もう前よりずっと重いよ
結局、その夜はほとんど眠れなかった。
上段からは時折、結城の寝返りの音がした。向かいのベッドからは、白須賀の気配が消えなかった。暗がりの向こうに天雨の姿はないのに、廊下で交わした言葉だけが頭の奥に残っていて、目を閉じるたびに、誰の声音も誰の熱も薄れてくれなかった。
寝たら明日が来る。
明日が来れば、この林間学校は終わる。
終わるはずなのに、終わったあとにこそ本番が待っているような気がして、僕は妙に息苦しいまま朝を迎えた。
※ ※ ※
最終日の朝は、空気そのものが少し違っていた。
昨日までの浮ついた高揚感とは別の、終わりが近いことを知っているざわめき。廊下を歩く生徒たちの声も、食堂に並ぶ列も、どこか名残惜しさを帯びている。
そんな中で、白須賀はやはり目立っていた。
ジャージ姿で髪を軽くまとめているだけなのに、周囲の視線を集める力がまるで弱まっていない。朝食の配膳を受け取るだけで「本物ってやっぱりすごいな」と囁かれ、他校の女子たちに写真を頼まれても、嫌な顔ひとつせず完璧に応じている。
誰から見ても、国民的トップアイドルの白須賀沙也加だ。
けれど、そのアイドルが僕の前に座った瞬間だけ、目の色が変わる。
「沢渡くん、今日で終わりだね」
味噌汁の湯気の向こうから、白須賀が静かに言った。
「そうだね」
「でも、終わるだけじゃないよね」
その言い方に、僕はすぐ返事ができなかった。
白須賀は小さく微笑む。周囲には柔らかな笑顔にしか見えないのに、僕には分かる。その笑みの下で、彼女の感情は昨夜よりさらに重くなっている。
「私、帰ったら学校にちゃんと戻るでしょ?」
「……うん」
「そしたら、また毎日隣だね」
昨日までは林間学校という非日常が彼女たちを強くしているのだと思っていた。でも違う。終わりが見えたからこそ、みんな急に遠慮を捨て始めている。
結城がそこで割って入るように、僕の隣へ盆を置いた。
「沢渡くん、食べるの遅いと置いてくよ?」
「別に置いていけばいいだろ」
「やだよ。最後の日くらい、ちゃんと一緒にいたいし」
その言葉も軽くない。結城は明るい顔のまま、テーブルの下で僕の膝に軽く触れてきた。偶然を装う気すらない触れ方だった。
少し離れた席には天雨がいて、静かにこちらを見ていた。何も言わないくせに、僕が白須賀と結城の間にいるだけで、空気がじわじわ冷えていくのが分かる。
朝からもう逃げ場がなかった。
※ ※ ※
最終日のプログラムは、班ごとの片付けと、川辺での簡単な体験学習だった。
外班で行動する最後の時間。
雪見は最後まで軽かった。「終わるの早すぎじゃね?」と笑いながら荷物を運び、瑠美はそれに頷きつつ、何度も僕の近くへ来た。昨日までのようにただ明るいだけではなく、もう隠す気のない視線をしている。
川辺で班ごとに石を積んで簡易の目印を作る課題が出た時も、瑠美はしゃがみ込んだまま僕を見上げた。
「沢渡くん、これ終わったらもう学校違うんだよね」
「まあ、そうだな」
「じゃあ、今のうちにいっぱい見とこ」
冗談っぽい言い方だった。
でも、瑠美は本当にそうするみたいに、じっと僕を見た。川の光を受けた瞳がやけにまっすぐで、からかい半分に流せない。
「私ね、結構本気で気になってる」
ぽつりと落ちたその一言に、雪見が「おー」と面白がるような声を漏らす。
その直後、天雨が石を置く音が、ひどく硬く響いた。
顔を上げた彼女は、いつも通り静かな表情だった。静かなまま、僕へ言う。
「沢渡くん、それ取って」
差し出された手は石を受け取るためのものだったのに、僕が渡そうとした瞬間、天雨はわざと僕の指へ長く触れた。冷たい指先が、一瞬だけ僕の皮膚を挟む。
「ありがとう」
それだけ。
それだけなのに、瑠美を見もせずに僕へ触れてくるそのやり方が、あまりに露骨だった。
雪見ですら気づいたらしく、苦笑しながら言う。
「沢渡、お前ほんと最後まで忙しいな」
「僕のせいじゃない」
「半分くらいはお前のせいだろ」
反論できなかった。
体験学習が終わって、最後に班写真を撮る流れになる。僕たち四人は川を背に並んだ。雪見が腕を組み、瑠美が僕の左側に寄る。天雨は右側に立ち、シャッターが切られる瞬間だけ、誰にも見えない角度で僕の袖を掴んだ。
写真の中では、きっと普通の班の笑顔に見えるだろう。
でも、掴まれたその指先だけが、普通じゃなかった。
撮影が終わったあと、瑠美が僕を呼び止める。
「ねえ、沢渡くん」
「ん?」
「私、帰っても結城に頼んで連絡するから」
明るく言ったあとで、少しだけ声を落とした。
「返してくれなかったら、結構へこむ」
それは可愛げのある脅しみたいな言い方だった。けれど、瑠美ももう十分に“軽いだけの子”ではなかった。
「……返せる時は返すよ」
「うん。じゃあ期待して待つ」
笑っているのに、目の奥にある執着の芽だけが静かに残る。林間学校の二日間で、彼女の中にも確実に何かが残ってしまったのだと分かった。
※ ※ ※
宿へ戻って荷物をまとめる頃には、終わりの気配がいよいよ濃くなっていた。
部屋の中は行きの時より散らかっていて、でもどこか寂しい。二段ベッドも、窓の外の山も、昨夜まであれほど濃かった空気をそのまま残しているくせに、もうすぐ全部が片付いてしまう。
結城は自分の荷物をまとめながら、何度も僕の方を見ていた。白須賀は静かな顔でボストンバッグへ服を詰めている。けれど、二人ともどこか落ち着かない。
先に動いたのは結城だった。
「沢渡くん、ちょっと手伝って」
呼ばれて近づくと、結城はバッグのファスナーに触れたまま、急に僕の手首を掴んだ。そしてそのまま、荷物の影になる位置へ半歩引く。
「最後だから、言っとく」
近い。吐息が触れるくらい近い。
結城は真っ直ぐ僕を見た。もう冗談めかさない。からかったり、明るく誤魔化したりもしない。
「私、帰っても絶対に終わらせないから」
手首を掴む指先に力がこもる。
「沢渡くんが答えを出し切れないなら、その間ずっと私が入り込む。学校が違っても、会いに行くし、連絡するし、思い出す隙なくする」
「結城」
「だって、そうでもしないと嫌だもん」
その声は少し震えていた。
「待つだけなんて無理。待ちながら、ちゃんと私を増やしていく」
言っていることはめちゃくちゃなのに、結城は本気だった。怖いくらいに本気で、明るいままの顔でそれを言い切る。
「沢渡くんの中、他の子と同じ量じゃやだ」
そう言って、結城は僕の掌を自分の胸元へ押し当てた。布越しでも分かる鼓動の速さ。あの日、林の中で聞かせたがった心臓の音より、今の方がずっと激しい。
「これ、覚えてて」
結城は泣きそうでも怒ってもいなかった。ただ、切羽詰まるくらい真剣だった。
「私、沢渡くんのことでこんなになるんだよ」
そのまま一瞬だけ額を僕の肩へ押しつけてから、何事もなかったみたいに離れる。離れたあとに残る体温だけが、誤魔化しようもなく濃かった。
そして、白須賀はそれを見ていた。
見ていた上で、何も言わなかった。
その代わり、部屋を出る直前になって僕を窓際へ呼ぶ。
「ねえ、沢渡くん」
「どうした」
「結城さんって、分かりやすくていいよね」
「……嫌味に聞こえる」
「嫌味じゃないよ」
白須賀は笑う。アイドルの笑顔じゃない。ずっと近くで見てきた、僕だけに向ける方の笑顔だった。
「私はもっと我慢できるから」
その言い方に、背筋が冷えた。
「我慢できるし、待てるし、ちゃんと笑っていられる。みんなの前では完璧な白須賀沙也加でいられる」
彼女は自分の髪を耳にかける。その仕草ひとつさえ綺麗なのに、言葉の中身だけが少しも綺麗じゃない。
「でもね」
白須賀は僕のネクタイの結び目にそっと触れた。直すみたいに見せかけて、その実、指先はまったく急いでいない。
「だからこそ、誰にも気づかれないまま、一番近くへ行けるんだよ」
息が詰まる。
彼女は笑ったまま続ける。
「沢渡くんが決められない時間ごと、私がもらう」
その一言が、今までで一番重かった。
「学校に戻ったら、また隣でしょ? 授業中も、お昼も、放課後も、毎日少しずつ私で埋めるから」
逃げ場を塞ぐみたいに、ネクタイを整えた指が喉元まで上がる。そこへ軽く触れられただけで、僕の脈が速くなるのを彼女はもう知っている。
「答えが出る前に、沢渡くんの中で私が一番になるかもしれないね」
冗談みたいに言うくせに、少しも冗談ではなかった。
白須賀は最後に喉元から指を離すと、整った顔のまま、でも少しだけ危うい目で僕を見る。
「私、負けるつもりないよ」
※ ※ ※
宿の前には、すでに帰りのバスが並んでいた。
名残惜しそうに写真を撮る生徒、連絡先を交換する者、教師に急かされて駆け足で乗り込む者。それぞれの林間学校の終わりがそこにあった。
そんな喧騒の中でさえ、白須賀の周りだけは小さな人だかりができていた。他校の生徒たちが「最後に一枚だけ」と頼み、白須賀は一人ずつ笑顔で応じていく。最後の最後まで完璧だ。あれだけ個人的な感情を煮詰めておきながら、表では一切乱れない。やっぱり彼女は、本物のアイドルだった。
けれど、その本物のアイドルは、カメラへ笑いかける合間にも何度も僕を見ていた。
結城も少し離れた場所から、友達と話しながら僕を見ている。天雨は静かに荷物を持ったまま、その全部を見ていた。
バスへ乗り込む直前、天雨が最後に僕の前へ来た。
「沢渡くん」
「……うん」
「私、待てるって言ったけど、黙ってるだけとは言ってないわ」
小さな声だった。周囲には聞こえない。それでも、ひどく真っ直ぐだった。
「帰ってからも、私は私のやり方であなたの隣に行く」
天雨は少しだけ目を伏せる。
「あなたが決めきれない時間を、他の誰かだけに使わせるつもりはないから」
静かなのに、一歩も引かない。
「だから、覚悟して」
その“覚悟して”は、脅しでもお願いでもなく、ただの予告だった。
そして僕が返事をする前に、天雨はほんの一瞬だけ僕の袖を引いた。人目があるから、それ以上はしない。しないまま去っていく背中の方が、かえって重かった。
※ ※ ※
帰りのバスは、行きより静かだった。
疲れて眠る生徒もいるし、写真を見返して騒いでいるグループもいる。山道を下る振動の中で、窓の外の緑が少しずつ遠ざかっていく。
僕の隣には、当然みたいな顔で白須賀が座っていた。
最初から決まっていたみたいに、誰もそれを止めなかった。止められなかったという方が正しいのかもしれない。
白須賀は乗ってすぐ、窓の外を見ながら小さく息をついた。その横顔は疲れているようにも見えるのに、どこか満たされてもいた。
「終わっちゃったね」
「……そうだな」
「でも、始まった気もする」
僕は何も返せなかった。
白須賀は少しだけ身体を寄せてきた。肩が触れる。太ももが近い。狭いバスの座席だから、という言い訳が通じるぎりぎりの距離だった。
「沢渡くん」
「なに」
「私ね、帰ったらもっと本気出す」
さも当然みたいに言われて、息が詰まる。
「今までも本気だったけど、学校のこととか、お仕事のこととか、色々ちゃんとしてたから我慢してたの」
白須賀は自分の指先を僕の手の甲へそっと乗せた。周囲には見えにくい位置だった。
「でも、もうあんまり我慢しない」
指先がゆっくり動く。撫でるというより、確かめるみたいに。
「沢渡くんが決めきれないなら、その迷いごと抱きしめるよ」
その言葉が、今までのどれよりもぞっとするほど甘かった。
「迷ってる時間に、私のこといっぱい考えさせる。学校でも、帰り道でも、お休みの日でも」
白須賀はそこでようやく僕の方を見る。
「決められないなら、決められなくなるくらい私を好きにさせる」
もう、そこまで来ていた。
答えを待つのではなく、答えそのものを自分の方へ傾けるつもりでいる。しかもそれを、明るくきれいな顔のまま言えてしまう。
僕は窓の外へ視線を逃がした。流れていく景色がやけに速い。
でも、逃げても意味はなかった。白須賀の体温も、指先も、声も全部近すぎた。
後ろの席では結城が、前の方では天雨がいる。そのどちらの視線も感じる。見なくても分かる。林間学校が終わることで薄れると思っていたものが、逆に全部濃くなっていた。
もう“楽しかった行事”の範囲には収まらない。
この二日間で、彼女たちはみんな、自分の気持ちをただ抱えている段階を越えてしまった。
待つと言いながら、全員が待つだけでは終わらないつもりでいる。
僕はまだ答えを出せない。
出せないまま、それでも逃げずに向き合うしかない。
けれど、その向き合う時間すら、彼女たちは奪い合うように欲しがっている。
バスが山を下り、街の気配が少しずつ戻ってくる。
その揺れの中で、白須賀が僕の肩へそっと頭を預けた。
「沢渡くん」
「……なに」
「帰っても、ちゃんと覚えててね」
眠たげに聞こえる声だった。けれど、その中身は少しも緩んでいない。
「この二日間で、私たちみんな、もう前よりずっと重いよ」
自覚しているくせに、白須賀はそれを隠さなかった。
「だから、もう前みたいには戻れない」
その通りだと思った。
僕も、きっと。
林間学校は終わる。
でも終わるのは行事だけで、その中でむき出しになった感情は、これから学校へ戻って、日常の中でさらに厄介に育っていく。
窓の外を流れる景色を見ながら、僕は静かに息を吐いた。
この二日間は、終わりじゃなかった。
彼女たちの重たすぎる想いに、本当の意味で追い詰められていく始まりだった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




