、この写真いいね。なんか楽しそう」
スマホを覗き込んできた女子がそう言った瞬間、白須賀がその横からひょいと顔を出した。
「ほんとだ。沢渡くん、すごく楽しそう」
明るい声だ。周囲には、会話に自然に混ざってきただけに見えるだろう。
でも、その“楽しそう”に乗る温度が妙に低かった。
「私と一緒の時より笑ってるかも」
冗談っぽく聞こえるように言っているのに、僕には分かる。全然冗談じゃない。
覗き込んできていた女子が気まずそうに引く。白須賀はすぐに「うそだよ」と笑って場を戻したが、そのあとで僕にだけ向ける目は少しも笑っていなかった。
次の休み時間には、天雨が僕の机へ来た。
「これ、林間学校のプリント返しておく」
「ありがとう」
たったそれだけの用事のはずだった。なのに、天雨はプリントを置いたあと、そのまま数秒だけ動かなかった。
「……今日は、お昼」
「屋上だろ、たぶん」
「白須賀さんと?」
声音は静かだった。
「結城さんはいないから、今日は少し平和かと思っていたのだけれど」
「平和って」
「違う?」
違わなかった。
違わないのが問題だった。
天雨はそこでほんの少しだけ身をかがめ、僕の机の上に手を置いた。距離が近くなる。黒髪が肩から滑り落ちて、かすかに香りがした。
「沢渡くん」
「なに」
「私は、いない人に負けるつもりはないけど、隣にいる人にも譲るつもりはないわ」
そこでようやく天雨は身体を起こす。
教室の誰かに聞かれても意味は伝わらないだろう。けれど僕には十分すぎた。
※ ※ ※
昼休み、屋上へ出ると、いつもの風景が待っていた。
高い空。秋に近づき始めた風。金網越しに見える校庭。そして、その風景の中心みたいに白須賀が立っていた。屋上の扉の前に立つ姿は、まるで最初からここで僕を待つことが決まっていたみたいだった。
「遅いよ」
「普通だろ」
「私にとっては遅いの」
白須賀は僕の顔を見て微笑む。そのまま、いつものように自然な動作で距離を詰めてきた。肩が触れる、どころではない。僕が柵際まで歩くのに合わせて並び、そのまま逃がさないような位置へ立つ。
今日の白須賀は、いつもよりさらに静かだった。
明るく華やかで、誰から見ても完璧なトップアイドル。その仮面を被る余裕はちゃんとあるのに、僕の前ではその下の温度を隠そうともしない。
「林間学校の写真、見たよ」
「見られたな」
「うん。見た」
白須賀はそこで、僕のネクタイへ手を伸ばした。
曲がってもいない結び目を、わざとゆっくり直すみたいに触れてくる。指先が喉元のすぐ下をかすめる。その動きはやわらかいのに、息が詰まる。
「瑠美ちゃんと楽しそうだったね」
「班で一緒だっただけだよ」
「うん。でも、そういう“だけ”で増えるものもあるでしょ?」
否定できなかった。
白須賀は僕の沈黙をそのまま受け取って、小さく笑う。
「沢渡くん、優しいから」
その言葉のあと、指先が喉元から胸元へ下りる。
「でもね、その優しさをいろんな子に配られるの、もうあんまり許せないかも」
「白須賀さん」
「だって、分かっちゃったもん」
白須賀はまっすぐ僕を見上げる。
「私、沢渡くんが他の子と少し仲良くしてるだけで、すごく嫌になる」
そこで一歩、さらに近づく。
トップアイドルの綺麗な顔が近い。近すぎて、逃げたら余計に意識しているみたいになる距離だった。
「次、また他の子と楽しそうにしてたら、たぶん私、もう少し分かりやすく困らせるよ」
困らせる、という言葉は柔らかかった。
でも、その中身は全然柔らかくない。
「みんなの前でも、沢渡くんが誰のことを一番見てるべきか、ちゃんと思い出させる」
それは脅しだった。
白須賀はそれを脅しだと自覚した上で、少しも表情を崩さずに言っている。綺麗に笑ったまま。だから余計に怖い。
そこへ、屋上の扉が開く音がした。
振り向かなくても分かる。
天雨だった。
彼女は静かな足取りでこちらへ来ると、僕と白須賀の距離を見て、一瞬だけ目を細める。
「仲がいいのね」
「見ての通りだよ」
白須賀が先に答えた。その返し方が、すでに刺々しい。
天雨は僕の反対側へ立つ。これでまた、林間学校の時と同じだ。左右から違う種類の熱で挟まれる形になる。
「沢渡くん」
天雨が呼ぶ。
「今日の放課後、少し時間ちょうだい」
「……用事?」
「あるわ。かなり」
白須賀がすぐに口を挟んだ。
「放課後なら私もあるんだけど」
「先約は?」
「今作るところ」
二人とも、譲る気がない。
しかもどちらも、僕に選ばせるようでいて、実際は選ぶ余地を削ってくる。僕が曖昧にした分だけ、向こうが詰めてくるのだと改めて分かった。
※ ※ ※
その日の放課後、結局僕は最初に天雨へ捕まった。
教室を出た瞬間、廊下の窓際で待っていた彼女に袖を引かれ、そのまま人の少ない特別棟の階段踊り場まで連れてこられる。
静かだった。
夕方の光が差し込むだけの、ほとんど使われていない場所。ここなら、多少距離が近くてもすぐには誰にも見つからない。
「どうしたんだよ」
僕がそう聞くと、天雨はしばらく黙っていた。
その沈黙が妙に長い。何かを押し殺しているのが分かるくらいには長い。
「……林間学校、ずっと見ていたの」
「うん」
「白須賀さんも、結城さんも、あなたに触れる時に躊躇がない」
天雨は壁際に立ったまま、まっすぐ僕を見る。
「私は、ああいうのが得意じゃない」
その通りだと思った。天雨は感情をむき出しに押しつけるタイプではない。ないはずだった。
「でも」
次の瞬間、天雨は一歩で距離を詰めた。
僕が息を呑むより早く、背中が階段踊り場の壁へ軽く触れる。強く押したわけじゃない。逃げようと思えば逃げられる。なのに、目の前の天雨の目があまりに真剣で、身体が動かなかった。
「得意じゃなくても、黙って見てるのはもう限界」
静かな声だった。
でも、その静けさの中にあるものは、これまでで一番強かった。
天雨は僕のネクタイを掴んだ。乱暴ではない。けれど、確実にこちらを自分の方へ引き寄せるだけの力がある。
「あなたが他の子に触れられてるのを見るたび、すごく嫌になる」
言葉の一つ一つが落ちてくる。
「白須賀さんに触れられるのも、結城さんに笑いかけるのも、瑠美さんと近くなるのも、全部」
そこで天雨は、ほんの少しだけ唇を噛んだ。
感情を抑えきれない時の、彼女の小さな癖だと初めて知った。
「だから、分からせたい」
僕の喉が小さく鳴る。
「あなたが誰のものか、じゃなくて」
天雨はそこだけ少し言い直すみたいに息を整える。
「少なくとも、誰にだって同じ顔をしていい人じゃないってことを」
それは、彼女なりの限界線だったのかもしれない。
次の瞬間、天雨は僕の首元へ顔を寄せた。
何をされるのか理解するより先に、柔らかな髪が顎へ触れ、冷たい吐息が皮膚を撫でる。そして、喉元の少し下へ、熱が落ちた。
キスだった。
短く、でもはっきりとした。
吸いつくような感触が一瞬だけ残り、離れたあと、そこがじんわり熱を持つ。天雨は顔を上げた。その瞳が少し揺れている。
「これで、今日のあなたは少しだけ私のことを意識してる」
静かな言い方だった。
「そのまま白須賀さんの隣に戻って、平気な顔できる?」
できるわけがない。
首元へ残った感触が、あまりにも生々しい。
「……美鈴さん」
「嫌だった?」
聞き方がずるい。
嫌かどうかで言えば違う。違うけれど、だからといって簡単に肯定もできない。僕が言葉を探しているうちに、天雨は少しだけ目を細めた。
「答えなくていい」
その代わり、と彼女は続ける。
「次に他の子が近づいてきた時、今のこと思い出して」
※ ※ ※
その後、当然のように白須賀に見つかった。
教室棟へ戻る途中、廊下の曲がり角に彼女は立っていた。いつからそこにいたのか分からない。分からないまま、白須賀は僕の顔を見て、次に首元へ視線を落とした。
「……へえ」
その一言だけで、血の気が引く。
天雨のキスの痕は、うっすら赤くなっていたらしい。
白須賀は笑っている。笑っているのに、今までで一番目が冷たかった。
「美鈴ちゃん、案外やるんだね」
「白須賀さん、これは――」
「説明しなくていいよ」
そう言って、白須賀は僕の手首を取った。表向きにはただ廊下を歩くために軽く引いたように見えるだろう。だが実際には、かなり強い。
そのまま連れていかれたのは、誰もいない音楽準備室だった。扉を閉める音が思った以上に大きく響く。
「ねえ、沢渡くん」
白須賀は背を扉に預けたまま、ゆっくりこちらへ近づく。
「私、さっき言ったよね。次、他の子と仲良くしてたら、もう少し分かりやすく困らせるって」
「これは仲良くとかそういう話じゃ――」
「私にはそう見えない」
そこで白須賀は、僕の首元へ迷いなく手を伸ばした。さっき天雨が触れた場所へ、そのまま指先を重ねる。
「ここに付けるんだ」
嫉妬している。分かるくらい露骨に。なのに白須賀は表情を崩さない。
「沢渡くん、私の前で他の子の痕を残してくるの、だいぶひどいよ」
ひどいのは状況だ。なのに、その理不尽さごと全部飲み込まれそうになる。
白須賀はそのまま僕の胸元を押し、壁際まで追い詰めた。強引すぎるほどではない。でも、逃がす気のなさだけは分かる。
「……白須賀さん」
「なに?」
「怒ってる?」
「すごく」
即答だった。
そのくせ、声は甘い。
「でもね、怒ってるからこそ、ちゃんと教えてあげないといけない気がするの」
何を、と聞く前に、白須賀は僕の肩を引き、自分の方へ身体を寄せさせた。そしてそのまま、僕の首筋へ唇を押し当てる。
天雨のより、ずっとゆっくりだった。
熱を刻みつけるみたいな口づけ。離れたあとには、さっきより濃い熱が残る。たぶん見える。制服の襟で隠れない位置に、わざと。
「これで少しは分かるでしょ」
白須賀は息を整えながら言う。
「沢渡くん、そう簡単に他の子のものみたいな顔しないで」
もう、そこまで来ていた。
分からせるために痕を付ける。そんな行動を、白須賀はためらいなくやってのける。しかもトップアイドルの綺麗な顔のまま。
「次はもっと困らせるよ」
囁きが耳に残る。
「それでもいいなら、好きにして」
※ ※ ※
――そして、その日の帰り道。
校門を出たところで、今度は結城に会った。
まるで全部知っていたみたいなタイミングだった。
「沢渡くん」
別学校の制服姿の結城は、夕方の人混みの中でもすぐ分かった。明るい笑顔。手を振る仕草。傍から見れば、ただ偶然待っていた旧友にしか見えない。
けれど近づいてきた結城は、僕の首元を一目見て、笑顔のまま固まった。
「……へえ」
その反応、今日二回目だった。
「誰につけられたの?」
声音は明るいままだ。明るいままなのが一番怖い。
「結城」
「白須賀さん? それとも、あの黒髪の子?」
逃げ道がない。
結城は数秒黙ったあと、ふっと笑った。
「そっか。みんな、ちゃんとやるんだ」
その言い方は軽いのに、中身が重すぎる。
「なら、私だけ大人しくしてるの無理かも」
次の瞬間、結城は僕の手首を掴んだ。そのまま人通りの少ない脇道へ引っ張る。力が強い。陽キャになった外見とは別の、昔から秘めていた執着がそのまま手に出ているみたいだった。
「ねえ、沢渡くん」
「落ち着けって」
「落ち着いてるよ」
落ち着いている人間の目じゃなかった。
「でもさ、沢渡くんの体に他の子の気配が残ってるの見たら、私もちゃんと残したくなるじゃん」
結城はそう言いながら、僕の胸元へ手を当てる。制服越しに心臓の位置を探るみたいに。
「ここでもいいかなって思ったけど」
手が上がって、喉元近くで止まる。
「見えるところの方が効くよね」
冗談めかして言っているのに、本気だった。
僕はそこで結城の手首を掴み返した。
「やめろ」
少し強めに言う。
結城は一瞬だけ目を見開いた。けれど次に浮かんだ笑みは、どこか嬉しそうですらあった。
「……そういう顔、好き」
「ふざけるな」
「ふざけてないよ」
結城は僕に掴まれた手首を見下ろして、それからまた僕を見る。
「ちゃんと止めてくれるの、ちょっと安心した」
意味が分からない。
「でも、そのくらいしないと嫌だってこと、分かって」
声が少し震える。
「私、帰り道に待つだけじゃ足りない。沢渡くんの中に、他の子より濃く残りたい」
そこまで言ってから、結城はふっと力を抜いた。
「今日はやめる」
そして次の瞬間、僕の胸元に顔を押しつけるみたいに寄りかかる。
「でも次は、止めるならもっとちゃんと止めてね」
そう囁いた結城の体温が、夕方の空気の中でやけに熱かった。
※ ※ ※
帰宅して鏡を見た時、僕はしばらく言葉を失った。
首元には、うっすらと二つの痕が残っていた。天雨の静かな熱と、白須賀の分かりやすい独占の印。そのどちらも消えきっていない。
しかもスマホには、結城からのメッセージが届いていた。
『今日は我慢したよ。えらい?』
『でも次は私も残すから』
『沢渡くんの体、もうみんなに使われるみたいなの嫌』
文字だけなのに、重い。
ベッドへ座り込んだ僕は、ようやく理解した。
林間学校は終わった。
でも、彼女たちの感情はそこで収まるどころか、明らかに一段階壊れた。
嫉妬したら、触れてくる。
奪われそうになったら、痕を残す。
誰のものなのか分からせたいと、本気で思っている。
しかもそれを、明るく笑いながらやる者もいれば、静かな顔のままやる者もいる。
僕はまだ答えを出せていない。
なのに彼女たちは、その“決めきれない時間”ごと奪い合うつもりでいる。
机の上でスマホがまた震えた。
今度は白須賀だ。
『帰った?』
『首、隠した方がいいよ』
『でも、私の方は消さないでほしいかも』
直後に、別の通知が重なる。
天雨だった。
『ちゃんと冷やして』
『でも、今日は私のことも忘れないで』
重い。
あまりにも重い。
そしてたぶん、これでもまだ序章だ。
林間学校でむき出しになった彼女たちの感情は、日常へ戻ったことでむしろ行き場を失い、そのぶんだけ僕へまっすぐ向かってきている。
僕は首元へ手を当てた。
熱が残っている。どの熱かなんて、もう分からないくらいに。
この先、たぶんもっと面倒になる。
もっと甘くて、もっと逃げ場がなくて、もっと危うい形で。
それでも僕は、まだ誰の名前も口にできないまま、その重たすぎる愛情の真ん中へ立たされていた。
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